Darling in my Umbrella - 2/5

「そんな…そんな、トウジ…!!!」
時刻は午前5時前。
物語が急展開を迎える第18話。八虎はすっかりストーリーにのめり込んでいた。
こんなやつ放っておいて寝てしまおう、当初はそう思っていた世田介も、物語の展開に合わせ喜怒哀楽がコロコロと移り変わる八虎の表情が愉快で、何故か一緒に徹夜をしてしまっていた。
眠たい目を擦りながら、何度目かもわからないあくびを噛み殺す。
「世田介くん、眠いでしょ」
そんな様子を隣で見ていた八虎が、ほら、と手を広げて胸を開ける。自分に寄りかかっていいよ、と言うことだろう。
得意げな表情が少々癪に触るが、とにかく今は眠くてしかたない。
「ん…」
世田介が八虎の胸の中に頭を預けると、うたた寝するにはすこし窮屈だったソファのスペースに余裕が生まれ、すっぽりと全身を収めることができた。
八虎の着ている柔らかなスウェットに顔を埋めれば、2人が使っている柔軟剤と、ほんの少しの煙草の匂いと、八虎自身の匂いがした。
認めることはないけれど、世田介はその匂いに包まれて眠るのが好きだった。
自分より少し平熱の高い八虎の体温はクーラーで冷えた身体に心地よく、あっという間に世田介は夢の中へと誘われていった。

世田介が目を覚ましたのは9時過ぎだった。
ソファで眠ったはずなのに、不思議と身体は痛くなく、睡眠不足の気持ち悪さもなかった。
それもそのはず、世田介の身体はいつの間にやら八虎の部屋のセミダブルベッドの上に横たえられていた。
スマホで時刻を確認し、ベッドの中に八虎の姿を探す。
世田介の寝ていない部分もシーツは乱れていた。
しかし八虎の姿はない。

寝癖のついた頭をのそりと起こせば、八虎はまだテレビの前にいた。
ディスプレイを凝視するその表情は、真剣そのものだ。
彼はたまにこうして並外れた集中力を発揮することがあった。
普段から芸術の才能において愛憎入り混じる思いを八虎から向けられ続けている世田介すら、こういう時の彼には敵わない、と思うことがあった。
おまけに、高校時代から友人と夜通し遊び歩いていたからか、課題の提出期限前に徹夜をしても比較的ケロリとしていることが多かった。

「矢口さん、ずっと観てたの」
「いんや、世田介くんをベッドに連れてく時いっしょにすこし仮眠とろうとしたたんだけど、続きが気になって寝付けなくてさ」
「子どもか」

かけられていたブランケットを剥ぎ取り、ベッドから立ち上がると、世田介は部屋を出て洗面所で顔を洗った。
パジャマを着替え、寝癖のついた髪を櫛でとかし、歯を磨く。
こうして彼が髪や服装を気にしているのは確実にこの部屋に引っ越し八虎と生活を共にし始めた影響だった。
実家にいた頃の彼なら、休みの日はパジャマを着替えもせずゲームを手に取っていただろう。
いちご味の甘ったるい歯磨き粉にも、もう慣れた。

身支度を整えた世田介が部屋に戻ると、エヴァンゲリオンはついにクライマックスを迎えていた。
世田介は八虎の足元に転がっているヨギボーにもたれかかり、充電していたSwitchの電源を入れる。
同級生の岡本もログイン中らしく、世田介がログインするなり『マックスレイドバトル、手伝って泣』とLINEが来た。
『すこしなら』と返せば、間髪入れずにパスワードが送られてきたので、よほど切羽詰まっていたとみえる。
世田介はゲームに勤しむふりをしながら隣の八虎を何度も盗み見た。

画面を見つめる八虎は呆気に取られたような顔でときおり「なんなんだ…?」だとか「は…?」と漏らしていたが、世田介の視線には気付いていないようだった。
その様子が可笑しくて、世田介はゲームを進める手を止めず、ひとり必死に笑いを堪えていた。
――初めてエヴァを観る人の反応って、不覚にも面白いな。

『おめでとう』
『おめでとう』

ラストシーンが続いていく。
徐々に八虎の肩が斜めに傾きはじめている。数話前から怪しかった表情もふにゃふにゃと脱力したように力ない。

『父に、ありがとう』
『母に、さようなら』
『そして、全ての子供達に おめでとう』

テロップが映し出され、Fly me to the moonとともにエンドロールが流れはじめる。
ソファにもたれかかり、八虎は放心していた。

世田介は、このあとエヴァに関する怒涛の質疑応答が始まったら面倒だな、と思ったが、彼が徹夜でエヴァを見るきっかけを作ってしまった手前、呆気に取られているのが少し不憫で、言葉をかけることにした。
「で、どうだった?」
世田介の問いに、しばしの沈黙が流れる。
こういう時に真っ先にあれこれ言葉を発し始める八虎らしくない。
――まさかまた泣いてるのか?
世田介はすこし心配になって八虎の顔を覗きこめば、八虎はこめかみに手を当てて考え込んでいる。
「大丈夫?」
流石の世田介も、重ねて声をかける。
八虎はウーンと小さく唸り、ソファの上で力なく項垂れた。

「…これってさ、やっぱ終わり方のせいでめちゃくちゃ非難された感じ?」
「えっ…?あ、うん」
――あんなに使いまわされたエヴァのネットミームすら目にしたことがなかったというのか!?

