待ちきれない、日々のきらきら

――ダーホンが今、恋をしているらしいよ!

元はばたき学園中等部出身の女子たちのあいだで、そんな噂話がまことしやかに囁かれていた。

当のオレはもちろんそれを知っていた。
初めて知った時は、そりゃ少しは驚いたけど、でもまだこれは根も葉もない噂話。
彼女に迷惑が及ぶ可能性がない限りは「我関せず」を貫こう。
それが、オレの出した答えだ。
だってオレ自身も、自分が本当に彼女のことをどう思っているか、実のところ、まだよくわかっていないから。

だから、この世に本当に神様がいるのなら、答えを導き出す1%のひらめきを、どうかお恵みください。
こんな不毛な神頼みをしちゃいたくなるほどには、オレは戸惑っていた。

***

「あ!おーい」
ショートヘアの毛先をそよ風になびかせて、中庭にたたずむ彼女に呼びかける。

「本多くん」
振り返った彼女の指先にはアオスジアゲハがちょこんと止まっていた。
「綺麗だね」
思わず感嘆の息が漏れる。
もちろん蝶のことではあったんだけど、それよりも蝶を指先に遊ばせている彼女の姿が綺麗だったんだ。

「うん。じっと見てたらわたしの手に止まったんだ」
「きっと君が優しい人だってこと、蝶にも伝わってるんだね」
「そうかな?」
「あるいは、花だと思われてるとか」
「ふふ」
それはさすがにないよ、とはにかんでいる彼女の笑顔は文字通り、花のように素敵なんだけどな。
時折髪が揺れて、いい匂いもするし…。

彼女のいる世界はこんなふうに、いつだってきらきらと光ってる。それがオレの心を惹きつけて離さない。

オレが真剣に考え込んでいると、彼女が言った。
「そういえば本多くん、わたしになにか用事があったんじゃないの?」
そうだった。だからいま、こうして彼女を呼び止めたのだ。

「あっ…!そだ、今週の日曜日、空いてる?一緒に水族館に行かない?」
これは、正真正銘、デートのお誘いだった。

まだ彼女に対して「デート」だなんて言葉を使ったことはないんだけど。
それでもきっと、オレの表情とか身振りから、彼女をめちゃくちゃ意識しちゃってることや、必死になって遊びに誘ってることはバレバレなんだろうな。

一方で、彼女は顔を曇らせていた。
「あの、…ごめんね?今週は外せない用事があるんだ」
その言葉に、オレの頭いっぱいに、ガーンと大きな衝撃が走る。
彼女に遊びの誘いを断られたのは、今回が初めてだった。
いつもは二つ返事で「うん、いこ!」とにっこり微笑んでくれる彼女の、想定外すぎる返事にオレは狼狽えていた。

「そ、そっか!また誘うよ」
「うん、ごめんね…」

ズーンと身体が重い。
以前の自分であれば「たまたま用事でもあるのだろう」で済ませていたと思うけど、今はただ悪い考えばかりが頭に浮かびあがる。

――もしかして、ほかに好きな人でもできたのかな。

そういえば先々月のバレンタインデーも、オレにくれた手作りチョコの他に、ミーくんやリョウくんにもあげてた…。
しかもミーくんにあげてたやつ、ちょっといいやつだった。
それでも手作りもらえたのオレじゃん!ってその時はあんまり気にしてなかったけど。

考えれば考えるほど負のスパイラルに陥って、うーんとその場で項垂れるオレに、彼女が申し訳なさそうに言った。
「ごめんね?また今度、一緒に行こう」

オレの顔を覗き込む彼女はやっぱり世界一可愛くて、魅惑的な観察対象だ。
「うん!こっちこそ、気を遣わせちゃってごめん」
いい加減気を取り直して元気にならなきゃ、彼女を不安にさせちゃう。
そう思ってにっこり笑って彼女を見つめ返せば、彼女はすこしホッとしたように言った。

「あ…そうだ、わたし、本多くんにお願いしたいことがあるの」
オレの心はまたもや騒ついた。
「え、どしたの?」
「あのね、わたし、ピアスを開けたくて…」
「うんうん」
「それで、本多くんに開けて欲しいんだけど――」
「えっ!」
「やっぱり、ダメかな?」
「ど、どうしたの急に」

