恋する惑星

静かな一人暮らしの部屋に、ブーンと冷蔵庫の鈍い機械音だけが響いていた。
しのぶは眠りから目覚め、ベッドから起き上がり、顔を洗い、部屋着のまま顔に化粧を施した。
そのあと、冷蔵庫の扉を開け、お気に入りのグァバジュース、牛乳、スポーツドリンクを取り出し、机の上に並べ、すこし首を傾げて悩んだ後、牛乳をコップに注いでごくごくと喉をならしながら飲み干した。
空になったコップを片手にソファにすわったしのぶは、どきどきと不規則に高鳴る胸に手をあて、昨日の出来事を思い出していた。

***

昨日はしのぶの20歳の誕生日で、仲のいい歳上の友人である蜜璃が店を予約し、祝ってくれたのだった。
しのぶが蜜璃の誘いを受けたのは、彼女が20歳になる数日前のことだった。
「そこで飲むカクテルがね、とっっても美味しくて!しのぶちゃんが初めて飲むお酒が、そこのカクテルだったらいいなって思ったの」
愛らしい頰を高揚させて、瞳をきらきらさせた蜜璃を、しのぶが拒むはずもなく、
「そうですね。美食家の甘露寺さんが仰るなら、期待できそうです」
と、二つ返事で了承したのである。

その店は繁華街の外れの狭い路地にあるこじんまりとしたバーだった。未成年のうちは気後れして触れることすらなかった酒場の分厚い木製のドアを、しのぶが恐る恐る押し開けると、カランカランと金のベルが鳴った。
店内は、しのぶが家族で行く馴染みの割烹とも、女友だちと利用する流行りのカフェとも異なる、清潔感がありながら、うっすらとタバコの香りが残る、しっとりとした温度を感じる匂いに満ちていた。
その男は、狭い店内の小さなカウンターの向こうに立っていた。金色の髪をした、長身の、瞳の色が印象的な、美しい男だった。

「ドウマさぁん!今日はお友だちを連れて来ちゃいました」
蜜璃が大きく手を振りながらはしゃいだ声で男に呼びかける。
「あれ、蜜璃ちゃん。小芭内くん以外の人連れてるなんて珍しいね」
男はグラスを拭く手を滞らせることなく、意外そうな顔でこちらを見ていた。
「今日は、大切な友だちのお酒デビューを、女水いらずで決行する日なので、小芭内さんはお留守番なのよ」
蜜璃がどこか誇らしげに胸を張っているのを見て、ドウマは苦笑した。
「じゃあ俺もお払い箱かなあー」
しのぶは、ドウマの金色の髪がライトに照らされてぼんやりとひかりながら揺らめくのを見ていた。この男は、妖精みたいに美しい容姿をしているのに、身体はその儚げな色彩に不釣り合いなほどがっしりと大きい。
じっと見つめるしのぶの眼差しに気づいたドウマは、すこしはにかんだような顔で微笑んでみせた。
しのぶはどきりとした。彼のチャーミングな笑顔には、どんな女性の心もほどけそうなものだが、しのぶの胸はなにかに怯えるように、鼓動を早めるのだった。

その店のメニューには全て映画の名前が付けられていた。
店の主人はよほどの映画好きらしい。ざっとみても数百もの映画のタイトルがメニュー表に並んでいた。
蜜璃は大学の美術専攻で、映画にも詳しかったはずだ。それもあってこの店を気に入ったのかもしれない、としのぶは思った。
「しのぶちゃん、どのカクテルにする?わたし、『天使の入江』がいいわ」
彼女の白く先端が桃色に染まった細い指が、字の細かいメニュー表の端を指した。
「おお、ジャック・ドゥミ。いいね。僕もその映画はすきだ」
蜜璃の言葉に、ドウマは嬉しげに身を乗り出す。しのぶは2人の呑気なやりとりに、呆れ半分に
「でしょうね。じゃなきゃメニューに載らないです」
と、水を差しながら、メニュー表を凝視した。映画は好きだが、人一倍観ているというわけでもなかったので、知っている映画を探そうと躍起になっていたのである。彼女は必死に目を凝らし、片隅に知っているタイトルを見つけた。
「じゃあ、わたしは…」
しのぶのオーダーに、ドウマはニコリと頷いた。

ドウマは手慣れた手つきで次々に色鮮やかな宝石のようなカクテルをつくった。
気がつくと、しのぶの前に背の高いグラスが置かれていた。
キンと張り詰めた青い水面に、ぽっかりとまあるい氷が浮かんでいる。
「どうぞ」
白く血管の浮き出た大きな手に差し伸べられたグラスを、しのぶはそっと受けとる。
手が触れ合った瞬間、氷のようなシンと冷たいドウマの体温が彼女の皮膚に伝わった。
しのぶははっと目を見開いた。
その温度はしのぶの指から心臓に伝って彼女の胸を凍えさせ、彼女は自分が身震いしているのに気づいた。その温度は、たった一瞬触れ合った後もしのぶの胸にこびりついて離れそうになかった。
彼女は自分に起きた変化に呆然とし、いつまでもグラスを握ったまま、男の虹色の瞳を凝視した。
男は不思議そうに彼女の方を見た後、眉を下げて微笑んだ。

