ミューズが僕らに微笑んだ - 3/4

季節がめぐって、春から夏になった。
あれからルームシェア、もとい同棲の話はとんとん拍子に進んで、次の週には目処をつけていた物件をふたりで内見して、大学からほど近い文京区千駄木にある、築年数がすこし古いが、やや広めの2DKの物件をその場で契約した。
八虎の両親も、最初こそ「せっかく実家から通える大学なのに」と残念がったが、八虎が制作の忙しい時に頻繁に大学に寝泊まりしているのも知っていたので、「制作が捗るなら」とあっさり承諾した。

ルームシェア生活はたしかに快適だった。
なにより、終電を気にせず夜遅くまで大学に残って作業ができるのが嬉しい。
八虎はここぞとばかりにバイトも増やしていた。
世田介もそんな彼を見て、自分も少し何か簡単なバイトをしてみてもいいのかもしれない、とぼんやり考えていた。

一番の懸念事項だった「家族以外の他人との共同生活」という点に関しても、お互いに距離感を弁えるタイプの人間同士だからか、さして気にならなかった。
むしろ親が過干渉気味だったふたりにとっては、この点の快適さが一番大きなルームシェアの利点だったと言ってもいいだろう。
食事は学食か近所の安い定食屋(学生街なので昔ながらの安くてうまい店には事欠かなかった)で事足りたし、洗濯は各々、共有スペースの掃除は日替わり当番制にすれば不平等なこともなかった。

親たちも週に一度は「近くに寄ったから」などと理由をつけて部屋に遊びにきていた。
そのたびに持ってくる野菜や肉や果物を無駄にしないように、土日はふたりで料理する。
最初の頃は食材の買い出しすらもひと仕事で、スーパーの調味料コーナーで「いや、やっぱ世のお母さんってすげーわ」と八虎がしみじみ呟いたのには、世田介も深く頷いた。
調理も、最初の頃は「らせん」を描くように繋がったきゅうりの酢の物や焦げた鯖の味噌煮などが出来上がったりもしたが、ふたりはもともと手先が器用なほうだったのもあって、すぐ慣れた。
料理は作品作りにすこし似ていた。手をかければ手をかけるだけ、それに応えるように美味しくなってくれた。

ふたりの生活は、なにもかも順調――かに思えた。
ただ、ひとつのことを除いて。

ガチャリ、と玄関のドアの開く音がして、バイト帰りの八虎がダイニングに顔を出す。
「ただいまあ〜」
「…おかえり」
「あ〜超いい匂いする。なんか作った?」
「うん。茄子の煮付けと、豚バラ大根」
冷蔵庫のナスと大根がそろそろ限界だったでしょ、と世田介が付け加えるのを聞くなり、八虎は二口コンロのうえに鎮座する鍋の蓋をとる。
「すげえうまそ。世田介くんはみるみる料理上手になってくなあ。食っていい?」
「まかない食べなかったの?」
「あれじゃ足りなくてさー」
「…まあいいけど」

いただきまーす!と皿の上でホカホカと湯気を立てるおかずを掻き込む八虎を、世田介はダイニングテーブルの向かいに座り、頬杖をついて見ていた。
「ん?どうかした」
「よく食うなと思って」
「だって美味しいんだもん」
リスのように両頬を膨らませて、さぞ美味そうに食事を取る八虎を、世田介は忌々しそうに見つめる。
――ほんと、よく食うよ。人の気持ちも知らないでさ。
八虎はその目線に気付いていたが、なぜ自分がいま世田介から睨まれているのか見当もつかない。
八虎は世田介の意識を逸らせそうな話題を必死に探した。
「そ、そうだ。このまえ橋田から借りた映画のDVD、今日観ようよ」
すこし無理矢理すぎたかな、と思いつつ世田介のほうを見遣れば、すっかり毒の抜けたような表情で「DVDの存在、わすれてた」とうわごとのようにつぶやいていた。

この家でソファがあるのは八虎の部屋だけだった。
実家で余っていたのだという八虎の部屋のテレビも、世田介が実家から持ってきたものより画面が大きかった。
だから、なにかしらの映画やドラマ、アニメをふたりで鑑賞するときは、決まって八虎の部屋に集まることになった。

「世田介くん、俺、ビール飲もうと思うんだけど」
いる?とドアからひょっこり顔を覗かせて八虎が訊いた。
酒に弱い世田介の答えは大抵「No」だが、今日は「うん」と返事があった。
八虎は少し意外そうに、「わかった」と答えてグラスをふたつ持って部屋に帰ってきた。

