世田介が目を覚ました時、またもや八虎は隣にいなかった。
時計は17時過ぎ。
世田介はガバッと起き上がって部屋をぐるりと見渡した。
やはり、八虎の姿はない。
窓の外は、昼の晴れ間が嘘のようにどんより曇っていて、ぽつり、ぽつりと雨が降っているようだった。
世田介はベッドを抜け出し、ダイニングへと向かう。
そこにも八虎はいなかった。
洗面所、風呂場、トイレ、世田介の部屋。
一通り見て回ったが、八虎はどこにもいなかった。
部屋中をぐるぐる徘徊していた世田介だが、ふと思い出したようにスマホを取りに八虎の部屋に戻った。
すると、メッセージアプリには『30分くらいで帰ります』と八虎の伝言が届いていた。
送信されたのは20分前だから、あと10分やそこらで帰ってくるのだろう。
世田介はホッとしてソファに腰掛けた。
しかし、窓の外はいよいよ雲行きが怪しくなっていた。
このあとひと雨来そうだな、そう世田介が思った瞬間、小雨はいきなりドシャドシャとバケツをひっくり返したような驟雨になった。
八虎は一体外で何をしているのだろう。ちゃんと傘は持っているのだろうか。
心配になりメッセージを送ろうとスマホを手にした時、玄関の鍵が開く音がした。
「ただいま〜。あーあ、靴の中までびちゃびちゃになっちゃった」
玄関には、白い箱が入ったビニール袋を持ったずぶ濡れの八虎が立っていた。
「傘は持ってたの?」
世田介が訊けば、八虎は水の滴る世田介の折り畳み傘を見せながら、申し訳なさそうに言った。
「世田介くんの日傘を借りたんだけど、今度は日差しじゃなくて雨だった。ごめん、日傘濡らしちゃって…」
「いいよ、それ晴雨兼用だから」
「そうなの?!よかった〜」
とはいえ、流石にこの雨は折りたたみの傘では凌ぐことができなかったのだろう。
世田介はランドリーにタオルを取りに行き、玄関に佇んだままの八虎にタオルを手渡すと、彼が手に持っていた白い箱を差し出された。
ビニールの外側は雨粒がたくさんついていたが、中身の箱は綺麗なままだ。
その包装にプリントされた店名には世田介にも見覚えがあった。
それは近所にある有名な洋菓子店で、生菓子は予約しなければ午前中には売り切れてしまうほどの人気店だった。
「ケーキ?」
八虎はわざわざ予約をしてまでこれを買ってきたというのだろうか。
「うん」
「なに、突然」
世田介がきょとんとすると、八虎は困った様子で頭を掻いた。
「いやー、本当は世田介くんが寝ている隙に受け取って、こっそり冷蔵庫に入れておくつもりだったんだけど…」
バレちゃしょうがないか、と微笑む八虎を世田介は不思議そうに眺めていた。
9月は世田介の誕生月だったが、それでもまだ誕生日までは2週間近くあった。
おまけに、世田介の誕生日には外食をしよう、と数週間前に約束を八虎から取り付けられたばかりだ。
頭をフル回転させても答えが出ず、その場に立ち尽くす世田介に、八虎が尋ねる。
「わかんない?」
「……ごめん」
世田介はすっかり困惑した様子で、萎縮してしまっている。
八虎はちょっと悪いことしちゃったかな、と思い、大袈裟な身振りで明るく振る舞った。
「じゃ、じゃあ、ヒント!1年前の今日、何してた?」
すると、世田介は「あ」と何かを思い出したように目を見開いた。
「矢口さんと、旅行」
「で、その時に?」
「…付き合った」
世間では、付き合った日を毎年、あるいは毎月のように祝うカップルがいるらしい、と聞いたことがある。
うちの両親も、毎年のように結婚記念日には旅行に出掛けている。
世田介はすっかり状況を理解していたが、依然としてすこし肩を落としたまま、ケーキの箱を見つめていた。
「矢口さんはこうとこ、すごくちゃんとしてるな」
「そりゃ、大事な恋人との記念日ですから」
「ごめん。俺、全然気が回らなくて…」
「全然!気にしないで!こういうのは気がついた方がやればいいんだから」
そう言って八虎は白い箱をじっと見つめ続ける世田介に微笑みかけると、再び箱を手に取った。
「たまたま、このまえこの店の前を通ってさ、せっかくなら記念日にふたりで食べたいなっておもっただけなんだよ」
スタスタとダイニングを横切り冷蔵庫を開け、空いたスペースに箱をしまう。
「夕飯のあとに一緒に食べよ」
ぱたん、と冷蔵庫の扉を閉め、振り向きかけたその時だった。
八虎の背中に、世田介が後ろから抱きついた。
「おわっ?!世田介くん?」
八虎にぎゅっとしがみついている世田介の顔は見えない。
「どうしたの?」
八虎が心配そうに尋ねると、
「それじゃだめなんだ」
と、まるで悲痛な叫びのような声が返ってきた。
こんなに取り乱した様子の彼を見るのは久方ぶりだった。
「世田介くん、大丈夫?」
八虎はそう言って、世田介を安心させるように、ぐるりと回された彼の手に両手を重ねた。
「…なのに」
ぼそっと何かをつぶやいた世田介の声は震えていた。
――ここまで世田介くんが動揺するのは、ちょっと想定外だったな。
八虎の背筋に冷や汗が伝う。
――サプライズとか、まずかったのかな…。
八虎は世田介の行動の意図がわからず、何も言えずにいた。
世田介はそんな彼の気持ちを察したように、声を絞り出す。
「矢口さんに感謝を伝えなきゃいけないのは俺の方なのに」
その言葉に、八虎は意表をつかれたようにはっとした。
――そ、そういうこと?!
