それから間も無く、わたしたちがコース料理のデザートを食べ終わる頃、息を切らした夜ノ介くんがレストランに現れた。
「…やっと、見つけました」
「夜ノ介くん」
久しぶりに見る彼は顔面蒼白と言っても過言ではないほどに取り乱しているように見えた。
「おかえりなさい」
状況がよく飲み込めていないわたしは彼の様子に呆気に取られていて、なんの変哲もない平凡な言葉だけが口をついて出てきた。
けれどそんな一言が、彼の強張っていた表情を和らげる。
彼は淡く微笑んでわたしの髪の毛にそっとキスをした。
「…ただいま」
数秒間、わたしたちは見つめあった。
いざ彼を目の前にすると、この世の誰よりかっこよくて愛おしくて、あれほど不安に打ちひしがれていた心すら、軽くなったような気がした。
夜ノ介くんは風真くんの方へと向き直った。
「風真くん、お久しぶりです。日本に帰ってきてたんですね。フレンチ、僕もご一緒したかったな」
「ああ、今回はタイミングが悪かったよな。また誘うよ」
「是非。…さて、旧友との再会に水を差して申し訳ないけれど――僕の恋人を、そろそろ返してもらってもいいかな」
夜ノ介くんの表情には有無を言わさぬ凄みがあり、わたしも風真くんもゴクリと固唾を飲んだ。
「やれやれ、王子様には敵わないな」
風真くんは苦笑して肩をすくめた。
彼がウェイターに合図を送ると、奥から支配人が出てきて言った。
「お代の方はすでにいただいております」
支配人の初老の男性がにこりとわたしたちに微笑みかけ、夜ノ介くんに目配せした。
「今後ともご贔屓に」
「ええ。また近いうちに伺います」
わたしと風真くんがまたもや呆気にとられていると、夜ノ介くんにホールドされるように腰を支えられ腕を掴まれ、店から出るように促された。
「ここ、劇団の御用達なんです」
不意に小声で耳打ちされて、あったかい吐息に身体がゾクっとする。
わたしは風真くんに別れの挨拶をすませたあと、エントランスの方へ歩き出そうとした――すると、また夜ノ介くんに身体を捕まえられて引き戻された。
「すこし、寄りたい場所が」
「え?」
彼はそう言うとわたしの腕を掴んだままホテルのエレベータに乗りこんだ。
階数が10階、20階、とどんどん上がっていくごとに心臓がばくばく高鳴った。
わたしの身体を抱きしめたままの夜ノ介くんは何も言わない。
エレベータは最上階で止まった。
何が何やらわからないままに彼に連れ立っていけば、ホテルのスイートルームに通された。
ぱたん、と扉が閉まり、部屋で彼とふたりきりになる。
ここまできて、わたしはふたりのあいだに流れていた曖昧な空気を思い出してまた逃げ出したくなった。
このまま逃げてしまおうか、それともこれはどういうことなのか尋ねてみようか。
混乱した頭であれこれ考えていたけれど、ふとわたしは自分の考えを一切合切放棄した。
なぜなら、目の前の彼が泣いていたからだ。
先ほどまでの毅然とした表情は失われ、ただ少年のようにあどけない普段通りの彼が、さめざめと涙を流している。
わたしがびっくりしていると、泣き顔のまま彼は愛おしそうにわたしを見つめた。
「はあ、やっぱりだめだ。…あなたの前で、演技はできない」
彼は苦しげだったけれど、その唇は緩く弧を描き微笑んでいる。
わたしはというと、彼の美しい瞳から頬に涙が伝うたび、それがあまりにキラキラと綺麗だったので、流れ星のようだとぼうっと見惚れていた。
そんなわたしに、夜ノ介くんは怒ったように頬を膨らませる。
「チョコ、どうして割ったりしたの」
予想外の一言に、わたしはポカンとした。
そういえば割ったチョコレートを入れたビニール袋をキッチンの調理台の上に起きっぱなしにしてきたことを思い出す。
「…! 見たの」
彼に見つかる前に処分するつもりだったのに。
見られた挙句、事態を余計にややこしくしてしまったことへの後悔を募らせていると、彼は両目いっぱいに涙を溜めたまま縋るようにわたしを見つめた。
「見たも何も、全部食べましたよ」
「えっ」
「悲しくて悲しくて泣きながら、全部食べました」
その光景を想像したら、自分はなんてことをしてしまったんだろう、とずっしり胸が重くなった。
彼を苦しめたかったわけじゃない、本当は彼を喜ばせたくて作ったチョコレートだったはずなのに。
自分の愚かさに嫌気がさす。
「……ごめんなさい」
「いいよ。今回は僕もわるかった。だからもう、こんな酷いことはしないで」
夜ノ介くんがわたしをぎゅっと抱きしめた。
「あなたを傷つけていたことに僕はずっと気付こうともしなかった。僕はどうしようもない愚か者だ」
彼の言葉にわたしは何も言えなかった。
ただ、長い間我慢していた涙が堰を切ったように溢れた。
彼に会えなかった1週間ものあいだ、ずっとわたしを苦しめ続けた耐え難い嫉妬を思い返せば、今でも恐ろしくて身体が震える。
