やさしい雨が窓をたたいた - 1/4

高校を卒業してすぐに、車の免許をとった。
別に、とくべつ車が好きとか、行きたい場所があるとかってわけじゃないけど。
車を運転できるって、ちょっと大人みたいでしょ。

免許をとったあと、しばらくの間は運転の練習をして、5月の連休に彼女をドライブデートに誘った。

「わあ、一紀くんとドライブなんて、なんだか夢みたい」
彼女はいつものふわふわした笑顔で僕の誘いを喜んだ。

僕らのデートはまだまだ高校時代の延長線上。
大学生になったなら、今までと違う大人っぽいデートができたなら、彼女ともっと近づけるだろうか。
このドライブデートには、そんな僕のささやかな願いが込められていた。

***

それなのに――神様はあまりにも無情だ。

その日はひどい豪雨で、おまけにごうごうと唸る強い風が雨粒を地面に叩きつけていた。

「よりにもよって、すごい雨だね」
彼女は微笑みながらタオルを僕の頭にかけて、相合い傘でずぶ濡れになった髪をわしゃわしゃと拭いてくれた。
可愛いジーンズの裾は濡れていて、たぶんきっとすごく時間をかけてセットしてくれたはずの髪の毛も、部屋から出て車に乗るまでにずいぶん乱れてしまっていた。
「本当に、ごめん…」
そう言って僕は、ちょっと泣きたい気持ちで続けた。
「けど、ホテルも予約しちゃったし、とりあえず目的地には行かなきゃ」
自分の口から吐き出された声音があまりに悲壮感を帯びていて、我ながら可笑しい。

そんな僕に、彼女はやさしい微笑みを浮かべたまま軽くキスすると、そっとブレーキレバーを握る僕の手を握った。
「一紀くんとドライブ、すっごく嬉しいよ。たとえ雨のなかでも」
マシュマロみたいにやわらかなえくぼとともに、彼女は「いこ?」と首を傾げる。
普段通りに穏やかな彼女の様子にそっと背中を押されて、僕はゆっくりとアクセルを踏んだ。

車内にはこのドライブのために作ったプレイリストかかっていた。
初夏の眩しい日差しと、華やかな彼女の雰囲気にあわせたシティ・ポップ。
さりげなく、ひっそりと背伸びしたアダルト・オリエンテッド・ロック。
だけどそんな曲たちは――こんな薄暗い豪雨には不釣り合いで、かえって寒々しかった。

ことごとくうまく行かないもんだな、とがっかり項垂れたい気持ちを堪えてハンドルを握っていたら、不意に彼女がプレーヤーに手を伸ばす。
「ね、一紀くんの好きなあのバンド、新譜聴いた?」
朗らかな声が車内の静寂を破った。
「えっ、うん、聴いたけど…」
僕は少し戸惑って、声を上擦らせながら返事した。
彼女は白く細い指でプレーヤーの画面を軽やかにタップしている。
「わたしも最近ハマっちゃって、よく聴いてるんだ」
かけてもいい?と訊く彼女に、僕はただ頷いた。

すこしして、僕がいつも聴いているイギリスのオルタナティヴロックバンドの新譜が流れた。
陰鬱で、ちょっとナイーブで、激情的。
デートには似つかわしくないかもしれないけど、雨には合っていた。

彼女がそっと、メロディを口ずさみはじめる。
僕は驚いて、横目に彼女を見た。
小さな声だったけれど、かすかに歌詞が聞き取れた。

このバンドは高校生の頃、彼女にも聴いて欲しくてCDを貸した、ちょっと思い出のミュージシャンだった。
彼女も、歌詞を覚えるほどこの曲聴いていたんだ、そう思うと胸の奥がじわりと熱くなった。

***

当初の予定では、エメラルドグリーンの海の上にかかる長い橋を渡って、島にある有名なハンバーガーショップでランチを食べることになっていた。

けれど、激しい風が吹き荒れる海はどんより墨色をしていて、海岸沿いに生えている椰子の木も強風に揺さぶられて折れてしまいそうだ。

しかし助手席の彼女は目の前の絶望的な状況など意に介さず、
「でも、ハンバーガーは雨でも関係なく食べられるんじゃないかな?」
と殊勝なことを言っている。

それで僕らは予定通りに、暴風吹き荒れる海の上を渡り、島にあるハンバーガーショップで昼食を取ることになった。

行列必至の超人気店だけど、こんな天候のおかげもあって待ち時間ゼロで窓辺席に通された。
彼女はアボカドチーズバーガーとラズベリーソーダを、僕はダブルチーズバーガーとジンジャーエールをオーダーした。
そのあいだも、打ち付けられた雨粒が窓の表面を伝って、荒れた海の水平線をぼやかしつづけた。

彼女は退屈なんじゃないか…僕はまたしても不安になった。
だけど彼女はスマホをいじることすらせずに、黙って窓の外を見ていた。

何か言おうか、そう思って口を開きかけたところでハンバーガーが運ばれてきた。
「ご注文は以上でよろしいでしょうか?」
黄色いサンバイザーをつけたウェイトレスの若い女性がにこやかに告げる。
僕らは口々に「ありがとうございます」「大丈夫です」と返事して、目の前に置かれたほかほかのハンバーガーに相対した。

「すっごく美味しそうだね」
彼女の声は明るく弾んでいて、大きな口を開ければひとくちで食べられるかなあ?なんて首を傾げながら、バンズをちょんちょんと指先でつついていた。
しばらくして、意を決した彼女がハンバーガーを手に取り口を開ける。

僕はなんとなく彼女に無理をさせているような気がして、ハンバーガーが喉を通らなかった。

手持ち無沙汰にジンジャーエールを飲めば、炭酸の泡が胸を塞いでいくみたいにずっしりと溜まっていく。

正直、ため息をつきたかった。
もっと自分が大人なら、彼女を楽しませる話題のひとつやふたつ、用意できただろうか。

僕がなかなかハンバーガーに手をつけられずにいると、また外の荒れた海を見ていた彼女が、何の脈絡もなく言った。

「ノースショアの波は、これよりずうっと大きいんだよね」

彼女とは高校時代からたまに一緒に波に乗る。
本人はほんの趣味程度にって言ってるけど、もっと本気でやれば結構いい線いくんじゃないかって思ってる。
っていうのは、贔屓目だろうか。
だから彼女は僕の部屋にいるとき、もっぱらサーフマガジンに目を通す。
この前読んでいたのは世界のビッグウェイブスポットの特集だったから、今日の発言はきっとその影響だろう。

「ペアヒに行ってみたいの?」
「ふふ。もうすこし修行したらね?」
「だったらチューブライディング、もっと上手くならなきゃ」
今度コツ教えてあげる、と僕が言えば、彼女はうん!と大きく頷いた。

ハンバーガーを食べ終わった僕たちはまた車を走らせて、チェックインまでの時間をつぶせる場所を探した。

けど、嵐が強まるなか、話題のインスタ映えスポットも、ジェラートの屋台が消え去った公園も、クローズされたままの喫茶店もなにもかもが僕らの味方をしてくれなかった。

それで、予定よりチェックインの時間を繰り上げてひと足早くホテルに向かうことになった。

「映画でも観ていればいいよね」
助手席で彼女がのんきそうに笑っている。
僕は滅茶滅茶になったデートプランに絶望して、半分ヤケクソの気持ちでうなずいた。

それがまさか、こんなことになるなんて…。
この時の僕には、想像もつかなかった。