それは強いデジャヴだった。恐怖にすら似ていた。同時に、この感覚に無性に懐かしさを感じてしまうのは何故だろう。
しのぶは、突然自分の中に沸き起こった感情に戸惑い、男の微笑みに応えることもできず、うっすらと額に冷や汗をかいているのが恥ずかしくて俯いた。

***

一晩経った今も、しのぶの中に焼きついた体温は消えることはなかった。
しのぶは目を瞑り、部屋着を着た身体を抱きしめ、温めようと腕をさすったが、身体はむしろドウマの体温に染まろうとしていた。
自分の身体をひんやりと包む彼の体温に溶け込んでいくような感覚に、むしろ心地よいとすら感じていたが、いまはその感覚に正面から向き合う度胸はなかった。
しのぶは自室のソファに腰掛けたまま、呆然とした。自分の体が、作りかえられているような、不思議な感覚だ。
ふと、スマホの時計に目をやると、大学へ行かなくてはいけない時間が迫っていた。
しのぶは服を着替えて、いつもの蝶の髪飾りをつけると、部屋を飛び出した。

***

その日は熱に浮かされたように過ぎていった。しのぶは大学生として、大好きな薬学の講義は熱心に受けている方だし、自習も欠かすことはないが、今日は何をしていても身が入らなくて、ぼんやり窓の外を見つめてばかりいた。
理由はわかっていた。
自分はあの人に、もう一度会いたいのだ。

それにしても、なんのとりとめもない、たった一瞬の触れ合いが、どうしてこんなに胸の奥に染み付いて離れないのだろう。
しのぶには、自分があの男とどうなりたいのかも、自分が何をしたいのかもはっきりとはわからなかった。
だが、気がつけば、しのぶは大学を飛び出して街に向かうバスに乗っていた。
そのバスに乗れば、20分ほどで店のある繁華街に行くことができた。

しのぶは暮れゆく繁華街を、夢遊病のように浮ついた足取りでふらふらと歩きながらあの路地を目指した。
彼女が店の前にたどり着いたころにはすっかりあたりが暗くなっていた。
ドウマの店の小さな窓から明かりが漏れている。こっそりと覗き込むと、レースのカーテンがかけられたその窓から、店の支度をしている彼を見ることができた。
彼の姿が目に飛び込んでくると、しのぶの心臓は高鳴り、熱い息吹は全身の血潮を波立たせ、はじけて、彼女の胸中に赤い花を咲かせた。

しのぶは路地の小さな花壇の一角に腰をかけ、店の中をぼんやり見ていた。
ドウマの店の客層はまばらだった。だが、若い女が一人で訪れることも少なくはないようだった。
終始彼が女客たちに向ける笑顔に、ズンと気持ちが重くなるのを感じながらも、それでもやっぱり彼から目を話すことはできないのだった。

店の前に座りこんで、何時間経ったのだろうか。
しのぶの脚はつめたい二月の寒空の下で完全に冷え切っていた。

ふと、店の前に、背が高く長く艶やかな黒髪をした美しい女性が現れたのをしのぶは見つけた。
彼女もまた店の小さな窓を覗き込みドウマの姿を確認すると、「はあ」と短くため息をついた。
そのまま、つかつかとヒールを鳴らしながら、相変わらず花壇に座り込んだままのしのぶに歩み寄り、「ねえ、あんた」と話しかけた。
しのぶは恐る恐る顔を上げた。白い肌に、長く濃いまつげに縁取られた幅の広い目をしていた。
「ドウマの友達?」
女は顎で店を指した。
しのぶは彼女の美しさに気圧されてこくこくと頷くことしかできなかった。
女はすこし笑った。
「ふうん。あいつ女運が悪いんだけど、あんたは結構可愛いね」
そういって手に持っていた小さなハンドバックを、ごそごそとさぐり出した。
「これ、あいつに返しといて」
ネイルが施されたピカピカの長い爪が、一本の銀色の鍵をつまみ出した。
しのぶがおそるおそる手のひらをさしだすと、女が勢いよくぽすっと彼女の手のひらに鍵を押し付けた。
「この店の上の、あいつの部屋の鍵」
まかせたからね、といって、女は颯爽と去っていった。

しのぶは女が去った後、手のひらにのせられた銀色の鍵をどうすべきか悩んだ。
このまま店が終わる明朝まで彼を待っていて、返そうか。だが、そんな時間に店の前にいる自分を見て彼は驚くだろう。そして、なぜこの鍵を持っているのか、怪訝に思うだろう。
やっぱり、今日は帰って、明日また来て開店前に彼を訪ねて返そうか。鍵を持っている理由は、さっきの出来事をすこし変えて話せば大丈夫…。
しのぶは突然のアクシデントの解決策を必死に考えた。だが、脳内でこの状況の最適解を考えるのとは裏腹に、彼女の頭には全く別の考えが浮かんでいた。
彼女は、鍵を見つめながらしばらく悩んでいたが、鍵を握りしめ、店の裏にある階段を登り始めた。
この機会を逃したら、2度と、彼の部屋を見るチャンスなんてないかもしれない。しのぶは夢中で階段を駆け上がると、ドアの鍵穴に迷いなく鍵を差し込んだ。その扉は軽かった。キィ、と小さな音を立て、いとも簡単に扉が開き、彼の部屋の匂いがしのぶの鼻腔をかすめた。