彼女の急な申し出にドギマギする。
いや、こんなことにドキドキするのって変なのかもしれない。
ピアスを開けるなんて、ピアッサーでがしゃん、そのたった一瞬の出来事なのだから。

でもやっぱり鼓動は高鳴っていた。
仮にも大好きな女の子のきめ細やかでつるつるした白い肌に穴を開けるのだ。

オレは未だかつて経験したことのない不思議な感情が心をくすぐっているのを感じていた。
――これが、いわゆるエロス、ってヤツ?
未知なるものは何だろうと構わず体験してきたオレだけど、こればっかりは専門外。
興味がないわけじゃないけど、相手がいなきゃ成立しないことだから。

慌てふためくオレを見て、彼女はくすりと笑っていた。
「いま、ピアスが流行ってるでしょ。今月号のはばチャでも特集されてたし。だからファッションに取り入れたくて」

それを聞いた時、なるほどそうか、と思った。
でも同時に、そのピアスは誰のためのオシャレなんだろう、とも思った。

――今週末のデートに、ピアスをしていきたいのだろうか?

さまざまな疑念が胸中を渦巻くなか、オレはなんだか嫌な気分になってきた。
もちろん、彼女の申し出の内容が、ではなく、嫉妬深い自分自身に対してだ。

すると、キーンコーンと昼休みの終わりを告げるチャイムがなった。
オレたちはお互いハッとして顔を見合わせる。
「ヤバい、オレ次移動教室だ!」
「わたしも次、体育だった!」

それで、オレは良いともダメとも返事しないまま、この話は中途半端な状態で強制終了させられてしまった。

だからその時のオレには、走り去っていく彼女が「考えといてねー!」と笑って手を振るのに、ただただ複雑な気持ちのまま手を振り返すことしかできなかった。

***

放課後。
オレが実験のために借りていた理科室に、彼女は現れた。

「本多くん!」
ガラリと理科室の扉が開き、彼女が嬉しそうにオレのもとへ駆け寄ってくる。
「あれっ?どうしたの、こんなところで」
オレは驚いて、思わず声がうわずった。
「本多くんに会いにきたの。ここなら会えるかなって」
「そ、そっか…」

正直、嬉しかった。
彼女が放課後にわざわざオレを探してここまで来てくれたのはこの時がはじめてだったから。
でも、オレの心の中にはまだ、昼休みの会話で感じたモヤモヤが残っていた。
なにより、彼女がオレを探していた理由も、きっとあの会話が関係しているだろうことはだいたい予想がついた。

彼女が上目遣いで僕を見る。そして言った。
「お昼休み、話してる途中にチャイムが鳴っちゃったでしょ?」

――そらきた。
今回ばかりは、自分の立てた仮説が正しかったことに、満足感はない。
だけど、「なにしてるの?顕微鏡、のぞいていい?」と親しげに話しかけてくれる彼女はやっぱり可愛かった。
放課後も隣に彼女がいてくれることがどうしようもなく嬉しくて、口元が緩んでしまう。

しばらくオレたちは顕微鏡の中のプラナリアを観察しあっては、ああだこうだと他愛のない会話をした。
オレは、ここ数ヶ月を費やしたプラナリアの再生速度に関する実験の経過を説明しながら、真剣な表情でレポートに耳を傾ける彼女に、まばたきも忘れて見惚れていた。

――今なら、彼女のあの申し出にも向き合えそう、かも
母さんと妹くらいしかまともに耳を傾けてくれなそうなオレの話を、彼女が興味深そうに聞いてくれるのがうれしくて、硬直していたオレの心はすこしずつ溶かされていった。