それを彼がきつく抱きしめた。
「僕が愛しているのはあなただけ」
夜ノ介くんはわたしの涙をそっと拭い、何度も頬にキスを落とした。
彼は涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、祈るように言った。
「だからこれからも僕だけの恋人でいて」
必死に掻き抱くように、背中にまわされた腕にぎゅっと力がかかる。
わたしは胸がいっぱいで、思うように言葉が出なかった。
それを不安そうに彼が見つめている。
何か言わなきゃと口を開きかけたとき、不意に彼の表情がいじけた子どものようになった。
「それから――もう僕の知らないところで風真くんに会ったりしないで」
彼は怒っているみたいだったけど、拗ねた表情がかわいくてわたしは少し微笑んだ。
「…いやだった?」
「ものすごーく、嫌でした」
しばらく抱き合っていたわたしたちは、スイートルームの大きなベッドに倒れ込んだ。
「ねえ、どうして急にスイートルームとったりしたの?」
ずっと疑問に思っていたことを聞いてみる。
すると彼はむくりと起き上がってわたしの身体の上に覆い被さった。
「それは、風真くんと食べた食事よりもあなたの記憶に残ることをしたかったから」
意外な返答に、一瞬頭が追いつかなかった。
彼は相変わらずいじけた顔をしている。
わたしが可笑しくてふふ、と笑っていると「笑い事じゃないです」と彼は恥ずかしそうに頬を赤らめながら言った。
会話が途切れ、わたしたちはそのままじっと見つめあっていた。
彼の真剣なまなざしがわたしを射抜く。
少し気まずくて目を逸らすと、噛まれるようにキスされた。
閉じた唇を暴かれ、何度も何度も舌を絡ませあった。
嬉しさと息の苦しさに耐えかねてぎゅっと閉じていた瞼を開ければ、うっすらと開いた彼の金色の目がわたしを見下ろしていた。
彼がワンピースのファスナーに手をかける。
ここで、するのだろうか。
わたしはなんとなくこのまま彼の前で乱れるのが気恥ずかしくなった。
心の奥底に、またあの美しい「彼女」の姿が浮かんでいた。
しかし、こちらの非力な抵抗などあっさり流され、いとも簡単に肌着を脱がされてしまった。
部屋は暗くて、ガラス張りの壁の外一面に広がっている夜景だけが頼りとなって部屋の中を照らしていた。
「1週間、ずっとあなたに触れたかった」
温かく滑らかな肌を重ねれば、吸い合うように合わさった。その感触が懐かしく、微睡みそうなほど穏やかで心地よかった。
けれど彼がわたしを見るめる視線は狩りをする獣みたいに鋭かった。
「でもね、僕はすこし、嬉しくもあったんです。あなたが嫉妬してくれたこと」
その言葉に、わたしはまた身体がゾクッと震えるのを感じた。
彼が直接的に「彼女」にまつわることに言及したのはこれが初めてだったから。
「ずっと嫉妬しているのは僕ばかりだって思ってた」
彼が目を伏せて、わたしの胸から下腹へと手のひらを滑らせていく。
「どういうこと?」
彼の言っていることの意味がわからなくてわたしは眉を顰めた。
「…わからない? 風真くんの前であんなに意地を張っている僕を見ても?」
彼の華奢で大きな手が下腹部を焦ったそうに何度も撫でた。
「…わからない。ここ最近ずっとそう。夜ノ介くんの考えていることがわからなくて、苦しくてたまらない」
頭の中に溢れるままに言葉を吐き出す。
すると彼はまた泣き出しそうな顔で言った。
「どうすれば、わかってくれるの」
彼は少し乱暴にわたしを組み敷くと首筋に噛み付いた。
あ、と短い叫び声をあげて身体を跳ねさせる。
たとえわたしが泣こうが喚こうが容赦なく、彼の愛撫はつづいていく。
このところ、彼に抱かれるときはいつもそうだ。
とめどない絶頂と快感の渦の中に叩き落とされて、愛し合っているのにどこか孤独で、寂しくてたまらなくなる。
「ねえ、夜ノ介くんに抱かれている時の自分がいやなの」
気づけば思わずそんなことを口走っていた。
「愚かで惨めな自分を曝け出してるみたいで」
さめざめと、生ぬるく冷えた涙が頬を伝った。
「それで?」
金色の目がわたしを見下ろしている。
怒りとも悲しみとも違う、何か強いエネルギーを秘めた瞳が。
「でも、どうしようもなく好きなの!」
悲壮感に満ちた情けない声が雪の夜の静寂を引き裂いた。
「それなら僕はもっと愚かだ」
彼は舌なめずりして羽織っていたシャツを脱いだ。
「あなたとこうして毎晩獣みたいにまぐわうのを心から愉しんでる」
低くあまい吐息が耳元をくすぐる。
わたしは彼にこんなひどい科白を吐かせでしまったことにまた目の前がくらくらした。
彼は酩酊したように力なくぐったりしているわたしの首を掴んだ。
「ねえ、僕はこんなに愛しているのに――まだ足りない?」
ギラギラした彼の瞳が恐ろしいほどうつくしく、わたしは彼から目を離すことができなかった。