その日の夜も風真くんの家のカウンターテーブルに並んで腰掛けて、ふたりで作った夕食を食べた。
風真くんの想いを知ったあの日以来、何度かこうして夜を一緒に過ごした。
――お母さんには「友だちの家でお泊まり会」って、嘘をついちゃってるけど……。
ほんの少しの罪悪感を抱いて、風真くんの家でシャワーを浴びる。
マリィがパジャマに着替えて風真くんの部屋に戻った時、彼は部屋に灯りもつけずにベッドに腰掛け、ぼんやりと窓の外を見ていた。
「玲太くん、大丈夫?」
マリィは彼の隣に腰掛けて、心配そうに顔を覗き込んだ。
彼は相変わらず暗い表情のままだったけれど、マリィの顔を見てうっすら微笑んだ。
「――話が、あるんだ」
風真くんが、話を切り出した。
マリィはその思うところをなんとなく察して、ただこくりとうなずいた。
「今日、お前と話してた奴――元彼、だったよな」
「うん。偶然、近くを通りかかったんだ」
「そっか……。何、話してたんだ?」
「えと…テニス、続けてることとか、かな?」
「他には?」
「わ……別れた時のこと、ごめんって」
「…それだけか?」
「だいたいそんな感じかな…」
気まずい問答の応酬に、マリィはどぎまぎした。
彼女を見ている風真くんの目の色は、燃えるように赤かった。
「玲太くんが心配するようなことは、何もないよ」
マリィが真剣な表情で言うと、風真くんは向き合っていた彼女の肩をそっと引き寄せた。
彼の表情は戸惑っているようにも、悲しんでいるようにも、怒っているようにも見えた。
マリィが何か言おうと再び口を開きかけたとき――突然、風真くんが項垂れた。
「ああ……俺、ほんとにダメなんだ」
「ど、どうしたの?」
「お前のことになると、周りがぜんぜん見えなくなって……世界中の男がいなくなればいいのにって思っちゃうんだ」
それは、マリィが今まで一度も見たことのない風真くんだった。
彼は泣いていたし、必死にマリィにしがみついている姿はちょっと情けなくもあった。
けれど、マリィは優しく微笑み、風真くんの頬にちゅ、とキスした。
「うん。知ってるよ」
「……へ?」
その返答に風真くんはびっくりして、まじまじとマリィの顔を見た。
普段のクールな表情からは想像もできない彼の「素」を垣間見たような気がして、マリィはくすりと笑った。
「けど、玲太くんが好き」
マリィは泣いている風真くんの頭を胸の中に引き寄せ、優しく抱きしめた。
一方で風真くんは想定外の彼女の反応に呆気に取られて、されるがままになっている。
「お前の今までの失恋、もしかすると全部俺が原因かもしれない。それでも?」
ぐず、と鼻をすすりながら風真くんが言った。
「いい関係の人がいるって知っても俺、お前のそばから離れたくなくて……」
胸の中の風真くんが、上目遣いにマリィを見ている。
その様子がいじけた子どもみたいだな、とマリィは思った。
「うん…玲太くんはわたしのこと、ずっと好きでいてくれたんだね」
マリィはやさしく語りかけながら、風真くんの髪を撫でた。
「ずっと気づかなくて、ごめんね」
毛先がちょっと癖毛なところは、小学生の頃から変わらずだ。
ここまで話して、マリィの胸の中で子どものように泣いてしまった風真くんは、ちょっと決まり悪そうにマリィから離れ、手の甲でぐいっと涙をぬぐった。
「……悪い、ちょっと取り乱しすぎた」
「ふふ。めずらしいとこ見ちゃったな」
「忘れてくれたり……はしないよな」
「ぜったい忘れてあげない」
恥ずかしがって顔を背ける風真くんの腕にギュッと抱きつきながら、マリィはにっこりしている。
「……これからも好きでいてくれる?」
彼はまた不安そうにマリィを見た。
「うん、好きだよ」
そう言ってうなずいた彼女は、9年前と同じ、風真くんが好きになったあの笑顔を浮かべていた。
風真くんは気恥ずかしいのか、少し不機嫌そうな顔のまま、鼻先をちょんとマリィの頬にくっつけた。
ぱち、と目と目が至近距離で合ったとき、彼の瞳が獲物を狩る獣みたいにするどくて、マリィはどきりとした。
その反応が可愛くて、風真くんはまたあのいじわるな笑みを浮かべた。
こんなふうに彼が微笑む時、マリィの心臓はとびだしそうに高鳴った。
普段は彼が必死に隠している内面を、盗み見ているような気分になるのだ。
風真くんがすこし元気を取り戻したのが嬉しくて、マリィが彼の首に腕を回すと――ふたりはそのまま、ベッドに倒れ込んだ。