数週間まえ、八虎は世田介と一緒にとある映画のリバイバル上映を観に恵比寿のミニシアターを訪れた。その時に鑑賞した作品をいたく気に入った八虎が話を橋田にするなり、彼は同じ監督の別作品のDVDを手土産にこの家にやってきたのだった。
部屋にやってきた橋田は興味津々といった顔でぐるりと部屋を見渡すと、「なるほどなぁ」とか「そうきたか」とぶつぶつつぶやきながら、ダイニングテーブルに横並びで座るふたりの顔を交互に見比べて「このDVDはある意味今の自分らにピッタリや」そう言い捨てて帰っていった。
相変わらず妙なやつだ、と世田介はマンションの廊下の向こうに消えていく橋田の背中を見送りながら言った。

そのDVDは数週間のあいだすっかり忘れ去られていた。
世田介は恋人となった八虎に「会話の張り合いがない」と言っていろんなアニメ作品を観せたがったし、八虎は八虎で世田介と一緒に観たかった海外ドラマがあったりしたからだ。

その映画はいかにもミニシアターらしい、フィクションとドキュメンタリーを交互に行き交い縫い合わせたような作風で、ふとしたシーンにも、まるで現実世界の人間の会話を盗み聞きしていようようなリアリティがあった。
舞台はバルセロナ大学哲学科。ラファエロ・ピントという実在するイタリア人教授の文学の講義だ。
そこで繰り広げられる教授と学生たちの議論から、現代における[[rb:女神 > ミューズ]]像を明らかにしていくという。

『わたしが見せたいのは、現代の男に賛美の気持ちを抱かせることができる女性たちの姿だ――ベアトリーチェがダンテにしたようにね』

ダンテ『神曲』をテーマに、高尚な文学談義が始まったかと思いきや、議論はあけすけな男女の性愛や欲望といった話題にすら移りかわった。
ピント教授はまるで光源氏さながらに、つぎからつぎへと学生たちと関係を結んでいく。

嫉妬に苦しむ教授の妻と、つぎつぎに「女神(ミューズ)」と崇められながらも消費されていく女子学生たち。

昔からアーティストの逸話には、彼をインスパイアする女性――つまりミューズの存在がつきものだ。
ピカソのマリー=テレーズ、ゴダールのアンナ=カリーナ…枚挙に暇がないだろう。

ただ、世田介にはそんな関係がピンと来なかった。
――インスピレーションを掻き立ててくれる存在なんて、必ずしも女だけに限らないだろ

世田介は少しだけ退屈な気持ちで映画を観ながら、温くなりかけているビールをグビグビと飲んだ。
女っ気がないどころか、ダンテなど読んだことのなさそうな八虎は、さぞ眠そうな顔をしているだろう――そう思って彼の顔を盗みみれば、ギョッとした。
彼はぼたぼたと涙を流していたのだ。
場面は教授の愛人の学生と教授の妻の長く退屈な問答がつづいている。

妻は、夫が死んだら彼の書いたソネットの出版を託されているという。
愛人は、そのソネットは自分に対して書かれたものだという。

――なぜ、こんな場面で泣いているのだろう。
彼はよく泣くけれど、毎度その意図は掴めない。
こういう時、こちらがいくら悩んでも無駄なことは分かっていた。
けれど、今回に関しては別だ。
こんな場面で泣かれたら、こっちだってあることないこと考えてしまいそうになるではないか。

世田介は動揺していた。
それを八虎に気取られぬようにと、温くなったビールを口に運び続ける。
ビールは冷たくなきゃ絶対に飲めたものではないだろうと思っていたけど、温くなりかけたビールはほんのり甘くて、口あたりがやわらかい。
そう思うのは、酔っているからだろうか。

映画が終わるなり、八虎は無言で立ち上がり、ベランダで煙草を吸い始めた。
トール缶を開けたのは八虎のくせに、彼はビールをほとんど飲まなかった。
映画のエンドロールが鳴り止んだ部屋はいやに静かで、エアコンの室外機の鈍い音だけが耳の奥に張り付いてくるような閉塞感があった。
ピシャリと閉められたベランダの窓の外にいる八虎の顔は、暗くてよく見えない。

世田介はソファから腰を上げて、窓に近づいた。
窓と網戸を開け、そこらにちらばっているサンダルをつっかければ、八虎は驚いたように世田介の方を見た。
「よ、世田介くん?どうしたの、煙たいでしょ」
「うん。でもすこし夜風を浴びたくなった」
「そっか」
ふたりの部屋は小高い丘の上にあるマンションの六階で、ベランダからの見晴らしはよかった。
そもそも、「毎朝この窓から朝日を眺めながらコーヒーを飲みたい」という世田介のせりふが決め手となって、この部屋に住むことになったのだ。

「映画、どうだった」
珍しく、世田介が八虎に感想を求めた。
「うーん、あんまり面白くなかった。けど」
「けど?」
「自分の中にあった疑問に、一種の諦めがついたような気がする」
そう言って彼が空を仰ぎ、濃紺の空に、ふうっと灰色の煙を吐き出す。