彼はずいぶん神経質な性質らしい。床や家具の上には埃ひとつ落ちていない。
部屋の中に家具は多くなく、ダブルサイズのベッドに、ソファ、背の高い本棚、ステレオタイプのスピーカーの両脇には観葉植物、ダイニングテーブルの上には水槽が置かれていた。

しのぶはダイニングテーブルの椅子を引き、そこに腰掛けて水槽の中の魚を眺めていた。
キラキラのネオンテトラが数十匹。ゴールデンハニーのドワーフグラミーが3匹。
しのぶは魚が泳いでいるのを見るのが好きだった。
誰かと交際しているときは、よく水族館デートを提案したものだった。

しのぶには過去に幾人もの交際相手がいた。
彼女は容姿端麗で頭も良く、すこしものをはっきり言うところがあるものの、明るく能弁で人から好かれた。それゆえに、彼女は多くの男性から求愛を受けた。
自分を好きだという男との易しい関係に身を委ねれば、いつもすこしは心地よい気持ちになれたし、いつかは相手に恋をすることがあるかもしれないと期待したが、最後にはいつも相手との恋を諦めることになった。だから、しのぶは恋を知らずに20歳になった。
そんなしのぶがいま、衝動的にひとりの男を知りたいと思っている。それどころか、彼を渇望して熱に浮かされている。その事実はひどく彼女を苦悩させた。

普段、彼女が「恋愛」を始めるのは他愛もないことだった。電気のスイッチを押すように、彼女の小手先ひとつで交際は始まったし、
ブレーカーを落とすように、全ての関係性を突然清算することだって彼女には造作もないことだったのだ。
それなのになぜ、先程出会った美しい女性が、彼とこの部屋で睦みあっていたのだろうかと考えるだけで胸が張り裂けそうなのだろう。

しのぶは何分か水槽と向かい合って座っていたが、不意に立ち上がると、丁寧に椅子とスリッパを元の位置に戻し、部屋から立ち去った。
ドアを開けると、夜はすっかり更けていた。
ちらり、ちらりとまばらな雪が、しのぶのコートの上に降り積もっては消えた。

***

それから数日が過ぎた。
大学終わりに店に行き、物陰からドウマの姿を確認するのはすっかり習慣と化していたが、店の前にいるのは毎日数分のみにとどめ、彼の部屋へ再び上がることはなかった。
それでも何となく勿体無いような気がして、鍵はまだポケットに入ったままだった。

ある日、しのぶが大学の研究室に行くと、研究室の助手をしているゼミの先輩が、水の入った透明なビニール袋をもって水槽の前に立っていた。
「真菰先輩、どうかされました?」
しのぶの言葉に、真菰は振り返った。
よく見ると、ビニールのなかには十数匹のネオンテトラがキラキラと泳いでいた。
「うわーん胡蝶さん。どうしよう。生物準備室の水槽のネオンテトラを繁殖させ過ぎて増えちゃったって同期が言ってたから、もらってきたはいいんだけど、うちにある水槽の魚と一緒に飼うにはあんまり相性が良くないみたいで…」
やっぱり返すべきかな、としょんぼりしている真菰に、しのぶはふとドウマの部屋の大きな水槽のことを思い出した。
「あの、そのネオンテトラ、わたしが頂いても?」
真菰はしのぶの家に水槽が無いことは知っていたし、冷静沈着な彼女のいつになく輝いた瞳にきょとんと首を傾げたが、品行方正なしのぶへの全幅の信頼から、特に何も尋ねることなく、彼女にネオンテトラを預けたのだった。

***

しのぶがドウマの水槽に魚を放ってから数週間が経ち、季節は巡り春になっていた。
相変わらず、しのぶは足繁くドウマの店へと通っていた。そして彼の姿を確認すると、帰路につく。
一度くらい、ひとりで店に入ってみてもいいのでは無いか、と何度も思ってはいるが、20歳になったばかりの箱入り娘であった彼女は、恥じらいを拭い去ることができず、一人で飲み屋に入る勇気が無かった。それに、いざ彼を前にして、何を話せばいいのかがわからなかった。

しのぶが彼の部屋に魚を持ち込んだ後も、ドウマの様子に変化は見られなかった。
あんなに神経質に部屋を掃除する男が、水槽の変化に気づかないはずはなかった。
しのぶはそう確信していたが、ドウマの様子は普段と全く変わらず、動きもゆったりとして、微笑みを絶やすことはなかった。