首筋、頬、まぶた、そしてくちびる。
マリィはくすくす笑って「ここも、ここも」とおねだりすると、風真くんがそれをなぞるように優しくキスした。
ふたりはしばらくじゃれつくように絡み合っていたが、ふいに風真くんの長い手指がするりとマリィのパジャマの裾にもぐりこんで、そっとブラジャーのホックを外した。
それを察した時、マリィは天井のシーリングライトに視線を移し、すこしの緊張と恥ずかしさが過ぎ去っていく瞬間を待った。
風真くんは強張った表情の彼女の耳元で「怖いか?」と訊いた。
彼女は首を横に振って、うっすらとくちびるを開き、ちろりと舌をのぞかせた。
それに吸い込まれていくかのように、風真くんはまた彼女に口付けた。
長いキスのはざま、マリィは切れ切れになった息で風真くんに問いかけた。
「あのね、これからわたしがおばあちゃんになっても、どんなに見た目や中身が変わっても、ずっとずっと愛してくれる?」
その問いかけに、風真くんはちょっと泣き出しそうな顔で笑った。
「そんなの、当たり前だろ」
彼はふたたびマリィに口づけようとした――けれど、マリィが彼の胸をそっと押し返した。
「じゃあ、お芋よりいちごのパンケーキが食べたくて、ブラックコーヒーが飲める今のわたしのことも、好き?」
マリィが言うと、風真くんははっと目を見開いた。
「そういや今日、飲んでたな。ブラックコーヒー」
「そう。わたし、10年前よりずっとずうっと、お姉さんになったんだよ」
玲太くんとこういうこともできるくらい、ね?と、マリィはその白い手でそっと風真くんの首筋から肩を撫で、ちょっぴり挑発的な笑みを浮かべる。
それに対して玲太くんはすこし寂しそうに微笑んだ。
「うん。俺の知らない9年間のお前のこと、もっと教えて欲しい。それに、お前が変わっていくところを、これからは隣で見ていたいって思ってる」
玲太くんの様子がどことなくしょんぼりしていたので、マリィはちょっとイジメすぎたかな?と不安になった。
が、彼だって負けていなかった。
「じゃあさっそく、俺がまだ知らないお前の一面とやらを見させてもらおうかな」
そう不敵に笑ってマリィに覆い被さった玲太くんは――マリィのまだ知らない、イギリスで大人になった彼の一面だった。
***
シンとした冷たい空気を感じてマリィが目覚めたのは明け方だった。
彼女は昨夜の痕跡が色濃く残る身体をゆっくりと起こし、気怠げに窓をみた。
薄く開いた遮光カーテンの向こうには、ちらちらと雪が舞っていた。
風真くんとセックスしたのはこれが初めてだったわけじゃない。
だけど、ようやくふたりが心の中の柔らかいところをさらけだすことができた昨夜は、どこか必死にお互いを求めていた。
マリィは寝ている間に風真くんがかけてくれていた薄いシャツのボタンを開けて、そこらに散らばっている下着やパジャマを拾い上げては身につけた。
雪のせいで外は冷え込んでいるみたいだった。
だけど、風真くんがくっついていてくれたから、寝ている間は寒くなかった。
マリィは着ていたシャツを裸で眠っている風真くんの、布団からはみ出ている肩にそっとかけた。
昨日の夜、マリィを抱きながら風真くんは言った。
「確かに俺は――すこし、狂っているのかもしれない」
突然の告白に、マリィが心配そうに「どうしたの」と彼の顔を覗き込み、彼の頬を両手で包みこむ。
「お前に触れているだけで、どうしようもなく満たされていくんだ」
風真くんの表情は苦しげだった。今にも泣き出しそうに、瞳が潤んでいた。
それなのに、心底幸せそうに笑い、言葉をつづけるのだ。
「それが、俺にとっての現実で、たったひとつの願望なんだ」
彼の幸せは、ひょっとすると、誰かの目には不幸にうつるのかもしれない。
マリィと風真くんの恋のはじまりだって、きっと誰かは歪だと思うだろう。
自分たちの恋は、傷だらけで、いくつもの矛盾をはらんでいた。
でも、それだって構わない――マリィは思うのだった。
マリィが再びベッドに戻った時、深い眠りの中にいる風真くんの表情は、どことなく疲れていた。
けれど、マリィがベッドに戻ってきたのを察知したのか、彼はうわごとで彼女の名前を呼び、寝返りをうって彼女の身体をぎゅっと抱きしめた。
その顔は相変わらず疲れていた。けれど、やっぱりこの上なく幸せそうにも見えた。
「――仕方のないひと」
そう言ってマリィはふわりと微笑んで、隣で寝こけている風真くんに口づけた。