嵐が去って、街には夏がやってきた。
濡れたアスファルトをジリジリと焦げつくような日差しがあたためたので、大気はモワリと湿気を含んで肌に絡みつくような重さを持っていた。
しのぶは昨夜の嵐で裏庭の木々から落ちた木の葉を掃除し、ドウマは車を洗車した。
湿度の高い夏の暑さの中ですっかり汗をかいた二人は素足になってホースの水を掛け合った。
洗車がおわるとふたりは郊外のショッピングセンターに出かけた。
目的地までの短いドライブの間、ドウマが車の窓をすこしだけ開いてやると、しのぶが車内に吹きつける外気に気持ちよさそうに目を細め、彼女の淡い藤色がかった黒髪がなびいた。
夏の強い日差しは、車内に濃い影と眩い色彩のコントラストをもたらした。
桜の花びらのような彼女の唇が口角を上げて微笑む。
それを太陽がチカリ、チカリと影の合間を照らして、オレンジ色に染め上げるのを、彼は運転に集中するフリをして何度も盗み見た。
ショッピングセンターは子連れの客で溢れかえっていたが、夏支度をはじめる人々の足取りは軽く、すれ違う人々はみなそれぞれにはしゃいだような表情を浮かべていた。
ドウマはサイズの大きなファミリー用のカートをカラカラと走らせ、洗濯用洗剤や朝食用のパン、マヨネーズの瓶、コンディショナーの詰め替え、しのぶの好きな輸入菓子のチョコレートやビスケットなどをぽんぽんカゴに放り込んでいく。
しのぶは、こういう買い物は家事の得意な(というより潔癖ゆえに生活用品の規格や品質にうるさいのだ)彼に任せることにしている。
いつになくいきいきと品物を物色するドウマを退屈そうに眺めていたしのぶが、
「あの、ペットショップで熱帯魚の餌と水草を買ってきてもいいでしょうか?」
と彼に問いかけると、
「うん、行ってきなよー」
と心ここに在らずといった気の抜けた返事が返ってきた。
しのぶはそそくさとエスカレータに乗り込み、4階にある馴染みのペットショップに向かった。
家の近くにある小さな熱帯魚屋も、彼女とドウマのお気に入りだったが、郊外の大きなショッピングセンターのペットショップは品数が豊富で、他の用事でここに買い物に来た際も毎回欠かさず寄るようにしていた。
壁に嵌め込まれた小さな水槽の青いライトの群れをぼんやり眺めているだけで、えもいわれぬ幸福感がある。
しのぶは犬や猫には目もくれず、魚の水槽の前をうろうろと往復した。
昔から、魚を育てるのは好きだった。
実家にいた頃は、姉にも協力してもらって、いろんな魚の飼育にチャレンジしたものだ。
一人暮らしの家で飼うのは家を空けることも多かったので思いとどまっていたが、一緒に暮らすことになったドウマの家には大きな熱帯魚用の水槽があった。
いまでは元々あった水槽以外にも、いくつか水槽が増えた。
しのぶが持ち込んだのだ。
その水槽たちはみな彼女の帝国である。
ドウマもこればかりは諦めて彼女に飼育権を委譲した。
彼女はしばらく大型肉食魚の水槽を思案ありげにじっと見つめていたが、「これはまたこんどですね」とつぶやき、いくつか水草と熱帯魚用の餌などを購入し、店を後にした。
店にいるあいだ、少女のように好奇心に任せて動きまわり、考えを巡らせ続けていた彼女は、店を出た途端、自分の喉がからからに乾いていることに気がついた。
彼女はエスカレータに向かう途中にあるフードコートのなかのフルーツパーラーで、ブラッドオレンジのジュースを頼み、ごくごくと飲み干した。
それが意外なほど美味しかったので、あのひとにも買っていってあげようかしら、と首を傾げた。
しのぶはいくつかの水草、魚用の餌の入ったビニール袋と、ブラッドオレンジジュース一杯を片手に、エスカレータではなく、なんとなくエレベータに乗り込んだ。
ジュースを持っているので手が塞がっているし、彼のいる生活用品売り場がある1階に行くのも楽だと思ったからだ。
30人乗りのエレベータに乗り合わせたのは、どこかぼんやりとした目つきの若い男だった。
しのぶは1階のボタンを押し、男は地下1階のボタンを押した。
エレベータは降下して3階、2階と表示が移り変わる。
順当に行けばこのまましのぶは目的地に到達する予定だった。
だがその時、バチンと大きな音がしてエレベータが停止した。
内部の電灯もぱちんぱちんと不気味な音を立てながら点滅している。
しのぶも男も、とっさのことに言葉もなく呆然としたが、どうやらエレベータ事故にあったらしいと気がついた頃にはどちらともなく言葉を交わし始めた。
「この、受話器のマークのついたボタンを使う日が来るなんて思いもしませんでした」
しのぶが神妙な面持ちで言うと、男は少しだけ口角を上げた。
「そうだな、俺もいままで使ったことはない」
ボタンを長押しすると、幸いにも外部との通信は繋がり、1時間もすれば復旧すると告げられた。
その報せにほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、壊れた空調が微温い空気を送りつづける真夏のエレベータに1時間も閉じ込められるというのはなかなかの苦行だった。
しのぶは徐々に薄手の白いレース地のトップスの下に汗をかき始めている。
だが、目の前の男は夏だと言うのに長袖のシャツにスラックスといういかにも暑苦しい格好をしている。
本人も必死に隠しているつもりではいるようだが、手に持った本の束を床に置き、ゼエゼエとすこし息も荒く顔色も青くなり始めている。
目の前で熱中症になられては堪らないので、しのぶは持っていたジュースを男に差し出した。
「あの、もしよろしければどうぞ。先ほど買ったばかりですのでまだ十分冷えていますし、下で待っている連れのために買ったものなので、口もつけていません」
しのぶがにこやかにそう告げるも、男は頑なに首を横に振った。
「いえ、ご迷惑をかけるわけには…それに、この状況がいつまで続くかわからない。もしもの時にあなたが飲んでください」
だが、顔面蒼白の人間に言われて引き下がるしのぶではない。
ストローの包装紙を破り、ぶちっとジュースの蓋にストローを刺したしのぶは、半ば強引に男の唇にストローの先を当てた。
「目の前で倒れられる方がよっぽど迷惑だと言ってるんです。さあ、どうぞ」
ストローを口に突っ込まれた男は、やや不服そうな顔をしていたが、しのぶの勢いに気圧されて素直にジュースを受け取り、喉を鳴らしてそれを飲みはじめた。
ジュースを半分ほど飲み干した男は、はぁっと深くため息をついた。その様子を見たしのぶは、「なんだやっぱり喉が乾いていたんじゃないか」と呆れ顔をしている。
しのぶの方を見た男は、仏頂面ながらにほんの少し表情筋を動かして「ふっ」と笑ってみせた。
「なんですか?」
怪訝そうにしのぶが訊くと、男は、
「いや、なんとなく昔、あなたみたいな世話焼きの友人がいたような気がして」
と、視線を天井に泳がせた。
しのぶは不思議そうに首をかしげた。