しのぶは、そんな日々を続けるうちに、自分の行動の無謀さに苛立ちつようになった。自分の愚かさを自覚していながら、どうしても彼に会いたくて、非生産的な活動を毎日繰り返してしまう。
自分のすることなど、到底彼に届くことはないということはわかっていた。生きている世界があまりに違っていた。だから、はなから自分など眼中にないのだ。
それなのに、しのぶは大学の廊下をカツカツとヒールを鳴らしながら歩き、また夢中であの路地へと向かったのだった。

その日も彼女は、胸中に渦巻く感情に浮かされながら、ふらふらと店先にたどり着いた。それこそ、途中で降り始めた疎雨にも気付かぬほどに。

しのぶが店先で足を止めた時、店内は明かりもついておらず、人の居る気配はなかった。
本来なら、17時には開店して、レースのカーテンがかかった窓から、彼の姿が見えるはずだった。
しのぶは深くため息をついた。

もう4月も終わりだというのに、今日はなんだか肌寒かった。しのぶは両手で肩を覆い、温めるようにさすった。寒くて鳥肌を立てて震えているくせに、お酒を飲んでいる時のように、妙に肌が火照っていた。そして、自分の身体が所在なさげにぽつんとこの薄暗い路地の隅っこで震えていることに哀しみを覚えた。
しのぶの全身を晩春のやわらかい雨が包んで、彼女の身体は透明になりそうなほど冷えた。しのぶは目をつぶって、大気が体温に溶け込んでいく感覚に身を任せた。

そうして数分間彼女が身じろぎもせず路地に立ち尽くしていると、突然、雨が止んだ。
しのぶはその瞳を開いて周囲を見た。
自分の身体に降り注ぐ雨は止んだように思えたのに、まだ雨の降り続く湿っぽい空気があたりに充満していたのを不思議に思ったからだった。
上を見上げると、自分の上に黒いコウモリ傘があった。その傘を持っていたのはドウマだ。
「しのぶちゃん、だっけ。こんなところで何してるの…って聞こうと思って、1ヶ月と25日が経った」
しのぶはこぼれ落ちそうなほど大きな輝く瞳を、さらに大きく見開いた。
ドウマは彼女の無言のクエスチョンマークに答えるように言った。
「こんなところに毎日突っ立ってたら、そりゃ気づくさ」

バレていた。彼は知っていた。
しのぶは恥ずかしさで顔から火が出そうだと思った。そして今までのことをどう説明しようか、と必死に頭をフル回転させようとするも、動揺してうまくいかない。
そんな彼女をよそに、ドウマは淡々と続けた。
「俺、美人のことは覚えるの得意なんだ。君がお店に来たのは一回きりなのに、ちゃんと名前、覚えていただろ」
しのぶには、彼の言葉が嬉しかった半面、彼の気だるげな態度がすこし悲しいような気がした。そして、現実のドウマとの会話のなかで徐々に頭が冷静さを取り戻し、最近の行動を省みて、恥ずかしくてどうにかなってしまいそうだった。

「…わたし、どうかしてました。……帰りますね。もうこんなことしないので、気にしないでください」
走り去ろうとするしのぶの腕を、ドウマは強く掴んだ。
「まあ、寄って行きなよ。今日お店お休みすることにしたからさ」
しのぶはおそるおそる顔を上げてドウマを見た。ドウマは優しげに微笑んでいるように見えたが、七色に移ろう彼の瞳を覗き込んでいると、彼が自分に何を感じているのかがわからなくなる。もはや彼のまなざしの向こうにあるのは自分以外の何者かであるような気すらして、しのぶの心はざわついた。
だが、気がつけば、彼の言葉にしっかりと頷いていた。

彼に連れられて店の二階にある自宅に案内されるときも、彼女の頭は、今までの自分の大胆な行動に対する驚きと、後には引き返せないという後悔と、自分はこの瞬間をずっと待ち望んでいたのではないかという自問によって混乱していた。

ドウマは、身体を冷やした彼女のために湯を沸かして熱いお茶を淹れ、ソファで震えている彼女にマグを差し出した。
彼女はそれを受け取り、温かいカップの温度を手のひらにじんわりと感じると、自分の身体が冷え切っていたことに気づかされた。
「ねえ、それ飲んだら、君に試してほしいカクテルがあるんだけど、飲んでくれる?」
キッチンから顔をだしたドウマに、しのぶはすこし慌てて頷いた。しのぶはまさかの事態に、いつになく緊張していた。
ドウマは、そんなしのぶの様子が可笑しくて笑った。

「はいこれ。どうぞ」
目の前に置かれたのは、イエロー、グリーン、レッド、ブルーなどさまざまな色のゼリーがピンク色のリキュールに浮かび、果物の装飾が施されたメルヘンなテイストのカクテルだった。
しのぶはドウマの行動の意図が分からず怪訝に思っていたが、思わず、「綺麗…」とつぶやいた。
「これ、お店で出されているカクテルですか?」
しのぶが訊くと、ドウマは頷いた。
「そうだよ。『恋する惑星』という映画にちなんだカクテルなんだ。君にピッタリだと思って」
観たことある?とドウマが尋ねたが、あいにくしのぶはその映画を観たことはなかった。
「なんだぁ。残念。じゃあ、今度一緒に観ようよ」
ドウマのさりげない誘いに、しのぶはまたもや動揺した。自分と彼の関係性に「今度」があることが嬉しかった。

