一方、ひととおりの日用品を買い終えたドウマは、しのぶの連絡が来るまでぶらぶらと店を見て暇をつぶすことにした。
彼がいるショッピングセンターの一階には、女性用アパレルの店がずらりと並ぶ。
ドウマは、きれいな色のワンピースや靴を見るたびに、どれがしのぶに似合うかを考えたし、化粧品を眺めては、しのぶの使っているものを探してブランドを確認したりした。
そういえば、女には飽きるほど縁があったはずなのに、ついぞ彼女たちにはまともに贈り物の一つもしたことがなかった。
そもそも、彼女たちがどんな服を着て、どんなメイクをしていたかなんて覚えていない。
が、ことしのぶのこととなると、着ていたシャツの柄や、1日1日の眉やアイライン、口角の曲がり方まで不思議なくらい鮮明に覚えているのだから不思議だ。
自分の異様なまでの好奇心は、やはりしのぶを「殺したいほど」愛しているからなのだろうか?
夢の中で味わった彼女の温度と藤の花の匂いを、ふと思い返す。
そんなことをぼんやり思っていたら、花々の芳香に導かれたのか、彼は香水を扱う店の前にたどり着いていた。
店内には色とりどりの香水瓶が所狭しと陳列されていた。
女性客で賑わっているおかげで、店員も話しかけにはこない。
すると、ドウマの頭にはある妙案がひらめいた。
───そうだ、藤の花だ。
彼はたくさんの瓶や缶や野菜や牛乳パックででこぼこに膨らんだビニール袋を両手にもったまま、店の中をずかずかと進んだ。
そして何度かグルグルと店の中を見て回ったのち、
「あった」
とつぶやいた。
彼は世界中の草花の香りを標本のように丁寧に抽出したという香水シリーズの前に立っていた。
手に持っていたビニール袋を無造作に床の上においたかと思うと、気づけばある一つの瓶を手にとっていた。
薄紫の液体が美しい、藤の花の香りを閉じ込めたフレグランスだ。
彼はまず、ムエットにその香水を吹き付けてみた。
そして目を瞑り、深呼吸するように、じっくりとそれを嗅いだ─────そして、うん、と頷いた。
細部は異なっているものの、確かに夢の中で自分を酩酊させていたあの香りだ。
そもそも藤の花の匂いなんて、記憶するほど意識して嗅いだことはないはずなのに、どうして自分は知っていたのだろう?
そして、なぜこの匂いを嗅ぐと、あの夢で見たことが、どうしようもなく現実味を帯びていくのだろう。
ドウマは無性にその香りを口にしてみたくなってみた。
彼はよし、と何か決意したように小さく呟くと、
テスターのキャップをとり、まるでショットに入ったテキーラを飲むように、ひと思いに中身をあおった。
彼の突然の行動に虚をつかれた店員や女性客はギョッとして彼を凝視した。
「お、お客様…!」
おずおずと店員が制する声も彼には聞こえていない。
香水を口にふくんだドウマは、(はたから見ればあたりまえだが)さも意外そうに、裏切られた、というような顔で、舌をべーっとだした。
「めっちゃまずい」
確かに、夢で見たように口いっぱいに藤の花の匂いが広がるが、まったく食べられたものではない。
おまけに、えぐみや変な酸味が舌に広がって、この世のものとは思えないまずさだ。
夢の中の、あのえもいわれぬ幸福感のかけらもない。
しばし、体験したことのない未知の味との遭遇に呆然としていたが、少し経つと、彼はひどく安堵している自分に気づいた。
「俺、しのぶちゃんを殺したいわけではないっぽいな」
そうつぶやくと、気持ちは確信に変わった。
「よかった!ほんとに!良かったよ」
彼が香水をあおって一喜一憂しているのを、周囲の人物は呆気にとられて見ていた。
ドウマはそんな皆の様子に気づき、はにかむように笑った。
「あ、すいません。これ、テスター分弁償します。あと、この香水べつに一本ください」
