しのぶがエレベーターの中に見知らぬ男と2人きりで閉じ込められたと聞いた時も、ドウマの心は凪いだ海のように冷静だった。
そもそも自分は「杞憂」などといった言葉とは無縁の存在であると自負してきた彼だが、しのぶの異性関係に関しても、あれやこれやと心配したことはなかった。
確かに彼女は容姿端麗な華の女子大生で、彼女の通う大学にはそれなりにたくさんの男子学生が通っているはずだが、彼女のゼミやサークルでの付き合いになにか口出しをしようと思ったことはなかった。
しかし、エレベーターのドアが開き、すこし疲れた表情のしのぶの隣にいた男を見た瞬間、ドウマは感じたことのないデジャヴに囚われて身動きが取れなくなった。
ドウマはその男を、夢の中で見たことがあった。
そう、彼が悩まされている、件の夢である。
彼は亡骸を前に悲しみに暮れるしのぶのうしろに見えた数多の人間のうちのひとりだ。
男としのぶはなぜだか、ひどく親密な関係に思えた。
彼女が彼に食われる時、彼女がごく小さく、すがるように彼の名を呼んだ気がするのだ。
トヨオカ?否、たしかトミオカ、と、小さなうめき声が、確かに聞こえた。
ドウマは嫌な予感がした。
この一連の夢はあまりに印象的で、彼を少なからず苦しめたけれど、いったん目覚めてしまえば細部まで思い出すことはなかった。
だが今はどうだろう。
あろうことか夢の中のしのぶが呟いた男の名前まで思い出してしまうなんて。
これは予知夢だろうか。
この世に予知夢を無効化するまじないはあっただろうか。
今は占星術でも風水でも黒魔術でも、必要なものはなんだって試してやりたい気分だった。
ドウマは吐き気を堪えながら、冷や汗をかいた身体をベッドから起き上がらせた。
時計を見れば、時刻は午前2時。いつも隣で眠るはずのしのぶは、まだベッドに入っていない。
いつもなら、大学のレポートや課題が長引いているのだろうかと気にも留めないが、今日ばかりはそうもいかない。
ドウマは慌てて寝室を飛び出した。
ダイニングは照明がついておらず、キッチンの流し台の照明の微かな光だけがリビングルームに漏れていた。
「しのぶちゃん、起き——」
キッチンに立ちすくむしのぶに声をかけようとして、ドウマは思わず言い淀んだ。
しのぶは、思い詰めているわけでもなく、かと言って普段のような笑顔も浮かべていなかった。ただうつろな表情で空を見つめ、包丁を握りしめていた。
「何してるの?」
ドウマはどうやら只事ではないしのぶの様子に、夢の中の光景がフラッシュバックする。
ただ、不思議とこうなることが嫌ではなかった。
彼女と自分の間には、なにかただならぬ事情が深い溝のように横たわっていることは、ふたりとも薄々感じていた。
しのぶがドウマへの病的な執着をみせたことも、ドウマが不可思議な夢を連日見続けていることも、きっと何らかの意味があるのだろう。
それを精算すべき時が来たのだと、ドウマは考えていた。
「あなたに触れると、身体が凍てつくように震えるんです」
語りはじめたしのぶの声は、穏やかだった。
淡々と何かを説明している時の、理知的な、いつものあの話し方だ。
「なにをしていても消えなくて…」
彼女の白い、蝶のような手のひらが、ツウと包丁の腹をなぞる。
しのぶは言葉を続けた。
「あなたが毎日見ている夢、あなたが四六時中考えていること」
彼女の思わぬセリフに、ドウマは固唾を飲んだ。
聡い彼女のことだ、連日うなされている自分を見て気づいたのだろうと考え直した。
しのぶの肩が僅かに震えた。
「あなたがそうやって黙って上の空になるたびに、苦しくてたまらないの」
そう言うと、かろうじて冷静さを保とうとしていたしのぶの頬に、ひとすじの涙が流れた。
涙が流れたらもう、彼女の感情は堰を切ったように溢れ出していた。
「夢の中の女性のことが、さぞ忘れられないようですね」
しのぶはドウマに向き直った。
「知っていますか?あなた、毎晩毎晩、うわごとのように、誰かを必死に引き止めているんですよ」
彼女の美しく穏やかな声が、あからさまな怒気を含んでいた。包丁をもつ手に力が入り、ぬらり、と刃物の鈍い光が反射する。
一方、ドウマの脳内はごく冷静に、「さてこの状況をどうしたものか」と考えを巡らせていた。
彼女は何か大きな勘違いをしているが、かといって夢の詳細を彼女に伝えるのも適切ではないだろう。
「しのぶちゃん、違うんだ、それは——」
「何も違わないわ!」
刃を構える彼女は、あの夢の彼女の面差しそのままに彼を睨んだ。
夢の中のあの情景があまりにありありと目の前に蘇ってきたようで、ドウマは少々面食らってしまった。
おまけに、理知的で冷静沈着ないつものしのぶはすっかり影を潜めていた。
議論の余地はない、とばかりに包丁を握りしめる姿は、普段の彼女を知る人には異様な光景だろう。
童磨は自分が見た夢の話をはぐらかしたかったが、もはや彼女を納得させる方法は、見たままをすべてあらいざらい話すことだろうと考え直した。
不意に、童磨が口を開いた。
「俺と君は、どうしていつもこうなっちゃうんだろう」