ドウマはダイニングテーブルの椅子をひき、しのぶの隣に座った。
「で、君は、俺に何か伝えたいことがあるんじゃないの?」

ドウマの問いかけに、彼女は何も答えずに俯いたが、すこし経つと決意したようにグラスをテーブルの上に置いた。
「わたしの気持ちをあなたに伝えて、あなたに拒まれるのがこわいんです」
しのぶの身体は震えていた。
ドウマはそれに気づき、彼女のほっそりとした肩を抱き寄せた。
しのぶは驚き目を見開いたが、ドウマの眼差しがしっかりと自分に向けられているのを感じると、もう逃げ場はないのだと悟った。
彼女は伝えることにした。

しのぶは唇を震わせ、溢れそうな大きな瞳をうるませた。
「あなたに始めて会った日から、何故だか身体のうちが凍えるように冷えていて、頭はぼんやりと熱に浮かされたみたいなんです。どうしてそうなったのか、理由は分からないんですけど…」
ドウマは眉尻を下げ、目を細めてしのぶを見つめていた。さも、彼女が愛しいかのように。
彼が「それで、どうしたいの?」と訊けば、しのぶはまたも俯いた。
いざ自分の気持ちに向き合うとなると、しのぶはすこし弱気になっていた。今まで、人と話していてこんなにも自分の考えや気持ちに不安になったことはなかった。
しのぶが今彼に伝えたい感情を言葉にすることはあまりに屈辱的だと感じる一方で、自分の中に生まれ、約2ヶ月ものあいだ彼女を狂わせた乾いた欲望に抗い難かった。

しのぶは覚悟をきめた。

彼女はドウマの頰に両手を添えると、彼の乾いた唇に口付けた。
その彼女の様子に驚いたのか、ドウマは一瞬体を硬直させたが、すぐにしのぶの腰に手を回し、彼女を抱きしめ、彼女の唇を開かせ自らの舌で彼女の口内を弄った。
しのぶは突然彼から与えられる刺激に身をよじらせた。
ふたりが唇を離したとき、長い間口付けをしたのでしのぶはすこし息を荒くしていた。
「しのぶちゃんはかわいいね」
ドウマはそう言って、自分の唇についたしのぶのリップを舐めとった。彼の表情からは、なんの感情も読み取ることができなかったが、その声はお酒入りの蜂蜜のように、しのぶの感覚を奪っていくのだった。

ドウマは逞しい腕でしのぶを抱きかかえると、彼女をベッドに運んだ。そして、しのぶに覆い被さり、恥じらう彼女の服を取り去り、彼女の熱く火照った、吸い付くようなきめの細かい白い肌に感嘆のため息をついた。
「驚いた。こんなに綺麗な身体、みたことないや」
しのぶは恥ずかしくて顔を手のひらで覆い、絞り出すような声で言った。
「他の人、と、くらべないでください…」
しのぶの言葉にドウマは気を良くした。
ドウマはしのぶの裸体のあちこちにキスを落とし、時に噛み付いて跡を残した。
「君の肌は、すべっこくて、白くてつやつやしているのに、どこもかしこも熱いんだ。舌に載せれば、溶けて消えてしまいそうなほど」
ドウマは心底美味そうにしのぶの肌に吸い付いた。
それだけ美しい身体を褒め称えておきながら、容赦なく肌に噛み付いてくるドウマにしのぶは最初は驚き呆れたが、次第にその痛みに激しく快楽を感じている自分自身を見つけた。しのぶは時折痛みに耐えかねて苦しそうに喘ぎながらも、快楽の涙を流した。そして彼女の中も潤いで満たされていった。

ドウマは、しのぶの胸に吸いつきながら、手慣れた手つきでベッドサイドテーブルを漁り、コンドームの箱を取り出し、さっと自身に装着した。
しのぶはそれに気づき、我に返ったように、あっ、と声をあげた。
「まって…それ、つけないで、外して…ください」
彼女の息も絶え絶えの発言に、ドウマは呆れたようにため息をついた。
「いや、流石にダメだよ。しのぶちゃんに赤ちゃんできちゃったら、俺、困るし」
なだめるようにしのぶの髪を梳きながら、もう片方の手で彼女のぐずぐずに解けた秘部に指をあてがい、焦らすようにかきまぜる。
「ゴムしてても気持ちよくしてあげるから、大丈夫だよ」
ドウマは柔らかくしのぶに口付けた。
しのぶはそれを受け入れながらも、いやいやと首を振った。
「ピル……わたし、生理不順でピルを飲んでるんです…だから、大丈夫…」
しのぶの言葉に、ドウマは困ったなあと首を傾げ頭をかいた。彼はすこし悩んだあと、頑なそうなしのぶの態度に諦めて言った。
「じゃあ、いま目の前で飲んでよ、ピル」
ドウマの口調は、穏やかにコントロールされていたが、その言葉は、諦めや、怒りをはらんでいるのがしのぶにはわかった。
しかし、彼のきもちを踏みにじってでも、しのぶは生身の彼と触れ合いたかった。初めて彼に触れた時から自分の中に沸き起こった感情を、彼に触れることで補完できると信じていた。
「わかりました…」
しのぶはよろよろとベッドから傷だらけの身体を起こし、バッグの中のポーチから錠剤の並ぶシートを取り出した。
そして、ベッドに腰掛けてプチッと一粒の赤い錠剤を取り出し、ドウマに見えるようにそれを舌の上に載せた。
しのぶの赤い小さな舌が錠剤を飲み込むのを、ドウマは注意深く見守った。

