アンビバレントな僕らをゆるして - 2/5

マリィは風真くんの家にすでに何度かお邪魔したことがあった。
ご両親がまだイギリスに残っている彼の家は、どことなくがらんとしていて寂しかった。

マリィは通されたカウンター席に座り、夕飯作りに忙しなく動いている風真くんを眺めながら、ふと――彼は普段どんな気持ちで日本に暮らしているのだろうか、と思った。
イギリスに9年もいたのだ。
仲のいい友だちだって、向こうにたくさんいただろうに。

それで、何の気なしに聞いてみた。
「風真くんはさ、ご両親もイギリスで……寂しくないの?その、お友だちだって、向こうのほうがたくさんいるでしょ?」
風真くんはマリィの言葉に少しばかり驚いたようだった。
卵をかき混ぜる(オムレツを作るのだろうか?)手を止めて、まじまじとマリィをみつめる。
そして、ごく真剣な表情のまま言った。
「そりゃ寂しくないって言えば嘘になるけどさ。それでも日本に、ずっと一緒にいたいひとがいるから」

風真くんの返答に、マリィはキョトンとした。
てっきり、日本でやりたいことがあるとか、興味がある美術品があるとか、そういう話だとばかり思っていたからだ。

おまけに、風真くんはいつもマリィのそばにいた。
クラスも一緒で、お昼休みもいつも一緒にランチを食べて、アルバイト先も同じで、アルバイトのない放課後やお休みの日も一緒だった。
彼の「ずっと一緒にいたいひと」はもしかすると……いや、かなりの確率で、マリィのことを指し示していた。

そんな考えが頭の隅によぎった時、マリィは混乱した。
今まで彼をそんなふうに見たことはなかったからだ。
彼ほどにマリィが心を許せる男友だちはいなかったから、いまの関係性が崩れるのが嫌だったのかもしれない。
友人としての風真くんを失うのは、マリィにとってあまりに辛すぎた。
でも、風真くんにとっての自分たちの関係は、わたしが思うものとは違っているのかもしれない、と彼女は思った。

「その、風真くんがずっと一緒にいたいひと……って?」
キッチンとダイニングを隔てるカウンター越しにマリィが身を乗り出す。
彼女が期待と不安の入り混じる、なんとも言えない表情をしていたので、風真くんはちょっと可笑しくて吹き出した。
「そりゃ、お前に決まってるだろ?そうじゃなかったら俺、困るよ」
「……そ、そうなんだ」
マリィのまっしろな肌にぽっと朱がさしたが、思うように言葉は出てこない。
風真くんの気持ちがいざ明らかになったとて、どんな顔をすればいいかがわからなかった。

しかし、そんなマリィの反応は風真くんにとっては想定内だった。
彼は今更落ち込むこともなく(もちろんちょっぴり悲しかったけど)ただ淡々とマリィの反応を受け止めていた。
高校入学から今までの2年と数ヶ月。
数々の大胆なアピールを試みたが、ことごとく彼女にはあまり効果がなかったからだ。

一方、マリィは真っ赤になって、心臓をバクバクさせながら、カウンターテーブルに腰掛けうつむいていた。
新鮮な驚きと戸惑いが彼女の脳を占拠していた――それゆえ、失恋の痛みはすっかり消え失せて、知らぬ間に涙はひっこんでいた。

「俺ならお前を悲しませるようなこと、しないと思うけど」
風真くんはすこしぶっきらぼうに言って、気まずい間を誤魔化すように、フライパンの中のふわふわのオムレツを器用にひっくり返した。
そのままトントンと手慣れた様子で柄を叩き、まあるく整形されたオムレツが白磁のプレートの上に滑り落ちていく。

風真くんの言葉のひとつひとつに隠された特別な響きに気づいてしまったマリィの心は、混乱と羞恥でいっぱいだった。
でも、やっぱりそのなかには嬉しい気持ちもあった。

コトン、とテーブルに白磁のプレートが置かれる音がして、マリィははっとする。
風真くんが「食べよう」と言いながらマリィの隣の椅子をひいて腰掛けた。

プレートの上にはオムレツとサラダ、レーズンの入ったキャロットラペ、マフィン、ソーセージがのっていた。
「美味しそう…!」
マリィは一瞬、涙も動揺も忘れて、ほかほかとあったかい湯気を立てるプレートに歓声を上げた。
その反応を受けて、風真くんは「そうでしょうとも」と満足そうに胸を張った。

しかし、すぐに真面目な顔をして
「さっきはその、ごめん。なんか変な雰囲気になっちゃったよな」
とマリィに謝った。

それでまたマリィは真っ赤になって、ぶんぶんと胸の前で手を振る。
「そんなことないよ…わたしのほうこそ鈍感で、何から何まで嫌になっちゃう…」
慌てふためいている彼女を、風真くんは愛おしそうに見つめた。