そう言って淡々と会計を済ませた彼は店を出た。
***
しのぶたちがとじこめられて1時間ほどすぎた頃。
不意にガガガと不器用な音を立ててエスカレータがゆっくりと降下し始めた。
そしてドアがこじ開けられ、作業服を着た数人の男がエレベーター内に入ってきた。
「ご不便をおかけして大変申し訳ありませんでした。お怪我や体調不良はございませんでしょうか?」
このショッピングセンターの責任者だろうか。額に汗をかいた人の良さそうな男がヘコヘコと頭を下げる。
しのぶは、わたしも彼も大丈夫ですよ、早急に対応してもらえて助かりました、と頭を下げた。
すると、その男の背後に、血相を変えた金髪の男がこちらに凄い勢いで走ってくるのが視界に入った。ドウマだ。
「しのぶちゃ〜〜ん!!!しのぶちゃん!!しのぶちゃ〜ん!!」
しのぶは、恥ずかしいから大声を出すな、と彼を睨みつけたが、ドウマは意に介さず、涙目のまましのぶに駆け寄り、がばっと彼女に抱きついた。
その反動で、彼が持っていた大きなビニール袋の群れがどさどさと床に落ち、詰められたカラフルな瓶や缶が床にいくつもいくつもこぼれ落ちた。
「暑苦しいですよ。どいてください、床に缶詰が転がっていますし」
しのぶが顔を赤面させて怒っていると、
「本当に本当に心配したんだから!!俺、心配すぎて死ぬかと思ったよ。しのぶちゃん〜〜」
大型犬のような男が小柄な女に抱きついている様子を取り巻きがクスクスと笑いながら見守っていたが、先ほどの責任者と思しき男が申し訳なさそうに2人に話しかける。
「あの、お取り込み中申し訳ないのですが、この度は大変なご迷惑をおかけしてしまったので、お詫びと言ってはなんですが、こちらの商品券をうけとっていただけますでしょうか」
男の手は白い封筒をしのぶと、一緒に閉じ込められていた男にそれぞれ差し出した。
ふたりがそれをうけとり簡単にお礼を述べると、責任者の男はそそくさと事故が起きたエレベータの元に走って行った。
しのぶとドウマは床に散らばった品物を袋の中に片付け、その場を去ろうとしたその時、エレベータ内で言葉を交わした男がしのぶを呼び止めた。
「あの」
しのぶは振り返る。男はつづけた。
「飲み物をありがとうございました。もし良ければ、お名前を教えてくれませんか」
しのぶはにこりと笑うと、
「胡蝶しのぶです。あなたは?」
しのぶの様子に安心したのか、ほっとした表情で男は返事をする。
「冨岡義勇。もし、また会うことがあったら、その時は礼をさせて欲しい」
しのぶは微笑んで軽く会釈をし、その場を後にした。
男はしのぶ後ろ姿が小さくなるまで、ドウマと連れ立って歩く彼女の姿を見ていた。
そのことに、しのぶは気づいていないようだったが、ドウマは気づいていた。
ドウマが気に食わなさそうに男の方を一瞥すると、彼もまた気まずそうに目を逸らした。
一方しのぶは、会話が終わるのを待っていたドウマの下に駆け寄り、腕を絡めると、はしゃいだように言った。
「わたし、ドウマさんのためにジュースを買っていたんですよ。でも結局、エレベータ内で熱中症を起こしかけてたあの人に、あげちゃったんですけどね」
ふふ、と微笑むしのぶとは対照的に、ドウマの表情は硬かった。
寝不足で上の空になっていた昨日の彼と同じように、生気がない。
そんな彼の様子にわけもなくしのぶが不安に思っていると、それを察したのかドウマは、
「あーあ、俺も飲みたかったな、ジュース」
と、子どものようにおちゃらけてみせた。
「じゃあ、荷物を車に預けて、もういちどフルーツパーラーにいきませんか?こんどは、エスカレータで」
しのぶの言葉に、ドウマはゆっくりとうなずいた。
しのぶはドウマの唇からなにか強烈な花のにおいがすることを気にかけながら、彼の腕を取った。