オレは意を決して、彼女に訊いてみることにした。
「あのさ、どうして…ピアスを開けたいの?」
顕微鏡の中のプラナリアの四角い頭がウニョウニョとうごめいている。
オレはレンズから目を離さずに、耳元で小さく息を呑んだ彼女の次の言葉を待っていた。
彼女はすこし緊張しているみたいだった。吐き出された言葉が、少し震えていたから。
「え、えっと、…好きな人に、振り向いてほしい、から? なのかな…」
予測できたその答えに、オレの胸はまたもやずっしり重たい石のように沈んでいった。
「そっか。その人はピアスが開いてる女の子が好きなの?」
半分ヤケクソになりながら、訊いてみた。
これで「うん」なんてうなずかれた日には、はばたき湾の藻屑となってこの世から消えてしまいたい気持ちになってしまうだろうことはわかっていたのに。

でも、彼女の反応はちょっと勝手が違っていた。
「わからない。好きな人に、近づきたい、だけ…」
彼女は悲しそうな表情で、目にはうっすらと涙を浮かべていた。

オレはハッとした。
――こんな必死なところ、初めて見たな…。
ここまで取り乱している彼女は珍しくて、単純に驚いた。
だからいつの間にか、嫉妬心を横において、心に湧いて出てきた好奇心の赴くまま、彼女の頬に手を滑らせ髪の毛を掻き分けて、彼女がギョッと身体を縮こませているのもお構いなしに、その小さな耳を指でつまみ出していた。

彼女の耳たぶは面積が狭く、薄かった。
「わざわざピアスを開けてまで、誰とデートするの?」
オレの行動に肩をびくつかせた彼女が、くすぐったそうに頬を赤く染める。
けどその唇は依然としてぎゅっと固く閉ざされたままだ。
相変わらず泣きそうな瞳で、じっとオレを見ていいる。
こっちをこんなにヤキモキさせといて黙ってるなんて酷いじゃないか、とささやかな仕返しをするつもりで、オレは彼女の耳元でこしょこしょとささやく。
「嫉妬しちゃうな」

すると、彼女は顔を真っ赤にして、羞恥のような笑顔のような不思議な表情のまま、さっきから浮かべていた涙をぽろぽろとこぼし、慌てふためいた様子で言った。
「な、何ならピアスじゃなくてもいいの!じゃあ、その、わたしも本多くんみたいに髪の毛、脱色しようかな――」
その意外すぎる言葉に、流石のオレも思考回路が停止した。
「え?」
「本多くん、ヘアカットとカラー、得意なんだよね、わたしも――」
「いやいや。ちょっと待って」
慌てた様子のままポロポロ涙を流している彼女を制する。
――いったい今、何が起きてるの?
オレは、こんがらがっている思考を収拾すべく、現状の整理をする。

「つまり、君はオレに近づきたくて、ピアスを開けたいし髪を脱色したいの?」
驚きを身体いっぱいに表現したくて身振り手振りを添えて問い掛ければ、
「うん」
と彼女が恥ずかしそうに泣き腫らした顔でうなずいた。

――なんてこった!!
オレのどんより気分にはすっかり晴れ間がさしていたけど、自分の疑念は完全に晴らさないと気が済まない性分なので、たまらず彼女に質問を被せる。
「じゃ、じゃあ、どうして今週末はデートできないの?」
意図せず、雨の日に段ボールに入れられて公園に捨てられた子犬のような、情けない声が出た。
彼女はちょっと意外そうな顔をして、それからすぐにころころと鈴の音のような声で笑った。
「それは、御影先生の課外授業だよう!」
「あ、え、そなの?」
ショックと悲しみの連続ですっかり冷え切っていた心の奥に、泉のように温かい気持ちが溢れてくる。

「なんか、一人で勝手に悶々として、君に嫉妬して…オレ、馬鹿みたいだな」
ホッとして思わず本音がだだ漏れてしまったけど、もう、お構いなしだ。
――けど、彼女も遠回しにオレのこと好きって言ってるし、もう、いいよね?
そう思って彼女の方を見れば、そちらも同じような気持ちだったみたいで、くすくすと笑っている。
「本多くん、嫉妬してたんだ。あと、『デート』って言った」
「あ、あはは…バレちゃしょうがないね」
彼女はオレを見つめたまま、瞳をきらきらさせて微笑んでいる。
オレにとって、この世で一番興味深くてきらきらした、彼女のいる世界。
それが今日も変わらず目の前に在り続けてくれることに、思わず安堵のため息が漏れる。

