それから1ヶ月後のクリスマスイブ。
例年のごとく天之橋邸で開かれるパーティーに現れた彼女は、ドレスアップした人々の群れの中でひときわ輝くヴィーナスだった。
彼女の周りにできている人だかりをかき分け、隣に辿り着けた時にはとっぷり陽が暮れてしまった後だった。
けれど彼女は僕を見つけるなり、その日一番の笑顔を見せてくれた。
「夜ノ介くん!やっと来てくれた」
もう、待ちくたびれちゃったよ。と頬を膨らませる横顔を眺める僕を、疎ましげに睨んでいる男は数知れないが、そんなことはちっとも問題ではなかった。
一度彼女の隣を陣取ってしまえば僕のもの。
もう今日は一歩もここを離れませんという強い威圧感を放って彼女とテーブルの料理をすみずみまで堪能した。
途中、学年演劇をともに作り上げたメンバーから、演劇のワンシーンの再演をねだられたのは想定外だったけれど、その日のパーティーは微笑む女神の隣を独り占めできて、上機嫌のまま過ぎていった。
パーティー後、外は急に天気が荒れて、ドレス姿の女子生徒たちはそれぞれに迎えを待ったりタクシーを呼んだりしはじめた。
彼女はスマートフォンを確認し、おもむろに鞄から出した折りたたみ傘を開きはじめる。
「迎えは頼んでいないの?」
僕は慌ててドレス姿のまま狭い傘に入ろうとする彼女の手首を掴んだ。
「ううん…迎えは来ないの」
「何故?風邪をひいてしまうよ」
「風真くんが…クリスマスパーティーを抜けておじいちゃんのかわりに店番してるって連絡してきたから、すこし様子を見て帰ろうかなって」
「彼が言ったんですか?この雨の中、こんな薄着のあなたに来いと?」
「いや、わたしが勝手に…」
雨足はどんどん激しくなっている。彼女は手を握る僕の表情を不思議そうに見上げている。
僕は意を決して、彼女に自分の気持ちをぶつけてみることにした。
「じゃあ、行かないでください」
「え?」
「僕をひとりにしないで。もう少しだけそばにいてくれませんか」
***
幸い、天之橋邸から僕の自宅は近く、両親は公演の地方巡回に出ていて留守だった。
豪雨から彼女を守りつつ共にうちに向かっている道中までは、なにか一緒に温かいものを飲んで、もっと防寒できそうな上着を着せ、大きな傘で彼女を自宅に送り届けよう、そう思っていた。
しかし、彼女が僕の部屋でコートを脱いだ時、何かが狂ってしまったような、そんな気がした。
パーティー会場に舞い降りた天使のような装いの彼女が、僕とふたりきりこの部屋に佇んでいる。
他の誰でもない、この世でたった一人の、愛しい僕の女神が。
彼女の白いワンピースは大雨に濡れて透けていた。
コートはドレスに合わせて襟元が大きく開いているデザインだったから、無理もない。
特に、肩から背中にかけて、うっすらと肌着が透けてしまっている。
僕はそれを視界に入れないようにしながら、タオルを差し出した。
すると彼女が
「ごめんね、後ろってよく見えないから、夜ノ介くんに拭いて欲しいの」
と言い、髪をかきあげてうなじをあらわにする。
僕は、「ひやっ」とか「うわーっ!」とか叫び出したいのを堪えながら、ぶんぶんと頭を振った。
いやいや、これまで何度もプールや海で水着姿の彼女を見ているじゃないか。
何を今更、怖気付いているんだ。
「…わかりました」
僕が頷き、タオルを受け取ると、彼女はホッとしたような顔でジッパーに手をかける。
「ごめんね、今一緒にいるのが夜ノ介くんで本当によかったよ」
そう言ってジジ…と背中のファスナーを下げ始める。
僕はギョッとしてその手を静止した。
「ま、待ってください!さすがにそれはまずいでしょう」
「えっ?あ、ごめんなさい…」
彼女が「やっぱりまずかったかな」とでも言いたげな困惑の表情をかわいらしく浮かべるので、僕は思わず許してしまいそうになった。
けれど今回ばかりはそうもいくまい。
「あなたは、こういったことを…他の誰かにもするんですか。例えば、風真くんなんかにも頼んだり」
僕が頭を抱えていると、彼女はびっくりしたように目を丸くした。
「まさか!こんなこと、夜ノ介くんにしか頼めないよ。だってほら、今日も腕を組んでエスコートしてくれたし、いつもデートで手をつないでくれるでしょ。わたし、夜ノ介くんにだったら、触られても怖くないの」
いつもの、屈託のない笑顔であっけらかんと言い放つ。
一方で僕は、雷に打たれたような衝撃を感じていた。
彼女をめぐる数多の恋敵を差し置いて、彼女の肌に触れることを許されているのはただひとり、この僕だけなのだと彼女が言う。
その言葉は、僕を喜ばせ、天にも昇る心地にさせるには十分すぎた。
「嬉しいことを言ってくれますね」
