その違和感を感じたのは3ヶ月前のことだった。
彼の帰りが遅かった日――打ち上げか稽古か、何らかの仕事が長引いたのだろうと特に気にとめずわたしはベッドで眠っていた。
夜更けに彼が帰ってきて、枕元で「ただいま」とやさしく囁いてわたしの頬にキスした。わたしは朧げな意識の中で彼の柔らかな唇の感触を受け止めた。
そのとき、ふわりと彼の頬から何かが香った。
香水――にしては、輪郭の淡い香りだった。たまに彼の衣装に焚き付けられている香とも、彼がよくつかっている白粉とも異なっていた。
それはその日以降、時おり彼のそばを漂った。
数日後、わたしはデパートの化粧品売り場でふと思うのだった。
あれは、女性もののファンデーションの匂いだ、と。
***
夜ノ介くんとセックスする時、わたしは水の中で溺れているみたいな感覚に陥る。
のしかかられて、逃げ場を失って。
大きな波のような快感が押し寄せ、彼が愛おしそうにわたしを見つめるたびに、愛していると叫びたいのに唇をふさがれて声が出ない。はち切れそうな快感が視界を暗転させるまで、行為は続いた。
彼は毎晩こうしてわたしを求めた。それはふたりで暮らし始めて3年たった今も変わらなかった。
こんなにも狂おしいほどに愛されていれば、頭をよぎる淡い疑念なんて馬鹿らしく思えてくる。
それで、しばしばわたしの心を曇らせていたその香りは毎晩の情事の激しさと余韻によってかき消され、しばらくのあいだわたしの胸の奥深くへと追いやられていた。
しかし、青天の霹靂ともいうべき事件が起こった。
ある日、わたしは劇団はばたきの新作舞台に招待された。
それはミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」という有名な恋愛小説を舞台化した公演で、夜ノ介くんが演じたのは主人公の外科医トマーシュだった。
彼は劇中で数多の女を抱き、食事をして眠りについた。
舞台の上の彼は、たとえ日常を演じる場合でさえも、自宅の居間であくびをする彼とも、ベッドから気だるげに起き上がる寝癖のついた彼とも、焼きそばのソースを口につけたまま笑っている彼とも全く異なっていた。
物語の中に生きている彼は、目を見張るほどに美しく、何者にも犯しがたい神聖な気配を漂わせていた。
わたしは気が遠くなるような感覚に見舞われたけれど、それは劇の完成度ゆえに起こりうるものだと思い込もうとした。
たとえ彼が美しく咲き誇る舞台の上とわたしの座っている客席は遠く離れ、別世界のように隔たれていようが、夜ノ介くんは他ならぬわたしの恋人だ。舞台の上の彼がどんなふうであっても不安に揺さぶられはしない――と。
けれどそのとき、彼女が現れた。
舞台の上、彼と睦み合いキスを交わした。
それはヒロインであるトマーシュの妻、テレザではなかった。愛人のサビナだ。
パンフレットによれば彼女は客演で、劇団員ではないらしかった。
大きく印刷され、微笑みを称えた彼女の写真は他の女性キャストとは比較にならないほど美しかったし、人目を引いた。
下着姿のサビナに、トマーシュが山高帽を被せた。
冗談めいた戯れが、しだいに燃えるような愛撫となった――これはふたりの愛を象徴する、作中でも有名なシーンだった。
サビナは熱っぽく彼を見つめ、時に彼を挑発し、情熱的に彼を組み敷いた。
わたしはその小説を何度も読んだことがあったので話の顛末を知っていたし、彼女の表情やふるまいはいずれも演技だと思い込むことで自分の頭によぎった疑念や不安を押し込もうと努めた。
けれど、舞台上で彼女が彼を見つめる視線――これが演技だなんて、わたしには思えなかった。
そのときふと、その場にありもしない匂いが脳裏を掠めた。
あの、夜ノ介くんの頬から漂うファンデーションの匂い。
胸の内にはわけもなくその香りの主は彼女だという強い確信が深く根付き、もはやそれをふりはらう手立てはなかった。