「あ、でも髪の毛は脱色しないで欲しい…かな。オレ、君の髪が好きだから」
「そう?」
オレが言うと、彼女は指先でさらりと襟足の髪をひとすじすくって、嬉しそうに笑った。
「でも、そうだな――そんなにヘアカット・ダーホンのお客さんになりたいなら、前髪カットだけサービスするよ」
クイズ抜きでね、とウインクしたら、彼女は驚いた顔で目を丸くした。
「!いいの」
「そのかわり、オレ好みの前髪になっちゃうけどいい?」
そう言い捨ててさっそく理科準備室に新聞紙をとりに走れば、背後で彼女が「それって、すっごーく短くされちゃうとか?」と訝しげな顔をして首を傾げていた。

オレは理科準備室から持ってきた新聞紙に丸く穴をくりぬき、簡易的な散髪ケープを作って彼女に被せた。
彼女を椅子に座らせて、前髪にハサミを入れるべく顔を近づけて目線を合わせれば、そのきらきらな瞳とバチっと目があった。
「なんか、恥ずかしいかも?」
はにかむ彼女の顔を見ていたら、思わずさっきの取り乱した泣き顔がフラッシュバックした。
ついでに、我を忘れて彼女の頬や耳に触れたことも。

「ねえ、まだオレにピアスを開けて欲しいって思ってる?」
彼女のサラサラでいい匂いがする髪の毛に触れると、額のほのかな体温が手の甲を伝う。
「…開けてくれるの?」
きらきらの瞳から目を逸らさずに、オレは応えた。
「うん。君が本当に開けたいなら、オレがやりたいんだ」
間違ってもミーくんやリョウくんに頼んじゃダメだよ?と釘を刺せば、彼女は「そうなの?」と不思議そうにしている。
そんな様子を見ているとちょっぴり怖くなった。
相思相愛になった、…かもしれないけど、まだまだ油断は禁物。
「他の人に触らせたくないんだ」
悲痛な思いを込めて、彼女を諭すように言う。
ちゃんと伝わっているのかいないのか、彼女は神妙な面持ちでゆっくりとうなずいた。
かと思えば、心配そうにオレの顔を覗き込んで、その白くて細い指先で、ちょんとオレの額に触れた。

「今日、本多くんにいっぱいその顔させちゃった…」
彼女が言う。
オレはハッとして彼女に押されている眉間の皺に触れてみた。
「ごめんね、わたしのせいだよね」
彼女はまっすぐオレを見ていた。その表情が真剣で、また目を奪われる。
「本多くんのこと、一番大切にしたいの。悲しませたくない」
凛々しくそう言い放つ彼女はちょっとかっこよかった。

――でもさ、オレはオレだから。
彼女の誤解を解こうと、オレはにっこり笑ってみた。
「ううん。いいんだ、オレは君に喜ばされるのも、苦しめられるのも、等しく興味深いと思ってる」
「え?」
「君の一挙手一投足に心をかき乱されている自分が面白いんだ」

これは本心だった。
彼女とのふれあいのなかで芽生える全ての感情が、この上なく愛おしいから。
「顕微鏡で見たいもの、プレパラートにするでしょ。だからオレも、君と過ごす中で感じたすべての気持ちをひとつずつ心の中でプレパラートにして、じっくり観察していたいんだ」
そう言うと、彼女はぷっと吹き出した。
「本多くんらしいかも!」
くすくす笑いながら「わたし、本多くんのそういうところが大好きなんだぁ」としみじみつぶやいた。
オレはその眩しすぎる瞬間を噛み締めながら、
「そそ。だから君のピアス穴を開けるときに自分がなにを思うのか、とても興味がある」
と胸を張った。
「ふふ、そうだね?」
彼女は相変わらずくつくつと肩を震わせて笑っている。
オレは彼女を愛おしむようにそっと髪を撫でて、その耳元に口を寄せた。

「だから、再来週の日曜はうちに来て」
ちゃんと空けといてね?と念を押すと、彼女は微笑みをたたえたまま、しっかりと頷いた。