しのぶがごくんと喉を鳴らすと、ドウマはしのぶの腕を掴み、彼女を乱暴にベッドに組み敷いた。
ドウマの七色の瞳には、獰猛な光が宿っていた。
そして、意表を突かれたしのぶが何も言葉を発することができないほど性急に、ゴムを外した彼自身を、しのぶの中にズンと沈めた。

しのぶは突然大きなドウマのものをねじ込まれ、苦しげに呻いたが、身体はすでにドロドロに溶けきっており、比較的すんなりと彼を受け止めたようだった。
ドウマは、自身を飲み込みきったしのぶを抱きしめながら、彼女の様子に違和感を覚えた。
彼は、彼女に覆いかぶさる体をすこし起こすと、胸の中に埋まっていたしのぶの顔を覗き込んだ。
彼女は息を弾ませ、目を潤ませながら、すこしはにかむように眉をひそめた。
ドウマはある種の確信をもって、しのぶの膝裏に手を差し込み、彼女の太ももを持ち上げた。
しのぶはドウマのその動作にはっと短く息を呑み、彼の顔から視線を外した。
ドウマの直感は正しかった。
しのぶの白く陶器のように滑らかな肌の下のまっさらなシーツに、小さな赤い染みができていた。
しのぶは顔をそらしたまま、目をつぶり、唇をキュッと噛んでいる。

ドウマはこの時、自分の中にある名もない感情が融解していくのを感じた。
ドウマは、行為に及んでもなお、しのぶが彼をひどく病的に誘う理由をつかみかねていた。彼女はあまりに瑞々しく、蠱惑的な色香を持っていた。彼女を見れば百人中百人が美女と答えるだろう。それ故に、たった一度対面しただけの自分をここまで強く求める理由がわからなかった。
彼は一目見た時から、しのぶをどこか意識していたし、彼女の姿や立ち居振る舞いを好いていた。だから、彼女から向けられる眼差しの熱さにも気がついていた。
しかし、彼女の熱い視線に込められたものは、色恋というよりはむしろ畏怖の念であるように彼には見えた。
だから、あの異様な彼女の執着ぶりを見た後も、彼は彼女から男として好かれているとは思えなかった。

しかし、ドウマの予想に反して、しのぶは彼を求めた。
彼女が彼の唇に口付けた瞬間、純粋に彼は驚いた。だが、それでも疑り深い(と、いうよりもともと人に期待しないところがあった)彼は彼女の行動の裏を探ろうとした。しのぶの、ドウマとの肉体交渉へのステップの猛進ぶりは、その疑いをより一層深くした。彼は彼女が自分の肉体や精神以外のものに目的があると踏んでいた。

ところがどうだろう。彼女は男との肉体交渉の経験すらなかったというのだ。そんな女が、ある特定の人物への恋慕以外の理由で、処女を捧げ、生身の自分をさらけ出すことがあろうか。少なくともドウマには、適切な理由が他に思い浮かばなかった。
ドウマは、しのぶの破瓜のしずかな呻きとともに、突然自分のもとにやってきたこの小さな妖精を、初めて恋愛と認めたのだった。

「だめだ」
しのぶの太ももを抱えたままのドウマが、ぽつりと呟いた。
ドウマはやけになって彼女にひどくしたことをとても後悔した。もっと自分が自分に素直であればよかったし、問題はもっと複雑なのだと彼は考え直した。
一方、しのぶはドウマの様子に不安を覚えた。彼が我に返って行為を中断するのが怖かった。まだ彼女の体は燃えそうなほど火照っていた。下腹部は、彼からあたえられる律動を欲してくうくう音を立てそうなほどの切なさを感じていた。
だが、しのぶの不安をよそに、ドウマは彼女に再び覆い被さり、無造作に顔にかかる髪を払うと、深い口づけをしのぶの唇に落とした。
しのぶは口の上でとろけていく柔らかいキャラメルのようなドウマの舌を感じ、彼がまだ自分を抱いてくれるつもりなのだと確信し、安堵した。
「痛くない?」
ドウマが真剣な表情をしてささやくと、しのぶはとろりとした表情のまま、「だいじょうぶ」とうわごとのように、ちいさく唇を動かした。
確かに、しのぶの中はすっかりぐずぐずに溶けきっており、破瓜の痛みは彼女の惚けた頭の中には届かないようだった。
彼女の様子を確認すると、ドウマは少しずつ腰を動かしはじめた。
しのぶを傷つけないよう配慮しながらも、ドウマはしのぶの身体を隅々まで味わおうと、ねっとりと味わうように律動を繰り返し、しのぶの胎内に自身を打ち付けた。
正直なところ、もう我慢の限界だった。伸縮を繰り返すしのぶの中は、ふわりと広がり彼を呑み込み、キュウと締めつけ物欲しそうに彼を搾り取ろうとしてきた。心地よくて意識を失いそうだ。
慎重そうにしのぶを抱くドウマの額には汗が光り、吐く息は荒かった。
ふたりの身体が次第に溶け合うように馴染み始めると、次第にドウマの抽挿は早く、深くなっていった。
しのぶは、子宮口への容赦ない圧迫や、彼の開いた傘が膣壁を擦り付ける痺れるような快感に、幾度となく背中を仰け反らして果てた。

