ベランダの小さな家庭菜園で水やりをするしのぶは、1ヶ月前に植えたばかりのディルの育ちがよく機嫌がいい。
鼻歌まじりにじょうろで水をやっている。ベランダのフェンスにはぐるぐるとクレマチスの蔓が巻きつき、淡い紫や白の美しい花を咲かせている。
クレマチスは、しのぶがこの部屋に越してきた4月に、彼女が近所の花屋で苗を購入し植えたものだ。
しのぶがこの部屋で暮らすようになって、もうすぐはじめての夏がやって来る。
ドウマはソファに座って彼女の様子を眺めながら、淹れたての紅茶をすする。
セカンドフラッシュのダージリンティはしのぶのお気に入りで、口にふくむと茶葉の華やかな香りが鼻腔をくすぐった。
ここのところ不思議な夢にうなされて寝付きが良くない彼は、眠そうに焦点の合っていない瞳をぼんやり空中に浮かべている。
網戸にして開け放した窓からは、夏の訪れを感じる暖かい昼下がりの風が、しのぶのじょうろの水と湿った土の匂いを連れてきて、ひだまりに照らされた部屋の中を漂った。
ドウマの視界の中で、しのぶが妖精のようにひらりひらりと舞い、結った髪から真っ白なうなじを覗かせ、軽い足取りで野菜や花々の様子を確認している。その光景があまりに美しく、幻じみて見えたので、彼は自分が眠っているのではないかと考えた。
今見ているものが夢で、昨日見た夢が現実ではないか。
茫然と窓を眺めているドウマに気付いたしのぶが、彼の方に振り向いた。
「今日の晩ご飯は、ローズマリーで豚のブロック肉と根菜をローストしましょう」
その言葉にどきりとして、ドウマの意識は引き寄せられた。それから少し間を置いて、「いいね。俺も手伝うよ」と返事をした。
しのぶはそんな彼の様子を見てふう、と息をついて肩を少し大袈裟にすくめてみせた。
「昨晩もあまり寝付けなかったみたいですね」
心配そうに表情を曇らせる。だが、ドウマは
「大丈夫、季節の変わり目はいつもこうなんだ」
と、彼女を心配させないようにと笑顔をつくってみせた。
夕方になるとさっと夕立が降り、少しの間止んでいたかと思うと、夜中にまた長い雨が降った。ダブルサイズのベッドは、身体の大きなドウマとしのぶの2人にはすこし窮屈だが、2人が身を寄せ合って眠るぶんには問題がなかった。
雨音を聴きながら、2人は互いの頬に手を当てて見つめ合っていた。
しのぶは顔にいつもの微笑みを浮かべていたが、その中にかすかな怒りが隠されているのをドウマは心の内で感じていた。
が、そんな彼の疲労もしのぶに伝わっていた。
だから、彼女は何も訊かずにゆっくりと目を閉じ、眠りについた。
ドウマは彼女の様子をずっと眺めていたが、彼女が眠りにつくと、急に心細い気持ちになった。眠気は遠のいていく一方だ。
なんとなく手持ち無沙汰で、静かな寝息が漏れる彼女の薄く艶のある桜色の唇に親指でそっと触れると、その溶けそうに柔らかな感触が伝わってきた。
彼女を食べれば、おそらく白桃のように甘く柔らかいのだろう。
気がつくとドウマは、数日前から見続けている夢のことを思い出していた。
***
夢の中で、ドウマは地べたにうずくまるしのぶを見下ろしていた。
しのぶの前には、ひとつの亡骸が横たわっている。
彼女はただ泣き喚き、ドウマを憎み、責めた。
しのぶの取り乱しようは只事ではなかったし、亡骸の女はしのぶによく似ていた。
おそらく姉妹なのだろう。
——自分がこの人を殺したのだ。
と彼は思った。が、この状況に些かも動揺していない自分自身にも驚いた。
それどころか、胸いっぱいにひろがるこの甘い気持ちはなんだろう——自分の人生で感じたこともない「愉悦」だ。
しのぶは激しい怒りを露わにし、ドウマに刃を向けた。
しかし、非力な彼女が彼に敵うはずもない。
それでも、彼女の瞳は憎しみに燃えていた、悲しみに打ち震えていた。
そんな彼女の叫びを、ドウマはただ受け止め、まるでダンスのエスコートをするように、その鋒を躱す。
しのぶはあまりに劣勢だった。
その姿を見て、彼は彼女に駆け寄り、言葉をかけた。
もう頑張る必要などない、戦う必要などないのだと。
そう言って、戦いでボロボロになった彼女の身体を抱きしめれば、突然、むせ返りそうな藤の花の香りが鼻腔をかすめた。
気がつけば、しのぶは彼の腕の中で事切れていた。彼女の体は藤の花の香りを纏い、ドウマの胸の中へ溶けていく。
そんな彼女を見ながら、呆然と
「しのぶちゃんってこんな味がするんだ」とひとりごちた。
しのぶの肉体を吸収していくにつれ、彼女から放たれる花の匂いはドウマの身体中に充満し、次第に呼吸すらできないほどに彼の体を蝕んだ。
——そうか、このまま自分も彼女と一緒に地獄に落ちるのだ
