今日の玲太くんは不機嫌だ。
その理由はわかっていた。明日に迫ったイギリス出張が憂鬱なのだ。
彼は着々と朝食当番をこなすわたしの背中にしがみついたまま項垂れていた。
今朝は起きた時からずっとこんな調子だ。
「お仕事遅刻しちゃうよ?」
サラダボウルの中のレタスやトマト、塩抜きしたオニオン、ドレッシングを忙しなく混ぜ合わせながら、わたしは自分のウエストに回された腕がぎゅっと締まるのを感じた。
「誰かさんのせいでーす」
「だからごめんって!そろそろ機嫌なおしてよ」
大学卒業後に結婚して、もうすぐ2年。
彼は家業を継いで、たまに仕事の都合でイギリスの両親の元へ帰っていた。
わたしは玲太くんの仕事をときどき手伝いつつ、フリーランスのライターとして、いまでも頻繁にはばチャの記事を書いている。
比較的スケジュールの融通を利かせやすいわたしは、情報収集も兼ねていつも彼の渡英に付き添っていたけど、今回ばかりはどうにも取材のスケジュールが詰まっていて予定を動かすことができなかったのだ。
玲太くんはいつも一緒にイギリスに帰ることを好んだ。
ひとりきりでイギリスに向かうと、小学生の時にふたりが離れ離れになった日のことを思い出してしまうらしいのだ。
「わたしたち、もう夫婦でしょ。帰国したらまたずっと一緒にいられるし、怖いことなんてもう何にもないんだよ」
絡まる玲太くんの腕をやさしくほどき、彼に向き合う。
けれど彼の赤い瞳はまだ不服そうにじとっとこちらを見ていた。
「じゃあ復唱。お前の来週のスケジュール」
不貞腐れた声に、わたしは思わずやれやれと肩をすくめた。
「ええっと…祝日の月曜日は劇団はばたきの新作公演の千秋楽だから…柊くんの独占取材でしょ。火曜日は一流大学のプレスリリースで本多くんのインタビュー、水曜日は吾郎先生の来年春の新作の打ち合わせ、そのあと七ツ森くんに招待してもらったファッションショーを取材させてもらって、木曜日は颯砂くんの」
「はーい。もう十分でーす」
「もう!玲太くんが言えって言ったんでしょ?」
こちらが不満を口にすると、大きな手のひらがわたしの両頬を挟んだ。
「なんで俺のいない週に限ってあいつらに会う予定ばっか入ってんだよ」
にじり寄ってくる玲太くんの目は笑っていない。
「しょうがないでしょ、たまたまイベントごとが重なる時期だったんだから。それに、仕事が終わったらすぐ家に帰るからなんにも心配いらないよ」
しかし、こんなことで言い合いになるのも久しぶりのことだった。
玲太くんはもともと束縛の強いほうではあったけど、結婚してからはさすがにわたしに言いよってくる男性は激減した。
最近はそろそろ子どもを、と考えていることもあって毎晩のように抱き合っていたし、自然とふたりきりで過ごす時間も増えていた。
そんな矢先、今回の渡英の話が舞い込んできたのである。
当然、わたしも同行するものだと思っていた玲太くんは、次から次へとわたしにかかってくる旧友からの電話に落胆した。
『あ、もしもし、七ツ森だけど。アンタ月末の水曜日空いてる?吾郎先生の新作発表会、ショーとレセプションパーティーのプレス席、まだ空きがあるみたいなんだけど…』
『もしもーし!本多です。久しぶり!今度俺の論文がNatureに載ることになって、大学の事務局がプレスリリースを出してくれることになってね…』
『もしもし!颯砂だけど、来月の世界陸上に合わせてスポーツ誌に取材を申し込まれてさ!それでライターを指定出来るって言われて…』
そんなこんなで、予定はあっという間に埋まってしまったのだ。ついでに柊くんの舞台の千秋楽も重なって、連日大忙しというわけである。
「お前抜きで3週間。俺、耐えられるかな…」
相変わらず陰鬱な表情のままの玲太くんがモーニングプレートのトマトをフォークでいじっている。
「ほら、シャンとしてしっかりご飯食べて。若社長がそんな元気なくしてると、社員のみんなに心配されちゃうよ」
わたしはプレートのサラダをモリモリと食べ、トーストを齧ってコーヒーを飲んだ。
「家の外ではちゃんとしてまーす」
生意気なティーンのような受け答えだが、声色はどこか力無く、弱々しかった。
彼は諦めたようにプレートの上の料理を平らげて席を立った。
心配になって彼の顔をじっと見つめると、彼はゆるりと柔らかく微笑んだ。
1ヶ月近くものあいだぶつぶつ文句を垂れていた彼が健気に微笑み仕事に向かおうとする姿は、なんだかひどく不憫に思えた。
わたしはジャケットを羽織ってネクタイを締めた玲太くんのもとにそっと駆け寄り、耳元で囁いた。
「じゃあ、きょうのお仕事がんばったら、今夜はいっぱいフェラチオしてあげる」
「えっ」
これにはさすがの玲太くんも驚き頬を染めたが、深く沈んだ色をしていた瞳にぱっと生気が宿る。
「ばっ…お前、そんなはしたないことをだな………」
と、一旦は咎めるものの、欲望には抗えない。
間髪入れずに彼は態度を翻す。
「あー、うん。えと、オネガイシマス…」
わたしは「ふふ」と満足げに微笑んだ。
実を言うと、玲太くんと特別な関係でいるうえで、たびたび今回のような困った事態――それは主に彼がわたしと異性の友人の交際を快く思っていないことに起因していた――に陥った。
もちろん、恋人や妻としては誠実に徹していたけれど、今回のように仕事が絡むとまったく男性と交流しないというわけにはいかなくなる。
こんなときのために、わたしは必殺技をいくつか心得ていた。
今回の必殺技は極めて効果てきめんだったみたいで、玲太くんはどこかウキウキしながら磨いたばかりの革靴を履いていた。
ふたりの情事は毎晩のように営まれていたけれど、わたしは「顎関節症になりそう」だとか「えずきそうになるから」と理由をつけてはしょっちゅう口でするのを拒んでいたから。
もちろんしてあげたい気持ちはあるんだけど、毎晩のように激しく抱き合っているのだから、毎度求められるのは疲れてしまうのだ。
「いってらっしゃい」
靴を履いた玲太くんに言うと、身体を抱き寄せられてキスをされた。
普段なら軽い口付けで済ませるところだけど、今日のキスは深かった。
熱い舌がねじこまれ、惜しむようにわたしの咥内をねぶった。
うっすらと目を開ければ、彼の熱っぽい瞳と視線がぶつかった。
思わず昨夜の情事の記憶が身体中をゾクゾクと駆け巡る。
数十秒の愛撫のあと、唇が離れた。
「今夜、楽しみだな?」
ニヤリ、と不敵に笑って唇の端を舐めた彼は、やっぱりこの世の誰よりもかっこよくてセクシーだ。
ぽーっとしていると、コツンとおでこを小突かれた。
「あたっ!」
「ぼーっとしすぎ!その顔、他の男の前ではすんなよ。んじゃ、いってきまーす」