ふたりのマンションは森鴎外が半生を過ごしたことでも有名な文京区千駄木の団子坂の上にあった。
かなりの急勾配を誇るこの坂は、一説によればその勾配ゆえに転げ落ちる人が絶えなかったことを理由に団子坂と名付けられたとか。
坂道の歩道は狭いので、ふたりは前後に並んで八虎が後ろから世田介の頭上に日傘をさしてやる。
そうやって身を寄せ合って坂道を降れば、近所のおばあちゃんがすれ違いざまに「あら、仲のいいこと」と微笑みながら声をかけてきた。
こんなふうに歩くことには慣れたけど、他人にも見られているのだと思うと、やはり少し小っ恥ずかしい。
世田介はうつむいて小さく会釈をした。
八虎は能天気に「こんにちは〜」と挨拶を返している。
「蕎麦って言っちゃったけど、俺、割と本格的に腹減った…肉が食べたい…」
ジワジワジワ、ツクツクツク、という蝉時雨に紛れて、八虎のお腹がグウと鳴った。
「じゃあこの先のハンバーガーはどう」
「お、いいね。そこにしよう」
二人は団子坂の中腹にあるハンバーガー屋に入ることにした。
カランカランとベルの鳴る木製の重いドアを開ければ、冷房の効いた店内の涼しさが天国のように思えた。
世田介はほっと息をつく。
「やっと暑さから解放された…」
「いや、まだ家出て5分も経ってないよ?」
二人はカウンターでそれぞれハラペーニョチリバーガーとチーズバーガー、つめたい飲み物を頼み、店内の広々としたボックス席のソファに腰掛けた。
この店のハンバーガーのパテは肉肉しくてボリューミーだ。
その上、トッピングやサイドメニュー、ドリンクの種類も豊富なこともあり、八虎のお気に入りだった。
世田介は辛いジンジャーエールやスイートチリソース、ハラペーニョ(なぜみんな必要以上に辛いものを食べたがるんだ)に難色を示し、チーズバーガーとアイスティーとプレーンのフレンチフライしか頼めるものがなかったが、それでもハンバーガー自体の美味しさは認めていた。
パテの焼ける香ばしい匂いが、店内に充満する。
世田介は朝からこんな脂っこいものを食べることはほぼないが、今日はとてもお腹が空いていた。
「ああ〜超いい匂い。待ちきれない!」
八虎が背伸びをして天井を仰ぐと、そんな彼を見ていた若いウェイトレスの女の子がクスッと笑った。
店の中には、彼らともう一組カップルがいるだけで静かだったので、世田介は少し恥ずかしくて居心地悪そうに肩をすくめた。
数分後、ホカホカと出来立てのハンバーガーが運ばれてきた。
パテも肉厚だが、新鮮な野菜がぎっしりと挟まれていて、とても大きい。
「いただきまあす!」
ぱちんと両手を合わせ終わるなり、八虎はハンバーガーを手に取って豪快にかぶりつきはじめた。
大きな口だなあ、世田介が感心しながら八虎のほうをじっと見つめていると、リスのように頬を膨らませた八虎が「食べないの?」と問うた。
世田介はハッとした。
――思わず食べっぷりに見入ってしまった。
「…いただきます」
八虎に急かされるようにしてハンバーガーを手に取れば、出来立てのハンバーガーはかなり熱かった。
何度も持ち方を変え、ふうふうと息を吹きかける。
「はは、熱い?」
「うん。矢口さんの手、どうなってんの」
こんながっしり掴んで熱くないわけ?と文句を垂れながら、すこし冷めた表面に、もしゃりとかじりつく。
世田介の口は小さくて、ひとくちではパンと野菜の層にしか届かない。
噛みちぎれなかったふさふさのレタスがハンバーガーからずるりと抜け出し、シャクシャクと控えめな音を立てながらその小さな口のなかに吸い込まれていく。
――なんか、小学生の頃に学校で飼ってたうさぎを思い出すんだよなあ。
八虎の視線に気づいた世田介がまたもやギロリと睨む。
「何?」
「あ、いや、ナンデモナイデス…」
そんなやりとりがあった後、ふたりは無心でハンバーガーを頬張った。
――知り合ってすぐの頃は、こうして無言が続くと少し焦って、気まずい思いをしてたっけ。
八虎は、今ではこうしてハンバーガーを大口開けて食べることも、食事の間に無言になることも、ちっとも怖くないことに気がついた。
彼のことを深く知れば知るほど、明確な違いを見せつけられて落ち込むことも多いけれど、昔と違うのは、確実に「未知」じゃないということだ。
八虎はなんとなく、世田介と話がしたくなった。
「エヴァの夏の描写って、物悲しいような、不安な気持ちになるような、そんな感じだよね。窓から差し込む外の光が強くて、病室に響く蝉の声なんかもすこしヒステリックでさ」
ハンバーガーを食べ終えた八虎が、包み紙を綺麗に折り畳みながら言った。
「まあ、あの世界では夏以外の季節が無くなってるから」
「えっ…そうなの?」
「直接的には描かれないけど、セカンドインパクト後にポールシフトが起きて地軸がずれたんだ」
「へえ」
で、ポールシフトって何?