突然の出来事にすべて合点がいった八虎は、何も言わずに世田介の腕を優しく解き、振り向いて彼に向かい合った。
「それは違うよ。こういうのは“やらなきゃいけない”ことじゃないでしょ」
八虎があやすように言うと、世田介は首を振った。
「そうじゃなくて。矢口さんは器用だから…こうしていつも俺に気持ちを伝えようとしてくれるでしょ。でも俺はちがう。がんばらなきゃ矢口さんに、何もあげられないのに」
「そんなこと…」
ないよ。だって世田介くんがそばにいてくれてることが、俺にとってはいちばんだから。
そう言いかけて、八虎は押し黙ってしまった。
もちろんそれは本音だったけれど、こんな言葉では目の前にいる世田介が納得しないことも分かっていたからだ。
かけるべき言葉が見当たらず、ふたりの間に沈黙が流れた。
世田介は俯いていて顔はよく見えなかったが、目尻が赤く腫れている。
すこしして、きつく結ばれていた世田介の唇が、そっと開いた。
「…俺、矢口さんと出会えてよかった」
「うん」
世田介の頬に、涙が伝う。
「一緒にいてくれてありがとう」
「…うん!」
「伝わった?伝えられてるのかな、俺…」
涙に濡れた顔が、恥ずかしそうに視線を横へと逸らす。
「うん、うん…!」
耐えきれず、八虎が世田介を抱きしめ、その首筋に顔をうずめた。
「矢口さん、泣いてるでしょ」
「ん゛…」
「何か言ってよ」
「言えない」
「なんでだよ」
「だって胸がいっぱいなんだもん」
涙で濡れたお互いの顔を見合わせる。
そうしたら、どちらともなくこの状況が可笑しくなって、吹き出した。
「俺ら、何やってんだろね」
「いや、こっちのセリフだよ。矢口さんまで泣いてるの意味不明なんだけど…」
世田介は相変わらず涙でぐしゃぐしゃになっている八虎の顔を眺めて、うっすらと微笑する。
――なぜ、矢口さんが自分なんかの一挙手一投足にこんなにも心をかき乱されてしまうのかは、結局のところ、今もよくわからない。
けど、いつの間にかそれが世田介にとっても特別な意味を持つようになってしまった。
「矢口さんは、これからいい思い出がたくさんできるって言ったけど」
世田介は、目の前の八虎の顔を恐る恐る見上げ、その目を見つめ返した。
「矢口さんと出会ってからのことは、もうとっくに、忘れたくても忘れられないほど、鮮明なんだ」
そう告げた彼の表情は穏やかで、今まで見てきたどんな人の表情より、美しいものだと感じた。
まるで、絵の中の天使が、八虎に微笑みかけてきた時のように。
それは忘れ難い瞬間だった。
突然の世田介の告白に、八虎は顔を真っ赤にして、すっかり緩んだ口元をポカンと開けている。
――俺が何か言うと、いつもこういう顔をするんだよな。なんでだろう…。
世田介は複雑な表情を浮かべて八虎のまごまごした口元を眺めていた。
が、当の本人は世田介の訝しげな視線など気にならならない様子で、がばっと再び彼を抱きしめた。
「ちょ、ちょっと…」
「どうしよう。ケーキいっこで世田介くんにこんな色々言ってもらっちゃって…俺大丈夫かな…」
「別に、普通だろ」
「だって、めちゃくちゃうれしかったから!」
「……ならよかった」
世田介はほっとしたように目をつぶる。
次は俺も何か用意するから。
そう耳元でつぶやかれた言葉に、八虎はうん、と頷いた。
きっと八虎が今嬉しいと感じている本当の理由は、世田介にきちんと伝わっているわけではないのだろう――でも、いまはそれでいい。
彼の記憶の中に、自分とのいくつもの日々が重なり合っている。
その事実だけで、もう十分だった。