僕は彼女の背中を丁寧に拭き、きちんとドレスのファスナーを上げると、彼女を自分の方に向かせた。
うっすらとメイクを施された彼女のキラキラの瞳が僕の姿を捉える。
「よかった。夜ノ介くんに面倒だと思われてなくて」
「面倒だなんて。…むしろ、あなたが僕に告げたことを後悔しなければいいけれど」
「…どうして?」
キョトンとする彼女を前に、ああもうこのままどうにでもなってしまえ、と思った。
ほんの少しの決心とともに、ちゅ、と彼女のかわいい頬に軽いキスを落とす。
「僕はね、こう見えてあなたに触れたくてたまらないんです」
知っていましたか?と耳元で囁けば、彼女は薄ら赤面して目を伏せた。
そして、弱々しい声音で言った。
「…知らなかった。けど、知りたかった」
想定外の彼女の返事に、僕は少しだけ驚いた。
「…え?」
「だって夜ノ介くん、いつもはとっても優しくしてくれるのに、ときどき遠い人みたいに感じるの」
彼女はおずおずと僕の手をとり、ぎゅっと握ったあと――そのまま彼女の左胸に押し当てた。
ふに、という柔らかさが手のひらを伝わり、思考停止に陥る。
そのとろけそうな柔らかさの奥に、ドクドクと激しい鼓動が脈打っていた。
彼女は、震えていた。そしてそれはたぶん、寒さは原因ではなかった。
「何を…」
彼女の突拍子もない行動の意図を掴みかね、脳内にエマージェンシーランプが点滅する。
あまりに混乱して、なんの言葉も出てこない。
「風真くんといるとき、いつも夜ノ介くんを遠く感じるの。だからさっき、嘘をついて夜ノ介くんを試した。ごめんなさい」
彼女の大きな瞳は涙をいっぱいに溜め、いまにも零れおちそうだった。
はらり、と頬を伝う一筋が、流れ星のように煌めく。
「…ない」
気がつけば、僕はうわごとのようにしゃべっていた。
「?なあに」
彼女は震えながら僕を見上げている。
「もう、耐えられない」
そう言って彼女に捕らえられ胸に押し当てられていた手をやや乱暴に引き抜き、両腕で彼女をきつく抱きしめた。
「!」
手のひらを彼女の腰や頭に回し、驚く彼女の唇に、無理矢理口付ける。
何度も短く唇を合わせ、彼女の薄くて柔らかい唇を味わっていると、彼女がうっすらと口を開けた。
すかさずその中に舌をねじ込み、口付けを深くする。
「んんっ…」
必死にこちらのペースに合わせようとする彼女が愛しくて、ちょっと懲らしめたら解放しようと思っていたのに、どうにも止まらなくなる。
「僕がずっと、どんな思いでいたか……あなたは本当に非道いひとだ」
彼女をベッドに押し倒す。
彼女は頬を染めていたけれど、こうなることを予期していたのかいないのか、特に驚いた様子もなく、きゃあともわあとも言わずにされるがままになっていた。
それをいいことに、彼女に覆い被さってネクタイを緩める。
「試すようなことをして、ごめんなさい」
眉を顰めて彼女が言う。
僕が怒っていると思っているのだろう。
確かに、少しは怒っていたかも知れない。
でも今は、愛しい人と結ばれた喜びで胸がいっぱいだった。
彼女の唇に再びキスをして、背中のファスナーに手ふたたびを掛ける。
「いいよ。すべて水に流す。そのかわり、僕が今からすることもお咎めなしだ」
僕の言葉に彼女が素直にうなずいた。
「うん」
彼女の美しいドレスを、皺にならないように丁寧に脱がせるのを、彼女は従順に従っている。
それがなんともいじらしい。
強気になっていた心もなんだか拍子抜けしてしまって、気づけば
「あ、でももし僕が嫌なことをしたら思いっきり殴ってください」
なんて口走っていた。
それには彼女もころころと笑う。
「夜ノ介くんの身体は大事な商売道具でしょ。そんなことできないよ」
シルクの肌着だけにさせられ、僕に組み敷かれている彼女が、普段と変わらぬ安らいだ笑顔を見せてくれたことが嬉しくて、僕はすこし泣きたい気持ちになった。
「じゃあ、あなたはいま、ちっとも嫌じゃない?」
「うん。嫌なわけない」
「…そっか」
たまらず彼女の首筋に唇を寄せる。
彼女はくすぐったそうにくぐもった声を漏らした。
「嬉しいよ」
ほっそりした首筋、肩、背中へと手を滑らせていく。
彼女の綺麗な背中に巻きつく頼りなさげな細いブラジャーのホックはいとも簡単に外れてしまった。
その瞬間、彼女の表情にわずかな緊張と恐怖心が走る。
無理もない、だってお互い初めてなんだから。
でも今さら逃してやれない。
僕は唇の端をちろりと舐め、未知なる行為への不安を滲ませる彼女の表情を眺めていた。
「愛してる」
そう告げた僕に、彼女がはっとする。
そして眩しそうに、はにかんだように見つめ返したあと、ゆっくりと頷いた。