今日はたしか満月の夜のはずだった。
けれど、湿気の多いぼやっとした厚い雲がかかって、月はうっすら位置を特定できるほどにしか見えなかった。
「だから泣いてた?」
世田介が単刀直入に尋ねれば、
「見てたの。まいっちゃうなあ」
と困ったように笑って、新しい煙草に火をつけた。

世田介がふと言った。
「煙草、ひとくちちょうだい」
「え?世田介くん、煙草吸いたいの?」
憂鬱そうにしている八虎もさすがに驚いたようにキョトンとした。
いつも煙草を吸う八虎に迷惑そうな目線を送っている、あの世田介が。
「せっかくなら一本あげるよ」
「いい。矢口さんのがひとくち欲しいだけ」
「そ、そう……?ドウゾ…」
やや挙動不審気味になりつつも、吸口を世田介の方に持ち替えて差し出した。

世田介は頬にかかる髪を耳にかけ、八虎の差し出した手にそっと両手を添えて煙草に口付けた。
その横顔が、部屋の淡い間接照明に照らされて、艶かしく浮かび上がる。
てっきり煙草を手渡すものだと思っていた八虎は突然の出来事に固唾を呑んだ。
夢をみているんじゃ、そう思ったけれど、左手に伝わる世田介の柔らかな唇の感触は一生消えそうもないほど生々しくて鮮明だ。

ひとくち煙草を吸い込んだ世田介は、戸惑ったように眉尻をさげて、
「ゴホ…」
とつぶやくように小さく咳き込んだ。
やっぱそうなるよなぁ、そもそも吸い方がよくないんだよ、頭の片隅で冷静な八虎の分身がつぶやいた。が、当の本人はそれどころではない。
煙草から離したばかりの唇は、てらてらと細い唾液の糸を引き、苦しそうに咳き込む彼の目尻は赤く染まっている。
その光景はあまりに扇情的だった。
八虎は世田介から煙草を取りあげると、強引に彼の腕を引き寄せて口付けた。
唇はうすく蕩けそうに柔らかい。
そんないつもの世田介とのキスの感触の中に、アルコールと煙草の味が潜んでいた。

世田介に口付けながら、八虎は、彼の唇を味わうのはずいぶん久しぶりな気がする、と思った。
一緒に暮らすようになって、キスどころかセックスもしていなかった。
というより、しないようにしていた。
無闇にそういう雰囲気にならないように気を配っていた。
もともと、一緒に暮らすまでは週に一度あるかないかのデートで、その際に一度するかしないかの頻度だったのだ。
おまけに、いつもいつも身体のふれあいを求めるのは八虎の方だった。
彼が求めるたびに、世田介は戸惑ったような表情を浮かべた。

「やぐち、さん…煙臭いよ」
世田介がぐいと八虎の胸を押しやり、唇を離す。
八虎の表情に一瞬、悲しみが通り過ぎていったが、すぐにまた嘲るような笑みを浮かべた。
「煙草の味が恋しくなったら、いつでもキスしてあげるよ」
八虎の突き放すような言い草が無性に寂しくて、世田介はまた胸が押し潰されそうな気分になった。

当初、世田介の心臓は、久しぶりのキスに悲鳴をあげそうなほど高鳴っていた。
しかし、うっすらと目を開けてキスをしている八虎の表情を伺えば、彼は目を閉じることもせず、ただじっとこちらを見ていた。
その表情はどこか虚ろで、どんな感情も読み取る事ができなかった。
そんな八虎のまなざしに気づいた時、背筋が凍るようだった。
それで咄嗟に唇を離したのだ。

世田介は何か言いたかったが、どんな言葉をかけるべきか分からず、短く息を飲み込んで、その場で黙り込んでしまった。

そんな世田介の気持ちなど知る由もない八虎は、
「世田介くん、どうしたの?今日はなんか少し変だよ」
お酒、ちょっと飲みすぎたんじゃない?
と、ヘラヘラ茶化すように言う。

どこか無気力で重要な議論から目を背けてばかりいる八虎の態度に、ついに世田介の怒りが沸点に達した。
「変なのはそっちだろ」
怒りで肩を震わす世田介に、八虎ははてなを浮かべる。
「…は?」
「お前、ほんとどういうつもりだよ」
「えっと…」
「俺のこともう好きじゃなくなったならそう言えよ」
世田介は苦痛に顔を歪めた。

世田介の違和感はもう1ヶ月近くも続いていた。
引っ越したばかりの頃は、片付けや課題の提出期限もあって、八虎が一切自分を求めてこないことに疑問すら感じなかった。
実際、本当に忙しくてそれどころじゃなかったからだ。
でも、それから1週間、2週間、3週間と時が過ぎていくにつれ、「何かがおかしい」という違和感が頭に焼きついたまま離れなくなった。

