夜明け過ぎの二月の雪 - 4/10

夜ノ介くんが地方巡業に出ている時、普段であれば毎晩何かしらの用事で彼から電話があった。
しかし最近は芸能界での知名度が上がり、地方巡業に合わせて地元のメディアの取材や番組出演などの仕事をこなすことも増えていた。
以前とは忙しさが段違いなのは明らかだった。

頭ではわかっていても、わたしは5日のあいだ一度も着信がなかったスマートフォンを視界に入れることすら嫌になりかけていた。

しかし、6日目の今日は彼から連絡があった。着信とともに画面に映し出される彼の名前に胸が躍った。

「はい、もしもし」
久しぶりの会話に、声がすこしうわずった。
「もしもし。元気にしてた? なかなか電話できなくて、ごめん」
「いいの。忙しかったんでしょう」
「毎晩テレビや雑誌の取材に追われて、ホテルに着いたらすぐに寝ちゃいます。あなたの作る焼きそばが恋しいよ」

いつも通りの会話が、妙にうれしくて心底ホッとする。
わたしは彼が帰ってくる明日の晩――明日は奇しくもバレンタインデーだ――に予約した人気のレストランの話題を切り出した。
すると、彼は申し訳なさそうに言葉を詰まらせた。

「そう、今日電話したのはその件なんです」
先ほどまで浮かれていた気分が冷水を浴びせかけられたように萎んでいく。
わたしが言葉を失っていると、彼は申し訳なさそうに続けた。
「明日の公演後に劇団が昔お世話になった方達とのどうしても外せない会食が入ってしまって。帰りが予定より遅くなるか、翌日になるかもしれなくて…」

心が、また深く沈んでいくのを感じた。けれど、思ってもいない言葉がすらすらと口をついて出てくる。
「そっか。でもきっと夜ノ介くんがそこまで言うならすごくお世話になった人たちなんだよね」

自分の気持ちに嘘ばかりついてしまうことに嫌気がさして、わたしは泣いてしまいたかった。

「最近の僕は貴方の優しさに、甘えすぎてる――本当にごめんなさい」
彼が辛そうな声で告げるので、自己嫌悪に陥っていてもわたしはやっぱり彼にこれ以上謝らせたくないと思った。
「謝らないで。夜ノ介くんは座長として精一杯お仕事をしてるだけでしょ」
彼は何度も謝って、「必ず埋め合わせはします」と約束をして電話を切った。

わたしは通話を切った後、ソファにうずくまったまま窓の外を見た。
2月の夜の寒々しい窓辺に雪がちらついていた。
カタン、と音がしてスマートフォンが床に落ちたのだということを知る。

わたしは夜ノ介くんが仕事に追われて忙しく過ごしていることをただ信じていればいいだけ。
すべては気の持ちようだ。

それでもやっぱり、彼に巻き付いていた「彼女」の白い腕が頭から離れない。
いまも「彼女」は彼と一緒に地方巡業に出ている。
もしかして今ごろ夜ノ介くんは、わたしの知らないところで、彼女と2人きり…。

こんなことをこれ以上考えるのは不毛だと、頭では理解できている、
しかし、どれだけ理性的にやり過ごそうとしても、一度抱いてしまった疑念を振り払うことはできなかった。

耐え難い嫉妬が、冷え切った肌のうえをゾワゾワと這いずり回った。

わたしはソファから起き上がり、熱に浮かされたように流しの蛍光灯だけがぼんやり光っている薄暗いキッチンを目指した。
バレンタインデーに彼に贈るチョコレート菓子をさっきまで調理していたから、キッチンには甘い匂いが漂っている。

本当は明日、チョコレートを渡すつもりだった。
だけどもう無用だろう。
既製品ならともかく、日持ちのしない手作りのお菓子を何日も保管しておくのも衛生的じゃないし。

わたしは作ったばかりのチョコレートを冷蔵庫から取り出し、型から抜いて、両手に持ってみた。

両側から少し力を入れるだけで、それはいとも簡単にパリンと音を立てて割れた。
パリパリと割れる軽妙な感触が気持ちよくてわたしは夢中でそれを割り続けた。

ああ、わたしはきっと後悔するだろう。
作って2日後のお菓子だって、彼ならきっと喜んでくれたはずだから。
だけど今は、そんな未来の出来事に配慮する余裕なんて持ち合わせていない。
ただ、今の自分を満足させるためだけにチョコレートを割り続けた。
一過性のものとはわかっていたけれど、その行為は絶望の淵に立たされていた心をほんの少しだけ救ってくれたような気がした。