彼女が果て、痙攣したように身震いすると、ドウマは愛しげに彼女を抱きしめ、キスを落とした。
「しのぶちゃんのなか、トロトロしてて気持ちいい。しのぶちゃんに、食べられてるみたいで…」
ドウマは夢見心地につぶやいた。
しのぶは初めて感じる強い快感に息を詰まらせながらも、彼の言葉にきれぎれに返事をしようとした。
「いえ…わたしこそ…なんだかあなたに、食べられたことが…あるような…気がするの…」
消え入りそうな声だった。
だが、ドウマはしのぶのその言葉に、強いデジャヴを感じた。たしかに、彼女を初めて抱いたとは思えないほど、彼女の身体は彼の身体に馴染んだ。彼女の体温、体臭、肌の舌触りさえもが妙に懐かしく、彼のノスタルジーを引き起こすのだった。
それがなぜかはわからなかった。ずっと幼い頃に嗅いだ、母や、幼馴染の女の子の匂いに似ていたのだろうか、と考えたが、ここまで印象的な記憶を忘れることがあるだろうかとも思った。
と、ここまで考えたが、ドウマは目の前の快楽のために、不意に浮かんだこの考えを手放すことにした。目の前の彼女の痴態は、そうするに値するほど彼を駆りたてた。

ドウマは再び激しく腰を動かし始めた。しのぶは彼を受け止めようと、強く背中にしがみつく。
しのぶはドウマのものが次第に固くなっていくのを感じた。そして、ドウマが最後に激しく腰を打つと、彼の精が胎内に注がれた。
しのぶは、ようやく彼の精を受けられたと、胸の奥がじわりと熱くなった。
もう、彼女の中にはあの時こびりついた氷の体温はなかった。
不意に店の前で出会った女の顔が頭に浮かんだが、しのぶはこうして今ドウマに抱かれているのが自分であることに、深い安堵を覚えた。
しのぶは、ドウマの吐き出した精液が、キュウと彼女の子宮を収縮させるのを感じ、温かいため息をついて、そろりと下腹部を撫でた。

しのぶの中で果てたドウマは、そのあともしばらく彼女を抱きしめていたが、顔を上げて、彼女の頰に短いキスを贈ると、ささやくように言った。
「俺、しのぶちゃんのこと、好きになってもいい?」
ドウマの虹の光にかがやく瞳は、目の前のしのぶをしっかりと捉えていた。そこには、行為に及んでもなお宿っていた戸惑いや、小さな怒りの感情はもう消え失せていた。彼は少年のように澄んだ眼で彼女に問いかけた。

一方で、しのぶは、自分のなかに生まれたこの衝動をはて何と名付けたものか、と困惑した。
彼が言うように「好き」、つまり恋なのか。それともはたまた別物なのか。
だが、彼女が20年生きて会得した全ての感情の中で、彼と自分の関係性を、もっとも的確に表現する言葉は、間違いなく恋愛なのだろう。
別の時代なら、あるいは、別の出会い方をしていたなら、もっと適切な表現があったかもしれないが。

しのぶはドウマの突然の告白に戸惑っていたが、少し間をおいて、ゆっくりと、たしかに、彼の言葉に頷いた。
ドウマはそれを見て心底嬉しそうに笑い、しのぶの髪をくしゃくしゃと撫でた。

こうしてしのぶは、1ヶ月と25日かけて、新たな恋愛のスイッチを押した。それは彼女にとって、とても永いプロセスのように思えた。
しのぶはこの短いやり取りの後、すっかり消耗して、事切れるように眠ってしまった。

翌日、気絶するように眠ってしまったしのぶは目を覚ますと、ドロドロになってしまった身体が全て綺麗に清められており、2人の体液で汚れていたシーツは洗い立ての清潔なものに取り替えられていることに気がついた。
ただ、しのぶの身体に残る沢山の傷跡と、ズンと重く腰に残った感触が、昨夜の痕跡を色濃く残していた。
ドウマはしのぶを抱きしめるようにぐうぐうと目の前で眠っていた。
しのぶはドウマの髪を撫でながら、「まるでおおきなゴールデンレトリバーみたいですね」とつぶやいた。