そして、大きな手のひらで彼女の手を取り、祈るように目の前に掲げた。
「でも、さっきのはほんと」
「…え?」
マリィは真っ赤な顔のまま目を見開いた。
「ずっと、俺をえらんでくれればいいのにって思ってた」
そう言って、風真くんはマリィの手の甲にゆっくり口づけた。
風真くんの瞳はまっすぐ彼女を見ていた。
前髪の影に隠れていた瞳が、こんなにも熱っぽかったことを、マリィはこの時まで知らなかった。

マリィは呆気に取られてその様子を見ていたが、ハッと我に帰って手を引っ込めた。
「だ、だめ…そんなの絶対だめ!!」
引っ込んでいたはずの涙がまた、ぼたぼたと頬を伝う。
風真くんはギョッとして、悲しみを胸に引っ込め、「ごめんごめん冗談だから」と弁明するシミュレーションを脳内で繰り広げた。
しかし、彼女の反応は風真くんの思っているものとは少し違っていた。

「だってわたし、風真くんまで離れていっちゃったら、もうこれからどうやって生きていけばいいかわかんないよ!」
マリィはありったけの悲壮感を込めて風真くんに切実な気持ちを伝えようとした――つもりだった。
けど、そんなのは風真くんにとっては些末なことだった。
「…ぷ」
目の前の風真くんは、さも「おかしくてたまらない」と言わんばかりに笑いを堪えている。

「ちょっと、何がおかしいの?!」
マリィは涙でくしゃぐしゃになった顔のまま拳を握ってぽかぽかと風真くんの胸を叩いた。
「いやいや、失恋のトラウマが結構堪えてんだなーってさ」
風真くんの肩は笑いを嚙み殺してぷるぷる震えてる。
「そりゃそうでしょ?乙女心は粉々なの!きっとわたし、恋愛大殺界なんだとおもう」
マリィは半ばやけくそだった。
「風真くんにまで『もうふたりきりでは会いたくない』とか言われた日には、今度こそ心臓発作でも起こして死んじゃうから!」
勢いに任せて本音をぶちまける。
ここで切実な思いを風真くんにぶつけることで、この後も気まずくならずに仲良くしていられると思ったからだ。

「そうかそうか」
風真くんはカウンターに肘をかけ、どことなくニンマリしてマリィの言葉を聞いていた。
それがちょっとだけむかつくな、とマリィが頬を膨らませた――そのときだった。

「んじゃ、大丈夫だな」
風真くんの顔がゆっくりと近づき、彼の手のひらがそっと彼女の首筋をなぞった。
「俺は10年以上も前からずうっと、お前に恋してるんだから」

彼のざらざらした声がマリィの鼓膜を震わせ、そのくちびるが、彼女にそっとキスをした。

最初、マリィはびっくりして身体を硬直させたが、風真くんの匂いや手のひらの温度がしだいに心地よく感じられて、瞳を閉じた。
一方で、風真くんはうっすらと目を開けて注意深く彼女を観察していた。
彼女が一瞬でも嫌がる素振りを見せたら、すぐに行為を中断できるようにするためだ。
けれど彼女は特に嫌がるわけでもなく、頬を染めて身体を彼に預けていた。
ふたりは何度も何度も角度を変えて、お互いのくちびるを味わった。

薄く開いたマリィのくちびるの隙間から、風真くんは恐る恐る舌を滑り込ませた。
マリィは初めての感触に思わずぶるっと身体が震えたけれど、そのキスは穏やかで、愛情に満ちていて、幸福だった。
風真くんの舌がやわこくてあったかいのが何故だか嬉しくて、マリィは夢中になって舌を絡ませた。

「い……一旦ストップ」
最初に音を上げたのは風真くんの方だった。
くちびるを離したマリィは、自分の大胆な行動もキスで潤んだ瞳もなんだか急に恥ずかしくなり、風真くんから顔を背けた。
風真くんも、ちょっぴりぎこちなく笑っている。
「夕飯、冷めちゃったな」
「そ、そうだね…」
ふたりはカウンターに置かれた料理を見ていたが、風真くんの手はまだマリィの手を握っていた。
「な、俺がお前を好きだってこと、ちゃんと伝わったか?」
風真くんの声は少し震えていた。マリィの手を握る力が、ちょっとだけ強くなる。
「うん…伝わったよ」
マリィは照れ臭いながらも、風真くんの方を見つめてふわりと微笑んだ。
それを見た風真くんはすっかり安堵したあと、ちょっと悪戯っぽく笑った。
「じゃ、それ食べたら…つづきをしようか?」