不安はない。彼女の肉の味が満ちる感覚に、恍惚とした気分だ。
彼女の肉体も魂も、自分のものだ。誰にも渡してなるものか。
彼はそう思って死の瞬間を待った。
彼がゆっくりと目を閉じれば、瞼の裏に、自分の胸の中にいたはずのしのぶが立っている。
強くなる藤の花の香りに酩酊したドウマがだらだらと唾液を垂れ流しながらしのぶの顔を見上げれば、彼女はいつになく美しい微笑みを浮かべていた。
ドウマが眩しそうに彼女を見上げると、彼女は冷たく言い放った。
ただ一言、
「地獄に堕ちろ」
と。
***
夢から醒めると、汗をぐっしょりとかいていた。
手の甲で目を擦れば、目の周囲が濡れていて、彼は自分が泣いていたのだと驚いた。
彼はじっとりと肌に張り付いている薄いTシャツの上から、左手を胸にあてた。
幸福とも、不愉快とも取れないこの妙な夢のせいで、まだ心臓がバクバクと脈打っている。
もう片方の腕は、隣に眠るしのぶの小さな頭の下に敷かれている。
彼は自分が唸ったり寝言を言ったりして彼女を起こしていないか不安に思ったが、幸いしのぶの虹のような瞼はぴたりと閉じられ、細くツンとした愛らしい鼻はすうすう小さな寝息をたてている。
ドウマは安堵のため息をついて、しのぶのつむじに顔を寄せた。
彼女の柔らかい艶やかな黒髪に顔を埋め、深く息を吸うと、甘い花の蜜のような(彼女の体臭は、シャンプーやボディクリームの香りが入り混じっていつもこうだ)匂いがした。
この匂いに包まれながら眠る時、彼はいつも幸せだった。それは、ひとえに自分がしのぶを愛しているからだと思っていた。
自分が今しがた目にした夢の中のイメージは、どこからやってきたのだろう。
不思議に思うと同時に、自分は生まれてこのかた、夢の中で感じた得体の知れない感情と一緒に生きてきたような感覚もあり、恐怖というよりは親しみを感じていた。
思えば、しのぶと出会うまでは、周囲の物事に対して、あまりに無関心、無感動の日々だったような気がする。
自分の知らない幸福や喜びを知りたくて、無数の映画を観て、女を抱いたが、それでもなお、彼は空虚だった。
そんなとき、彼女が彼の目に現れた。
彼女の瞳は驚くほど雄弁で、彼女の言葉は計り知れないほど彼に対する影響力を持っていた。
今では、彼の心はすっかりしのぶに従属していた。時間が積もれば積もるほど、それはますます強まっていくばかりだ。
それはひとえに彼女に普通に恋をして、愛というものが自分の胸中に生まれたからに違いないと思っていた。
この夢を、見るまでは。
夜が深まるにつれ、雨脚は強まり、外は嵐になった。
ドウマの意識は猛々しく炎のように燃えていた。
目の前で安らかに眠るしのぶの、豊かな胸元を覆う薄手のシャツを引き裂き、彼女の熱く柔い肌にむしゃぶりつきたいような衝動に駆られそうになったが、そんなことをしたら彼女はねむそうな眼をこすりながら、驚き呆れ彼に非難のまなざしを寄越すはずだ。
そんなことがあっては精神的に耐えられないので、ドウマは糸一本の自制心でその衝動を抑えつけていた。
その時、一瞬のうちに眩い雷光がベッドサイドの窓を照らし、同時に轟音が大地を震わせた。
ぐっすりと眠っていたしのぶも流石の爆音に目を覚まし、がばりと起き上がって窓の外を見た。
「…すごい音」
しのぶがぽつりとつぶやいたあと、不意にドウマの方に目をやれば、パチリと開いた2つの目がこちらをしっかりと見つめていることに気がついた。
「ドウマさん、まだ起きていたんですか…」
雷の光に照らされ闇に浮かぶ金色の髪と、虹色の瞳が何も言わずにただこちらをじっと見つめているので、しのぶはすこし身構えた。
まるで何かを警戒して物陰に隠れた猫がこちらの様子を伺っているようだ。
しのぶが手を伸ばし、ドウマの頬に手をやると、ドウマはすこしほっとしたような顔で彼女にすり寄り、その細い腰に手を回した。
「寝ている間に君がどこかに消えてしまいそうで不安なのかな…それとも自分自身が消えてしまいそうで怖いのかも」
弱々しい声音でドウマが言う。
「困ったひと」
しのぶがため息まじりに言い、細く小さな指先をドウマの左手に絡めて、胸元であわせ、祈るように目を閉じた。
「わたしを置いて消えちゃうなんて、許しませんよ」
チカチカと雷光が点滅し、彼女のまつ毛が、夜の闇の中で一点、光を集めて反射している。まるで祈りを捧げる聖母マリアのようだとドウマは思った。
「それじゃあ、たとえ地獄でも、ついてきてくれる」
いじけた子どものような態度で、つい突き放したような言い方をしてしまう。
しのぶはドウマの様子を少し不思議がったが、いつものように鈴を転がすように笑った。
「いいでしょう。でも、地獄に落ちないための努力は、してくださいね」