その夜。
玲太くんはいつもどおり定時で退勤し、夕食に必要なものを商店街に買い出しに行った後、そのまままっすぐに帰宅した。
今日は取材がなく、日がな一日パソコンに向き合って文章を書いていたわたしは、締め切り前の原稿に顰めっ面をしていていた。
玲太くんはそんなわたしに微笑みかけながら、夕食の用意をしてくれた。
今夜は焼き魚と味噌汁、それからいくつか副菜を慣れた手つきで作っていく。
少しして、台所から漂ういい匂いに、うーんと背伸びした。
「お腹減っちゃったぁ」
パタン、とPCを閉じてリビングのデスクから立ち上がり、台所の玲太くんのところへと急げば、料理を作り終えた彼がご飯をよそっているところだった。
「今日はお魚?」
ひょこっと顔を覗かせれば、玲太くんがこちらにお茶碗を差し出した。
「こっちを立つ前に、日本食を食べ納めしておきたくてさ」
「ふふ。玲太くんの好きな食べ物って、ことごとく和食だもんね」
それからふたりは普段と同じようにダイニングテーブルに向かい合って夕食をとった。
玲太くんの作った美味しい料理を食べながら、今日あった出来事を笑いながら話すいつも通りの食卓。
食事を終えて食器を片付けている時、確かにこれから3週間も玲太くんがいないというのはすごく寂しいな、と思った。
そんな一抹の寂しさを覚えてリビングでテレビをみている玲太くんの元へ戻ると、彼は意味深な笑みを浮かべてわたしをソファに招いた。
「なあに、どうしたの?」
不思議そうにしていると、玲太くんが言った。
「ちょっと、こっち来い」
クエスチョンマークを浮かべたまま隣に腰掛けると、彼はそっと耳打ちした。
「今朝の約束、ちゃんと覚えてるか?」
てっきりそういう展開になるのは寝室のベッドの上だと思っていたので、思わず顔を赤らめる。
「…うん」
こくりと頷けば、玲太くんは満足げに微笑む。
「ここでしてほしいの?」
すると、玲太くんは少し言いづらそうに言葉を濁した。
「ああ、うん。そうなんだけど…」
「どうしたの?」
煮え切らない彼の態度に首を傾げていると、彼はソファの脇に置かれていた紙袋をガサガサとあさりはじめた。
そして、なにやら黒いカメラのようなものを取り出す――つい先日、玲太くんが購入したばかりのGoProだ。
突然の出来事にキョトンとしたものの、少しずつ状況を理解し始め、わたしはさっと血の気が引くのを感じた。
玲太くんはこちらの反応などお構いなしに熱っぽいまなざしのまま言った。
「あのさ、撮らせて、欲しいんだけど…」
「…ま、まさか、そんな…」
混乱して口をはくはくさせる。
だってそれ、フライフィッシングの撮影用にどうしてもって言うから家庭内稟議を通したのだ――そういう用途だなんて、聞いてない!
玲太くんは両手を顔の前で合わせ、ギュッと目を瞑りながら懇願した。
「お願いだ。イギリスに一人で行く俺を憐れに思うなら――」
「いやいや大袈裟な!ほら、プロのお姉さんが出てる動画がいくらでもあるじゃない」
「お前以外の女がよがってるところ見て興奮できるかよ」
「ええっ…」
思わず後ずさると、そのままソファに押し倒された。
「なぁ。だめか…?」
熱い吐息が首筋にかかった。
普段なら絶対、嫌だって答える――だって、自分のそんなところが記録に残るなんて…考えただけで羞恥で死にそうだ。
けれど、目の前の玲太くんの縋るような眼差しを無碍にするのは、何故かひどく心が痛んだ。
おまけに身体はがっしりとホールドされて、もがこうが暴れようが逃れられる気はしなかった。
もう、腹を括るしかない。
毎晩ベッドの上で顔から火がでそうなほどはしたないことをいっぱいさせられてきたじゃないか。
今更、撮影されたところでなんだというのだ――そう思うことにした。
「…ローカル保存」
気づけば勝手に口が動いていた。
「ハイ?」
唐突な発言に、目の前の彼もキョトンとしている。
「動画、絶対にクラウドとかにあげちゃダメだよ。あと、保存するのも玲太くんの私用PCだけ」
「俺が、お前の痴態を他のやつに見せるなんてヘマすると思うか?」
前髪の影に隠れて沈んでいた瞳が爛々と輝き出す。
「それもそうだね」
こんな表情は子どもの頃とちっとも変わらないのに、お願い事の内容は日に日に変態性を増しているのだから手に負えない。
「っていうことは、いいのか?」
「だって、ヤダって言ってもやる雰囲気だったもん」
「…まあ確かに、あんまり断られた時のことは考えてなかったかもな…」
しらじらしい玲太くんの態度に、「ほうらね」と悪態をつきながらも、わたしはそっと彼のおでこにキスした。
「いいよ。それで玲太くんがイギリス出張頑張れるなら」
微笑みを浮かべると、玲太くんは熱に浮かされたような表情で無我夢中に口付けた。
唇を離した時、玲太くんの顔は愛おしげにわたしを見つめた、ようにみえた。
けれど、同時に何故だか瞳の焦点が合っていないような気がした。
まるでわたしの身体の内側にある何かを、あるいはわたしを通して別の何かをじっと確かめているかのように。
それが気がかりで玲太くんから目を離すことができなかった。
「じゃあ、さっそく」
ソファにわたしを押し倒したまま、玲太くんはGoProを起動させた。
腹を括ったはずなのに、流石に怖くて息を飲んだ。
「撮るぞ」
どこか憂いを含んだ声がして、玲太くんがシャツのボタンに手をかけた。