***

ドウマが目を覚ますと時計はすでに11時を過ぎていた。久しぶりにセックスをして、なんだか身体が重かったが、しのぶの匂いを嗅ぎながら眠るのはとても心地よかったなどと考えを巡らせているうちに、彼はとなりに寝ていたしのぶがいなくなっていることに気がつき、血相を変えて、がばっと起き上がった。
一晩明けて、彼女が正気に戻って家に帰ってしまったかもしれない。
なぜだか、ずっと欲しくて欲しくてたまらなかったおもちゃをようやく手に入れたのに、それをすぐに壊してしまった子どものような気持ちだ。
彼は真剣に心配した。だが、それは杞憂に終わった。
不意に、ガチャリと寝室のドアが開き、エプロン姿のしのぶが、ひょっこり顔を出した。
「ドウマさん、起きました?ご飯できてますから、食べましょう」
ドウマが普段使っているエプロンは彼女には少し大きすぎるようだ。ドウマは突然目の前に現れた幸せの象徴ともいうべき光景にしばし唖然とした。

寝室を出て、リビングに入ると、ダイニングテーブルの上で、クロックムッシュとスープが湯気を立てていた。
ふたりは仲良くそれを食べ、ゆったりとコーヒーを飲んだ後、16時になるまで再びベッドで睦みあった。
16時になると、ドウマは店の支度のために準備を始めなければならないと、バタバタと着替えをし、買い貯めていた食材や酒類をキッチンで整理したりと慌ただしく動いていた。
それを見たしのぶが、帰宅の用意をし始めると、ドウマはひどく悲しい気持ちになった。
彼は作業の手を止めて彼女に懇願した。
「あのね、どうしてこんな気持ちになるのか見当もつかないけど、俺は君をずっとここに置いておきたいんだ」
しのぶは彼の言葉を意外に思った。
彼は誰かに依存するような人間には見えなかったからだ。
「わたしにどうして欲しいんです?」
呆れ半分にしのぶが訊くと、ドウマはモジモジと両手の指を合わせながら俯いた。しのぶは、大男の乙女のようなしおらしい仕草にすこし吹き出しそうな気持ちだった。
「もしよかったら…この部屋に俺と一緒に住んでくれない?その、無理にとは、言わないけど…」
しのぶは彼の提案に、顎に手を当ててしばらく考えた後、
「いいですよ。でも、着替えもないですし、一旦は家に帰らなくては」
と、淡々と答えた。
ドウマは縋るように続けた。
「じゃあ、一旦荷物を取りに帰れたら、今日の夜もうちにいてくれる?」
しのぶはドウマの必死な様子が可笑しくて、コロコロと笑った。
「わかりました。帰ってきますよ。晩御飯は、ドウマさんのすきなものにしましょうね」
しのぶが甘やかすように優しい声音で言うと、ドウマは彼女を抱きしめ彼女の頰やおでこや唇にキスの雨を降らせた。

***

それから数日経った、ドウマの店が休みの月曜日の夜。ふたりはソファに並んで、談笑しながら映画を観ていた。
映画は『恋する惑星』という古い香港映画で、インターネットのサブスクリプションでも見つけられず、ドウマが近くのレンタルビデオ屋で借りてきたものだった。
彼はなぜかしのぶにこの映画を執拗に見せたがった。

ソファに座り、缶ビールを開けたドウマは、しのぶの肩に腕を回し、ながれる映画をぼんやり観ながら、しのぶに話しかけた。
「2回目に君と言葉を交わした日ね、俺、君に殺されちゃうんだって思ったんだ」
ドウマの突拍子も無いことばに、しのぶはただ驚いた。
「何故…?」
ドウマはうーんと唸りながら天井を見つめ、その後しのぶに向き合い、困ったような笑顔で、
「なーいしょ」
と、はぐらかした。
「どうして自分に危害を加えかねない人を自室に招くんでしょう、わたしには理解できません」
怪訝そうに顔をしかめるしのぶに、ドウマは愉快そうに笑った。
「だって俺はしのぶちゃんのこと、大好きだもの。たぶん、前世とか、その前からずーっと、好きだもの。そういう感じがするの」
しのぶは彼の言葉を冗談程度にしか思っていないのだろう、「大袈裟な」と鼻で笑い、目の前の映画に集中し始めた。

映画は一部と二部に分かれていて、一部が終わると、全くテイストの異なる二部が始まり、しのぶは少々面食らった。彼女が今まで観てきた映画とは、だいぶイメージの異なる作品だった。
だが、第二部の中盤、とあるシーンでしのぶははっと驚きドウマを見た。ドウマは心底楽しそうに「このシーン大好きなんだ」とつぶやきながらテレビの画面に見入っていたが、しのぶの様子に気がつくとニヤリと笑い、言った。
「しのぶちゃんは、こういう意味でも特別なんだ」

映画では、好きな男の家の鍵を手に入れたヒロインが、男の不在時に部屋に忍び込み、水槽に金魚を放っていた。

ドウマは、過去の自分の行動を恥じて赤面するしのぶを引き寄せ、ゆっくりと口づけた。
今日も、ダイニングテーブルの水槽の中では、ネオンテトラがキラキラ、キラキラ、泳いでいた。