ミューズが僕らに微笑んだ - 1/4

それは終わりのないクロールのように、水中で苦しみもがき続けるようなセックスだった。

憶えているのは、焼けつくように喉にこびりついたアルコールと、互いの汗の蒸れる匂い。大きな手のひらが首筋や頬に触れる感触。なかば無理矢理に口に含まされた冷たいスポーツ飲料の味。
全ての輪郭が朧げで、思い出そうとすれば、アルコールなどとうに抜けているはずの頭がズキズキ傷んだ。

***

「一人暮らししようと思う」
大学3年生になったばかりのある日、世田介が言った。
「え?世田介くんが?」
「うん」
同じ大学の同じ専攻に進学して丸二年。
ふたりは紆余曲折の末、こうして毎日のように一緒に学食で昼食を摂るような間柄になっていた。――すくなくとも、周囲にはそう見えているはずだ。
「その話、もうおばさんたちにしたの」
「ちょっとだけ。そしたらすごい剣幕で『アンタには無理』って」
「はは。予想はしてたけど…やっぱダメそ?」
「俺、家事とかあんまりしてこなかったから、生活力がないと思われてる」
「なるほどなあ」
そう言って八虎は少し、考え込んだように手元のアジフライの小骨をいじっていた。
ふたりの間に、暫しの沈黙が流れる。
世田介は特に八虎の様子を気に留めることもなく、ずず…と味噌汁をすすった。

ふと、八虎は世田介の様子をしげしげと見つめる。
箸の使い方は相変わらずだ。
服だって、この前一緒に買いに行ったりはしたけれど、それでもまだまだ自分で身なりを整えられる段階ではなさそうだ。
なんとなく、おばさんが心配するのもわかるような気がする。

「俺も一緒に住むよ」
気づけば八虎は、ごく自然にこんな言葉を口にしていた。
「は?」
「一人暮らしできない原因が生活力だけなら、ルームシェアだったらOKかもしれないじゃん。俺、料理とかちょっとはできるし」
「そう?お互い親に甘えっぱなしの一人っ子だろ」
自分だって、矢口母の完璧な家事スキルに生かされてきたくせに。
妙に自信満々な八虎に世田介は訝しげな目線を送る。
「だーいじょうぶ!そだ、今週世田介くんち行っていい?俺からも一緒にお願いするよ。おばさん俺には結構甘いし」
「…好きにしなよ」

八虎と世田介は、高校時代からの知人で、大学の同級生だ。
一緒にいることが多いので、親しい友人同士なのか、と第三者から問われることも多かった。
けれど、その度にふたりともどこか居心地の悪そうな表情をする。
それは大学3年生になったいまも変わらなかった。

そんなふたりには、まだ誰にも明かしていない秘密があった。

週末。世田介の家の最寄駅に、八虎がやってきた。
「おーい!」
改札口の世田介をみつけるなり、嬉しそうに大袈裟な身振りで手を振る。
ある出来事があって以来、八虎はかなり頻繁に世田介の家に通っていた。
だから、今更めずらしいこともないだろうに。
世田介には八虎のいやに高いテンションが不気味だった。
「なんか今日の矢口さん、はしゃいでるよね」
「そりゃはしゃぐよ!だって、恋人と、ど、同棲できるかもしれないんだよ?」
「……」
「なんで無視すんの!?」

ふたりが付き合い始めたのは半年前のことだった。

最初は彼を意識していることすら認めるのに勇気が必要だった――と、世田介は思う。

ふたりのあいだには、どうしようもないわかりあえなさが横たわっていた。
これはお互いの人としての性質の問題なので、努力で解決できるようなものではなかった。
――それなのになぜ、自分はこの男に惹かれてしまうのだろう?理解し合えるはずなんてないのに。
数え切れないほどそう自問したが、結局、何度傷つけあっても、気づけば世田介は八虎のそばにいた。

ふたりのそんな曖昧な関係性にピリオドをうったのは八虎の方だった。

「世田介くん、俺と付き合ってよ」
そう告げられた日のことは、一生忘れられそうもない。
彼が出した答えは予想の斜め上だった。
告げられた時の自分の顔は滑稽だっただろうな、と世田介は思い返す。
でも、返事を承諾するのに不思議と迷いはなかった。

八虎と出会ってからの数年間のあいだ起きた様々な出来事を思い返していると、どの記憶にも決まって隣に彼がいた。
彼と過ごす日々はまぶしくて、あざやかで、けっして心地いいだけのものではないけれど――きっと十年後も、二十年後も思い出すのだろう、そう思えた。