彼の言葉に、しのぶの揺るがない強硬姿勢がぴくっと小さく揺れ動く。
溢れそうな大きな瞳は、はっとなにかを凝視するように瞳孔を縮めた。
「今回の出会いは、いい出会いだったじゃないか」
彼の言葉に、しのぶは大きく息を吐き、力無く項垂れるように、包丁を持つ手を降ろした。
しのぶの様子は明らかに何かを感じている様子だったが、童磨はもう引き返すつもりはなかった。
「…今の俺たちは仲のいい恋人同士で、因縁なんか、なんにもないんだ。争う理由も、何もない」
しのぶは俯いていた。
童磨はこのまま彼女が納得してくれればいいがと(半ば諦めつつも)祈った。
「しのぶちゃん、顔をあげてよ」
そう言って、童磨は懇願するような気持ちで彼女の肩に手を伸ばした。
しかし、しのぶは避けるように身をよじらせてあとずさり、震える声でつぶやいた。
「因縁がないだなんて、都合が良いにも程がありますよ」
そう言ってはっきりと童磨を見た。
彼女の唇はきつく結ばれ、凛とした瞳はすこし戸惑いつつも、今まで恋人同士として過ごしていた頃とははっきり違う視線が彼に向けられた。
しのぶはしのぶなりに、何らかの記憶を思い出したり、腑に落ちることがあったのだろうと童磨は思った。
無言の童磨に、しのぶがゆっくりと語りかける。
「ずっと不思議に思っていました。あなたに初めて会った時に感じたこの気持ちが何なのか——あなたに対する強い執着心、何かを恐れるように高鳴る心臓の鼓動、あなたに近づく女への嫉妬のような焦燥感、なぜか時折浮かび上がる姉の顔————わたしはこの正体不明の感情を、恋だと思うことにしました。ほかに適切な答えが見つからなかったから」
しのぶが滔々と語る口調は落ち着き払っていた。
お互い宿敵の生まれ変わりであるのは事実らしいが、いずれも過去の過ぎ去った出来事であり、むしろ、現代を生きる彼女には今まで悩みに悩んだ難問が解けたかのような清々しささえあった。
「それで君は、これからどうしたいの」
童磨はその場に立ち尽くしていた。
むしろ彼女を生まれ変わってもなお追い続け、恋心を燻らせていたのは自分の方だった。
そして、全てを思い出した彼女は自分の元を去るだろう。
彼の胸にはただ焦燥感だけが広がっていた。
もしここで彼女に振られでもしたら、彼女を殺して自分も首をかき切って死んでしまいそうだ。
だって、自分は生まれ変わってでも愛した女を手中に収めようとする執念深い男なのだ。
彼の問いかけに、しのぶは顎に手を当てて、うーんと考えた。
「そう、ですね、正直なところ…混乱しています。あなたを恋人として愛した期間は、この時代を生きるわたしにとっては、あまりに重大で、忘れ難い出来事ですから」
憂いを帯びたしのぶの瞳を、童磨はすがるように見つめた。
「じゃあ、このまま俺の恋人でいて欲しいって言ったら…?」
これにはさすがにしのぶは戸惑いを隠せないようだった。
彼女は何も言えずまたしても俯いた。
その様子を見て、童磨は自嘲気味に微笑う。
「そうだよね…だけど、俺はしのぶちゃんを手放す気なんて、更々ないんだ」
彼はゆらりとしのぶに歩み寄った。
彼の目つきが今まで見たことのないほど深く沈んだ色をしていたので、しのぶは「ヒュ」と息を呑み、恐れを感じて手元の力は抜け、カランと音を立てて包丁は床の上に滑り落ちた。
童磨はしのぶの肩を強く抱き寄せ、その大きな手でしのぶの首根を包み、彼女の細くたおやかな首筋を撫でた。
「俺からは逃げられないよ。たとえ死んだって無駄さ。地獄の果てでも追いかけて俺はまた君の前に現れる」
童磨はそっと彼女の耳元でつぶやいた。
ひとまわりもふたまわりも大きな童磨の身体の中で、しのぶは為す術もなく身を委ねていた。
「愛してるよ」
そうつぶやいた彼の声は、歯が浮きそうなほど甘く優しかった。
***
「やめ、て…おねがい、こんなこと…」
その晩。
しのぶの両手首と左足は童磨がどこからか持ってきた手錠で拘束され、乱暴にネグリジェを脱がされた彼女の身体は、童磨の大きな身体に組み敷かれていた。
「だめだよ。君に俺の子どもを孕ませるまでこの錠は外さない」
ガチャ…と鎖が擦れる音がして、しのぶが暴れて手首についたあざを童磨が優しくさすった。
「そんなことしなくたって…わたしは、どこにも行きませんよ」
しのぶが言い返すも、童磨の耳には届かない。
「しのぶちゃんは家族想いのいい子だから、子どもを置いてはどこへも行けないだろ?だから俺は、君と本当の家族になりたいんだ」
彼がしのぶの耳元でうわごとのようにつぶやく。
もはや、彼の必死さにはどんな言葉も通用しないのだった。
童磨はしのぶの身体をいつもより入念に、執拗に愛撫する。
戸惑うしのぶの思いとは裏腹に、恋人として積み重ねた日々が、否応なしに彼の身体を受け入れるべくほぐれてしまう。
「あ…だめ…」
しのぶの小さなうめき声も、否定というよりは艶やかな熱っぽい響きを帯びていた。
それを知ってか知らずか、童磨はしのぶに長いくちづけを落とすと、彼女の中にズンと重い腰を落とした。