まさか――世田介の中の疑念が広がっていく。
愛想をつかされたのか、心変わりがあったのか。
向こうの気持ちなんか知るよしもない。
八虎の思考回路は世田介の推察の域を逸脱し過ぎていた。
そもそもこんな関係性、最初から無理があったんだ――そんな諦めすらも覚えた。

だけどそんな感情とは裏腹に、胸が押しつぶされたようにずっしり重く、痛かった。

八虎が自分を抱くときの、祈るような優しさと獰猛さが同居した、あのまなざし。
それが何度も何度も頭の中にリフレインした。
――ああ、こんなに苦しい思いをするくらいなら、最初から知りたくなかった。
こんな思いをするのが怖くて、自分はずっと人と距離を置いてきた。
そんな世田介のルールを壊したのは八虎じゃないか。腹立たしいことこの上ない。

「一緒に暮らせるって喜んだり、かと思えば俺のこと避けたり。なんなんだよ…」
一度感情を吐き出してしまうと、とめどなく言葉が溢れてくる。
「俺だってちゃんと言葉にされなきゃ矢口さんの考えてることはわからないよ」

世田介が声を荒げても、八虎は無気力なままだった。
それが余計に世田介を苛立たせる。
「何か言えよ」
詰め寄り、睨みつければ、彼はまだ世田介の顔から目を逸らして諦めたように笑顔を浮かべた。
虚空にふーっと煙を吐き出しながら、八虎が言った。
「だって、俺、ほんとは世田介君をめちゃくちゃにしたいんだ」
煙と共に吐き出された言葉に、世田介はただポカンと呆れたように口を開いた。
「は?」
「俺は世田介くんが思うより、ずっと汚い人間なんだよ」
この男は、何を言い出すのだろうか。
世田介はひたすら唖然としている。
そんな世田介を試すように、八虎は目を細めてうっすらと微笑んだ。
「それに世田介くんは別に俺とセックスがしたいわけじゃないでしょ」
そうやってすぐ自嘲気味に言い捨てる様は、いじけた子どものようだ、と世田介は思った。
「そんなこと、言ってないだろ」
「言わなくたってわかるよ。いつも困ったような顔してるじゃん」
「それは…」
「俺、世田介くんから拒まれるのが怖いんだ」

世田介にはまだ、八虎の言いたいことが腑に落ちなかった。
しかし、ふたりの間には恋愛上のあらゆるプロセスにおいて、温度やスピードにギャップがあったことは紛れもない事実だ。
恋愛経験に疎い世田介には、その自覚が十分過ぎるほどにあった。

八虎の考えはあまりに飛躍しすぎているが、彼の気持ちにそっけない態度をとってしまったことは自分の落ち度だ――と世田介は思った。
八虎相手にはもっとストレートに自分の気持ちをぶつけなければ、伝わらないのだろう。
幸い、彼はいま500mlのビールで酔いが回っていて、普段は絶対言えないであろう言葉すら、口にできてしまうはずだった。

長い間沈黙していた世田介は、意を決して八虎を真っ直ぐ見つめた。
この言葉を口にするのは、あまりに屈辱的だったけど、背に腹はかえられない。
「…たい」
夜の闇の中に消え入りそうな微かな声に、八虎ははっと目を見開く。
「えっ?」
「したいよ」
世田介は肩を震わせ瞳に大粒の涙を浮かべて、八虎を睨む。
「矢口さんとセックス、したい」

その言葉に、八虎は身体にゾクゾクと悪寒めいた衝撃が走るのを感じた。
暗く俯いていた八虎の瞳に、どこからともなく光が宿った。
――俺、世田介くんにこんな表情、させたんだ。
不意に頭に浮かんだそんな考えが、八虎の頭の中を支配していく。
世田介くんが、俺のせいで苦しんで、泣いている。

――ああ、俺は世田介くんが大好きで、大嫌いだ。
俺はあんなに世田介くんに好かれたくて必死で、でも同じくらい彼が憎らしくてたまらなくて、いつでも引きちぎれそうな気持ちでいるのに――目の前の世田介くんは、俺に苦しめられて、泣いているなんて!

気づけば八虎は世田介の頬を両手で包んでいた。
「…っ」
びくりと怯えたように世田介の身体が飛び跳ねる。
小さな唇がきゅっと結ばれているのを親指で無理矢理こじあけ、咥内に指を挿し入れれば、その温かい体温が指越しにつたわり、世田介が下しきれなかった唾液がたらりと手のひらの上を流れ落ちた。
「んあ…」
戸惑ったように小さく呻いた世田介の舌を、執拗に指で愛撫し、逃げられないようにつまみだす。
「世田介くん」
呼び掛ければ、戸惑いと期待と恐怖の入り混じる視線がこちらに向けられる。
「セックスしようか」