世田介は改めて八虎との生きてきた世界の違いに気づかされ戦慄したが、そんな世田介の心中など知らない八虎は素直にしょげていた。
「いや、つら……。なんかもう、作った側の気持ちになっちゃって…」
はは、と乾いた笑いが八虎の口から漏れる。
「終わりの方は確かに荒削りだったけど、俺、この作品すげー好きだった」
そう言った八虎の目が少し潤んでいた。
世田介は八虎のこういう感動屋なところが少し眩しく、それでいて好ましいと思っていた。
「そう」
世田介は再びゲーム画面に視線を戻したが、口元にはわずかに笑みが溢れていた。

「これ、新劇だとマジで完結すんの…?全然想像ができないんだけど」
「するよ。でもまずは旧劇から見た方がいい。…じゃなくて、それ観る前に何か食べない?俺お腹すいたんだけど」
「あっ、確かにお腹すいたよね。蕎麦でも食べ行く?あるいは、カレーか、うどん、ラーメン…」
「カレー以外ぜんぶ麺…」
「とりあえず俺、眠気覚ましに軽くシャワー浴びてくるわ」
「どうぞ」

そそくさとTシャツを脱ぎ捨て浴室に消えた八虎の背中を見送り、世田介は岡本に『ご飯食べてくる』とメッセージを送ると、立ち上がって窓辺に歩み寄り、レースのカーテンを開けた。
残暑の厳しい日になるという予報の通り、空は雲ひとつない快晴で、外は真夏のように暑そうだった。
絨毯のように目下に広がる家々の屋根がギラギラと太陽光を反射し、世田介は憂鬱そうに眩い光に顔をしかめた。
近頃は心なしか外気に秋らしい冷めた風が混じり始めていたが、暑さに弱い世田介にはまだまだ苦手な季節が続いていた。

今年の夏はついに暑さに耐えかね、岡本の勧めで登山用の軽くて丈夫な折りたたみの日傘を購入したが、八虎と出かけるといつもその狭い傘に身を寄せ合って入らなければならず(八虎も日傘を買えばいいのに)、結局暑いことには変わらないのだ。
でも、そういう世田介の方こそ、彼と傘を分け合って歩くのが嫌いではないのだから、ちょっと心中は複雑だ。

「おまたせ〜、俺もめっちゃ腹減ってきたあ」
ドアが開くとともに、髪をセットして新しいTシャツに着替えた八虎が部屋に入ってきた。
「世田介くんもう出られる?」
「うん」
「じゃあ、いこっか」

財布とスマホだけもって、履き慣れたスニーカーを突っ掛ける。
世田介は件の日傘を手に取り、八虎は最近お気に入りのキャンバスを被った。

クーラーの効いた部屋から外に出た瞬間、むわりと熱気と湿度をはらんだ外気が部屋になだれ込んできた。

長い廊下に落ちた窓の影が、ゆらゆらと熱気の中で揺れている。

「流石にあっちいね」
八虎がエレベーターのボタンを押しながら世田介の顔を見下ろすと、急激な温度変化に顔をしかめた彼は、しんどそうにぎゅっと目を瞑っていた。
ふー、と小さく息を吐く口元に、たらりと汗が一筋流れる。
普段は白く涼しげな世田介の頬が、蒸気したように紅い。
その横顔があんまり綺麗で、八虎はごくりと唾を飲んだ。
――世田介くんは、どうしてこんなに俺の心を掻き乱すんだろう。

気がつけば、八虎はわずかにかがんで世田介の前に回り込み、彼の頭を引き寄せて、その唇にキスを落としていた。
突然の出来事に、世田介は驚き目を見開く。

その時だった。
チン、と音がしてエレベーターが開いた。
幸にして、その中には誰もいなかった。
二人は唇を離し、無言でエレベーターに乗り込む。

エレベーターの中は申し訳程度に空調が効いていたが、生ぬるい空気を撹拌し続ける冷房は、余計に暑さを助長しているだけのように思えた。
「さっき、人が乗ってたらどうするつもりだった」
世田介がギロリと非難の眼差しを八虎に向けると、彼はなはは、と口元を緩ませた。
「いや、なんかちょっと可愛くて…」
「馬鹿なの?徹夜のくせに元気だな」
「いや、これでもちょっと眠いよ」
「帰ったら仮眠とりなよ」
エレベーターが再び開く。

世田介は手に持っていた日傘を開いて、八虎に柄を差し出した、
ふたりはその小さな傘の作り出す影の中に収まると、きらきらと暑い日差しの降り注ぐ大通りへと歩み出した。