百年とすこしの愛
夏休み初日。学期中に片付けられなかった諸々の仕事にひと段落ついた冨岡は、ぐったりとワーキングチェアに寄りかかり、慣れないデスクワークによって蓄積した眼精疲労に顔をしかめ、眉間にぐっと指をあてた。そうこうしているうちに、ドアの外で軽やかな足音…
文章ぎゆしの
壊れるくらい抱きしめて
ベランダの小さな家庭菜園で水やりをするしのぶは、1ヶ月前に植えたばかりのディルの育ちがよく機嫌がいい。鼻歌まじりにじょうろで水をやっている。ベランダのフェンスにはぐるぐるとクレマチスの蔓が巻きつき、淡い紫や白の美しい花を咲かせている。クレマ…
文章童しの
恋する惑星
静かな一人暮らしの部屋に、ブーンと冷蔵庫の鈍い機械音だけが響いていた。しのぶは眠りから目覚め、ベッドから起き上がり、顔を洗い、部屋着のまま顔に化粧を施した。そのあと、冷蔵庫の扉を開け、お気に入りのグァバジュース、牛乳、スポーツドリンクを取り…
文章童しの
やさしい雨が窓をたたいた
高校を卒業してすぐに、車の免許をとった。別に、とくべつ車が好きとか、行きたい場所があるとかってわけじゃないけど。車を運転できるって、ちょっと大人みたいでしょ。免許をとったあと、しばらくの間は運転の練習をして、5月の連休に彼女をドライブデート…
文章いのマリ
天国へようこそ
今日の玲太くんは不機嫌だ。その理由はわかっていた。明日に迫ったイギリス出張が憂鬱なのだ。彼は着々と朝食当番をこなすわたしの背中にしがみついたまま項垂れていた。今朝は起きた時からずっとこんな調子だ。「お仕事遅刻しちゃうよ?」サラダボウルの中の…
文章玲マリ
アンビバレントな僕らをゆるして
マリィには可愛いボーイフレンドがいた。同じ中学校の同級生で、同じ部活の男の子。ちょっと気が弱いところもあるけど、明るい性格でぱっちりお目目がキュートな彼とマリィはお似合いのカップルだった。だから、彼が羽ヶ崎高校に進学することになっても、「違…
文章玲マリ
水面の彼
一週間前、彼女と初めてキスをした。想像していたよりずっと薄くて柔らかかった彼女の唇と、触れ合っていたふたりの肌の感触が頭から離れない。オレは沸騰しそうな頭を冷やすように、水泳の補修が終わったプールの水面に頭を突っ込んでいた。水泳の成績が悪か…
文章行マリ
グーテンベルクの銀河系
本多くんの部屋には背の高い立派な本棚がある。そこには、背表紙からそのずっしりとした厚みを感じる図鑑や専門書がずらりと並んでいた。「それ、プラネタリウム?」薄暗い光の漏れる窓にピシャリと遮光カーテンを引き、なにやらごそごそと準備をしている本多…
文章行マリ
待ちきれない、日々のきらきら
――ダーホンが今、恋をしているらしいよ!元はばたき学園中等部出身の女子たちのあいだで、そんな噂話がまことしやかに囁かれていた。当のオレはもちろんそれを知っていた。初めて知った時は、そりゃ少しは驚いたけど、でもまだこれは根も葉もない噂話。彼女…
文章行マリ
ひとさじの欺瞞
茶色い小瓶、白い錠剤が入った大きな瓶、彼女が常備している漢方薬が3種類、袋に入った粉薬。僕は家中の薬をテーブルに並べて、呆然とその前に立ち尽くしていた。それからほどなくして、背後からガチャっと玄関のドアが開く音がした。パタタと軽やかな足音が…
文章やのマリ
夜明け過ぎの二月の雪
その違和感を感じたのは3ヶ月前のことだった。彼の帰りが遅かった日――打ち上げか稽古か、何らかの仕事が長引いたのだろうと特に気にとめずわたしはベッドで眠っていた。夜更けに彼が帰ってきて、枕元で「ただいま」とやさしく囁いてわたしの頬にキスした。…
文章やのマリ
エデンの歌、春に咲く花
シャワー室から出てきた彼女が、ガウン姿のまま寝室のベッドに腰掛けペディキュアを塗っている。彼女がうつむいて、しどけなく耳にかけられた濡れ髪が一房、肩に垂れる。そんな光景すらも、去年の冬に彼女と訪れたルーヴル美術館のモナリザより僕の心を掴んで…
文章やのマリ