すっかり時間感覚を失った頃、また電話が鳴った。
わたしは意表を突かれ、心を陶酔させていた甘やかな背徳感はひっこんでしまった。
――彼だろうか。
ふと頭をよぎった希望的観測に突き動かされ、床に放り出されたままのスマートフォンを拾い上げる。
けれど画面に映し出されていたのは意外な人物の名前だった。
「風真くん?」
イギリスにいるはずの旧友からの電話に、わたしは戸惑いながらも通話ボタンを押した。
「もしもし」
緊張しているのか、電話の向こうの彼の声は固く、すこし震えていた。
「もしもし!どうしたの?珍しいね」
わたしはちらりとリビングの時計を見た。
時刻は午後11時。イギリスは今頃昼過ぎだろうか。
「いや…実は今、日本に帰ってきてて、なんとなくどうしてるかなって思って」
電話口の声がたどたどしく言って、はは、と語尾に気まずさを紛らわすような笑い声がつづいた。
しかし、こんな絶望的な気分の日にかかってくる友だちの電話ほどうれしいものはなかった。
わたしはなんだか泣いてしまいそうになりながら、密やかにその電話を喜んだ。
「いつまで日本にいるの?」
「実は、明後日の早朝のフライトで戻る予定。それで、明日の夜、もしよければ夕飯一緒にどうかなって…ほら、柊も一緒に」
彼の名前を聞いて、わたしはまたもや現実に引き戻された。
「ちょっと、難しいかも。夜ノ介くんは明日まで地方巡業でいないから」
「――そっか、残念だよ」
風真くんの声が低くなる。落胆、したのだろうか。そのわりにはなんだかホッとしているようにも聞こえた。
「じゃあ、またの機会に誘うよ――」
彼がそう言って電話を切ろうとしたので、わたしは慌てて彼を制した。
「夜ノ介くんぬきじゃ、だめ?」
「えっ」
わたしの発言に彼は驚いているみたいだった。
「いいのかよ?」
「うん。友だちと外でご飯食べるくらい、別にどうってことないでしょ」
「そっか。まあ、そうだよな」
ちょっと含みのある風真くんの反応が気になったけれど、わたしたちは明日の夜はばたき市の臨海地区にある有名ホテルのフレンチレストランでディナーをすることになった。
***
次の日。
わたしは夕方にシャワーを浴びて髪を整え、化粧をした。
艶のある肌になるように、保湿はしっかりと。唇には燃えるような赤いルージュをひいて、本当は夜ノ介くんとのディナーで着るつもりだった青いシルクのワンピースを纏う。
「彼女」のような華はない。でも、こうして身なりを整えている自分は美しいと自画自賛してみる。
けれど彼にこの姿を見せることはないのだと思うと途端に虚しさで息が詰まりそうになった。
風真くんとの約束は夜の7時。
空にはまた雪がちらついていた。
2月の雪は美しかったけれど、ヒールを履いた脚には鬱陶しくてタクシーを呼んだ。
わたしは胸の内に高校時代の友人に会える喜びと、夜ノ介くんと一緒に過ごせない寂しさと、得体の知れない「彼女」への不安を同居させたまま、移りゆく車窓からの景色をぼんやり眺めていた。