エデンの歌、春に咲く花 - 2/5

「座長。お早うございます」
「はい、お早う」

事務局に顔を出せば、みんなこぞって僕を見た。
挨拶を交わし、持ち場に戻った団員たちが口々に僕と彼女の同棲生活にまつわる噂話をする。

いくら僕がこの劇団の座長で、どんなスキャンダルにも寛容な、マスコットキャラクターのような存在だからって――みんな、あまりにも露骨すぎやしないか。
そう思ったけれどいつもどおりそんな感情はおくびにも出さず、涼しい顔でテキパキと団員たちに指示をする。

「座長のミューズははば学時代のローズクイーンらしいよ」
「噂によれば、風真一族の御曹司の婚約者をかっさらったとか」
「略奪愛だ!座長も色男だねえ」
「涼しい顔した優等生かと思いきや。でもうちの看板役者だ、そうでなくっちゃ困るよ」

皆がこそこそと話す会話は、隠す気がないのかと思うくらい勝手に耳に入ってくる。
これが根も葉もない噂ならまだよかった。
すこしばかり尾鰭がついているような気もするが、皆の知るところは8割がた事実だった。

「あれ、2年前の――何の演目だったかね、座長の新境地と話題になった――」
「ダンテの『神曲』だよ、たしかにあれは――」

彼女と学園演劇をして以来、僕の演技に対する周囲の評価が180度変わった。
と言い切ってしまうのは、すこし誇張しすぎかな。
でも、あれが大きな転換点となったのは紛れもない事実。

「ダンテのミューズ『ベアトリーチェ』への賛美と、彼女を失った深い悲しみ。あまりに高校生離れしてた」
「あれと同じ舞台に立っていたなんて、今考えても鳥肌が立つよ」
「舞台人として、これ以上に誇らしいことなんてないさ」

皆が口々に言うその演技には、僕にも十分こころあたりがあった。

なぜなら、僕はあの頃出会ってしまったのだ。
僕の表現者としての人生を、激しい衝動で脅かし、美しい愛情で輝かせ、穏やかな慈しみで満たしてくれる、たったひとりの僕の女神に。

***

彼女に初めて会ったのは、生徒会執行部の入部の日だった。
会長に紹介され、僕のまえに現れた彼女の可憐な姿に、思えばもうあの時から心奪われていた。

最初は、なんて可愛らしく微笑むひとだろう、と思うだけだった。
それからほどなくして、彼女は学年イチの有名人――イギリス帰りではばたき城主一族の末裔、風真玲太の幼馴染だということを、クラスメイトから知らされた。
誰も口に出しはしないが、彼が彼女を特別視していることは側から見ていて(たとえどれほど鈍感な人間だとしても)一目瞭然だった。

だから自然と線引きをしていた。
彼女と自分が違う世界の住人だと思い込むことで、自分の心を守ろうとしていた。
それなのに、彼女は屈託のない笑みを浮かべ、僕を見かけるたびに小走りに駆け寄っては他愛のない会話をしてくれた。
いろんな場所にふたりで出かけて、誕生日にはプレゼントを贈りあって、僕がプレゼントしたブローチをいつも嬉しそうにつけてくれていた。

どうしようもなく彼女を好きになっていく心を、僕は止めることができなかった。

しかし、彼女に恋する者にとって最も厭わしいもの。それこそが彼、風真玲太の存在だろう。
春のそよ風の中に朗々と歌う彼女の声を聞きつけ音楽室に急いだ日、我が物顔で彼女の隣を陣取り歌声にうっとりと耳を傾けていたのも、
美術室でキャンバスに向かう彼女を向かいの窓から盗み見るとき、大抵後からやってきて同じ部屋で彼女と談笑していたのも、彼だった。

僕は彼女への恋慕と同時に、恋敵への憎悪という、生まれて初めての感情のあいだで板挟みになっていた。

誰かに強い感情を抱き続けることがこんなにも辛くて苦しいことだなんて、思いもよらなかった。
その頃、苦悩を反映するかのように変化しつづける僕の演技を父が評価し「好い人でもいるのか」「恋愛は芸の肥やしさ」と軽やかに笑ってみせるので、必死に足掻いていることしかできない僕は、それすらも疎ましく感じてしまったのだった。

***

3年生の11月。彼女は文化祭で僕らの学年のローズクイーンに輝いた。

はばたき城の若城主「若様」と、ローズクイーンの関係性を噂し、ふたりを眩しげに見つめる周囲の目線が嫌に目につくようになったのも、あの日が境だろう。

しかし、本当の城主は誰であれ、この年の学年演劇ではばたき城の城主を演じたのはこの僕だ。
そして、ヒロイン役は彼女だった。
生まれてこのかた、運命に縛られるようにして演者としての人生を邁進してきた僕が、初めて心から楽しいと思えたあの舞台に彼女がいた。
役者を本業とする自分はもとより、その日の彼女の演技は本当に素晴らしかった。
もともと表現者としての才覚を秘めた彼女だから成し得たことだろう。
舞台を終えたあと、僕たちは学内中の人々からの賞賛を一身に浴びながら花道を渡り、ふたりで誰もいない屋上に行き、コーヒーを飲みながらその日の演技のことを語り合った。

あの時の思い出は、生涯忘れられそうもない。

――どんな障害があろうと、誰を傷つけることになろうと、このひとをかならず自分の恋人にする。
そう自分自身に誓ったのもあの日だった。