ぽかんとする八虎に、世田介は「ググれ」とだけ返してアイスティーを啜った。
八虎は慌てた様子でスマートフォンを手に取る。
その様子が可笑しくて、四苦八苦しながらハンバーガーを齧っていた世田介も少し微笑んだ。
「でも、俺にはあの夏のイメージってそんなに違和感ない気がする」
「そ、それどういうこと?」
やや食い気味な八虎の様子に、またもや彼はすこしうんざりしながら答えた。
「夏は、強いエネルギー源みたいな感じで、すこしヒステリック、だと思う。あまり近づきたくない感じ。だから夏が終わる頃にはすっかり疲れ切って、もうダメだって気分になる」
おまけに、俺には、ごく普通の友だち同士での夏らしい楽しい思い出とか、そんなにないから。あの作品への共感って、そういう孤独とか疎外感を経験として持っている人だけのものだと思うし。
世田介は時折、こちらが聞いていて胸がちぎれそうになりそうなことを、平然と、さも当たり前のような顔をして告げてくる。
八虎はそのたびにひどく悲しい気持ちになった。
わかりやすくションとした八虎の表情に気づいた世田介は、彼をすこし気遣って話題を変えた。
「矢口さんの夏は、もっと明るくて賑そうだね」
「うーんどうかな。でも、よく考えたら、世田介くんに出会ったり、絵を描くことで苦しんだり泣いたりした経験がなければ、俺はエヴァを面白いと思う側にはいなかったかもしれない」
「それはすこし大袈裟じゃない?」
「かな?」
そう言うと八虎はすこし俯いて、手元のジンジャーエールの瓶に刺さった赤と白の縞々のストローをすこし照れ臭そうにいじっていた。
ふたりは食事を済ませ、店を後にした。
外は依然としてジリジリと蒸し暑かったが、観光客のいない平日の谷根千を歩くのは久しぶりだったので、八虎は世田介に「すこし根津方面に歩こうよ」と提案した。
世田介は最初渋い顔をしたが、「ほら、家の冷蔵庫、食べ物もなくなってきたし。買い出しもした方がいいでしょ」と八虎が言うので、それもそうかとしぶしぶ頷いた。
八虎の言う通り、たしかに道はよく空いていて、空気は暑かったが風が吹いていて心なしか快適だった。
不忍通りに出れば、道幅がほんのすこし広くなるので、ふたりは横に並んで日傘に入った。
なじみのスーパーを目指す道すがら、日傘をもつ八虎が、ぽつりと言った。
「今まではいい思い出、なかったかもしれないけどさ」
世田介は、八虎が言わんとしていることがわかり、目を伏せて真昼の太陽に焼かれているアスファルトや、脇道に青々と茂っている立葵の鮮やかな紅を眺めていた。
「いまから、たくさんいい思い出になるよ。世田介くんの夏は」
日陰から落ちる影は濃く、八虎の横顔がどんな表情をしていたのか、横目にはよくわからない。
世田介は何も言わなかった。
もちろん、ここで言うべき台詞がいくつかあることはわかっていた。
けれど、今の自分の気持ちを言い表せる言葉が何かは、まだ分からなかった。
「あの、矢口さ…」
世田介が口を開きかけた時、八虎は「あ!」っと声を上げて世田介の腕を引っ張った。
「甘味処!アイス最中のテイクアウトできるって!食べようよ」
「まだ食うのかよ」
ハンバーガーを食べたばかりでお腹が空いてなかったので、ふたりは1つのアイス最中を分け合って食べることにした。
本来、他人と食べ物をシェアすることには抵抗感をあらわにする世田介だったが、「矢口さんに関しては、もう身体的な接触をすることに対して抵抗がなくなった」と戸惑いながらも認めていたので、近頃はお互いに飲食物をシェアすることも多かった。
「大繁盛だったね、あの甘味処」
最中を一口かじった世田介が、それを八虎に差し出す。
八虎は嬉しそうに世田介の手の中の最中にかじりついた。
彼の一口は大きい。拳ほどの大きさだった最中が、すっかり小さくなってしまった。
「あの店、すごい人気店なんだって!バイト先の店長に聞いて、いつか世田介くんと行きたいと思ってたんだ」
「…あんみつが有名みたいだった」
「うん。今度はお店の中であんみつを食べよう」
ふたりが今にも溶け出しそうなアイスクリームを慌てて食べ終えた頃に、不忍通りと言問通りの交差点にある大きなスーパーに着いた。