事の発端は、新作公演に呼んだ客演の女優が僕に並々ならぬ関心を抱いてしまったことだ。
とはいえ、業界人として20年以上もの月日が経っている僕にとってそんなことは日常茶飯事で――共演した俳優を好きになってしまう女優なんて今まで何人も見てきた――その好意にとくべつ取り合うこともなく、食事の誘いをのらりくらりとやりすごしては、いつものように女性側が醒めていくのを待っていた。
しかし、女優はあろうことか、彼女の前で僕の身体に抱きついた。
おまけに、舞台の衣装とはいえ、あられもない姿のままで。
振り返って僕らを見た彼女の表情が脳に焼き付いて離れない。
驚きと、失望と、ひどく傷ついたようなあのまなざしを。
けれど彼女は帰宅した僕をいつも通りにあたたかく迎え、微笑みながら地方巡業へと送り出してくれた。
僕は一度だけ、彼女に言葉をかけようとした。
しかし、蒸し返される方が、嫌だろうか――あるいは、彼女も僕と同じに芸能界ではよくあることだと割り切っていてくれているのだろうか――そんな迷いが生じて、結局僕は何も言わなかった。
僕は本当に愚かだ。どんな迷いが生じていようと、彼女と口論になろうと、愛しているのはあなただけだときちんと言葉にすべきだった。
今更そんな後悔に打ちひしがれても、彼女をひどく傷つけたことを知った時にはもう遅かった。
「ただいま、帰りました」
得意先との会食が早く切り上げられたので、想定よりも数本早い便で帰宅することができた。
念の為にと予約していたホテルもキャンセルした。
僕は1週間ぶりに彼女に会えるのを心待ちにしながら新幹線に飛び乗ったけれど、彼女が待っているはずの部屋に明かりはなく、当然その姿もなかった。
僕はオロオロしながら部屋をさまよい、キッチンの調理台の上に置かれているビニール袋に気がついた。
キッチンはなにやらうっすらと甘い匂いがして、そういえば今日はバレンタインだということをふと思い出す。
彼女は毎年バレンタインに手作りのお菓子をプレゼントしてくれた。
僕の好みをおさえた、とびきり美味しいやつを。
けれどそのビニール袋を見つけた時、何やら悪寒めいたものを背筋に感じた。
おそるおそる結び目を解いて、中を確認する。
中身は砕けたチョコレートだった。
綺麗に飾り付けられた装飾はちらばり、メッセージが書かれていたと思しきプレートも割れていた。
僕はその光景を目の当たりにした時、全身が焼かれるような痛みを感じた。
けれど同時に、彼女の失望はどれだけ深かったろうと考えた。
気づけばとめどなく涙が流れていた。
彼女に愛想を尽かされてしまったのだろうか。
頭の中が後悔で埋め尽くされていく。僕は気分が悪くなって吐き気がした。
ひとしきり泣いた後、僕はそのチョコレートをひとかけら口に含んでみた。
それは本当に美味しかった。
きっと彼女はすごく丁寧にこれを作ってくれたのだろう。
その事実が余計に悲しかった。
ぼくはひとつひとつ、貪るように口に運びつづけた。
チョコレートを頬張りながら考えていたことは、彼女を探さなくちゃということと、どうやって彼女と仲直りをするかということだけだった。
僕は意を決して、鞄からスマートフォンを取り出した。