エデンの歌、春に咲く花 - 1/5

シャワー室から出てきた彼女が、ガウン姿のまま寝室のベッドに腰掛けペディキュアを塗っている。
彼女がうつむいて、しどけなく耳にかけられた濡れ髪が一房、肩に垂れる。

そんな光景すらも、去年の冬に彼女と訪れたルーヴル美術館のモナリザより僕の心を掴んで離さない。

僕が寝室の扉を開けて新聞紙とコーヒーカップを持ったまま呆然と彼女を見つめていたのが可笑しかったらしく、困ったように笑っている。

「同棲を始めてもう1週間以上経つのに、毎日そうしてるのね」

ふいに、彼女がペディキュアを塗り終えた足の指をぐっと伸ばした。
その真っ白な足首と肌に映える深紅の爪が宙に投げ出される。

僕は耐えきれずそのたおやかな足首をそっと掴み、彼女の滑らかな脚の曲線にもう片方の手を滑らせた。

「君が目の前にいて、あまりにも誘惑だらけで――まるで僕はご褒美をお預けされてる犬の気分だ」

僕が言えば、彼女は恥ずかしそうに目を伏せた。
「昨日、じゅうぶんご褒美があったと思うけど」

遠慮がちに囁かれた言葉と、ガウンの胸元に見え隠れしてる赤い痕、先ほどから回している洗濯機の中のシーツ、いろんなものが僕の記憶を呼び覚ます。

「あれじゃまだまだ足りないな」
僕の熱視線に彼女は肌をびくっとこわばらせた。
まるで舌なめずりする獣が草食動物を追い詰めているかのようだ。

「ほ、ほら座長さん、お仕事の時間でしょ」
彼女が急かすように言い、壁にかけられた時計を指さす。
たしかにいい時間だ。もう数分でも遅ければ、遅刻してしまうほどには。

僕はとても残念な気持ちになった。
彼女の淡雪のような足の甲にキスを落とし、名残を惜しみつつ、渋々彼女の足を解放する。

「ふふ、続きは今夜ね?」
そう言って微笑む彼女に、最後の一瞬までも惜しむように口付け、椅子にかけられたジャケットと鞄を持って部屋を飛び出した。

***

このところめっきり寒くなってきた。

ふたりが20歳になったら――そんな取り決めで同棲の約束をしたのが2年前。月日が過ぎ去るのはあっという間だ。

僕の20歳の誕生日が過ぎて、もうすぐ2週間になる。
満を持して彼女と暮らし始めた海を臨む15階の部屋は、仕事場であるはばたき市のイベントホールからほど近い場所にあった。
彼女が通う一流大学には電車で20分ほどかかるが、駅から近いそのマンションを彼女は気に入っていた。
はばチャの記者業も続けているので、はばたき市内中心部に住むことは彼女にとっても都合がいいらしかった。

はばたき市のイベントホールには大、中、小のコンサートホールだけでなく、さまざまな団体やサークルの事務局、練習室、レコーディングスタジオ、ボールルーム、防音室などの設備が充実していて、毎日ここに足を運ぶ自分すら、日々目新しく驚きに満ちた出会いがある。

しかし、今日の“出会い”は僕の心を大きくざわめかせることとなった。

『公益財団法人 風真会 チャリティーオークション』
その文字列がちらりと見えた時、なんだかすこしヒヤッとしたものが胸をかすめていった。

それが決定的になったのは、
「柊」
と、僕を呼び止める男の声が背後から聞こえた時だった。

「――風真くん」
振り返りざま、僕は努めてにこやかに、旧友との再会を喜ぶただの「友人」を演じる。
こういうとき、自分が俳優であることに心底感謝する。
だが、向こうも聡い男だ。うわっつらの演技などすぐに見破られてしまうだろう。
心の中に潜んでいる緊張や激しい感情の乱高下を微塵も気取られぬよう、綿密に一挙手一投足を計算する。

「イギリスから戻っていたんですね。今日はお仕事で?」
「ああ、昨日の夜の便で戻ってさ。例のごとく、バタバタだよ」
「商売繁盛で何よりですよ」
「柊も、劇団は盛況そうだな。今期の公演、チケット発売5分でソールドアウトしたって」
「ええ。おかげさまで」
「この前の映画も見たよ」

他愛ない近況報告を交わし、お互いの考えや動きを探り合う。
いや、正直のところ、こんな気持ちでいるのは僕の方だけであってくれと願ってやまない。

「お恥ずかしい限りです」
「最近、ドラマや映画の出演増えてるよな。そっち一本にする気は…まあ、ないか」
「そうですね。劇団は僕にとってのホームのようなものですから」

彼は穏やかに微笑んでいる――ように見える。
僕の出演する映画やドラマを観ると言った彼は、一体どんな気持ちなのだろうか。
彼の女神を奪った、狡い僕を憎んでいるだろうか。

僕が相手の動きをじっと観察していると、向こうは気まずそうに話題を移す。
「あー…えっと、あいつは、元気?」
彼女のことだろう。
僕は不自然にならないよう、声のボリュームやテンポに気を配りながら
「はい、元気にしていますよ」
とにこやかに答える。
僕の返答を聞いた彼は一瞬、心底嬉しそうな微笑みを浮かべた。が、すぐに泣き出しそうな、苦虫を噛み潰したよう顔で俯いてしまう。

ああ友よ、そんな顔をしないでくれ。
彼女さえいなければ、僕らはもっといい関係でいられただろうか。

彼から彼女を奪って以来、今までの2年間。
ひと通りの罪悪感や優越感、そして非の打ちどころのない彼への劣等感を味わい尽くしていた今の僕だから、こんな彼の態度を目の前にしたって狼狽えはしない。
だけど、ひとりの友人を失った悲しみは今も深く僕の心の中に根付いていた。

それから僕らはいくつかのとりとめもない言葉を交わし、その場をあとにした。