本多くんの部屋には背の高い立派な本棚がある。そこには、背表紙からそのずっしりとした厚みを感じる図鑑や専門書がずらりと並んでいた。
「それ、プラネタリウム?」
薄暗い光の漏れる窓にピシャリと遮光カーテンを引き、なにやらごそごそと準備をしている本多くんの背中に話しかける。
「そそ! 前に話したことあるでしょ?」
彼は手元にある小さな機械のコードをコンセントに差し込んだ。
わたしは以前プラネタリウムに一緒に出かけた時、本多くんと交わした会話を思い出していた。
「あ! ひょっとして、本多くんの、手作りの…」
「ピポピポーン! これ、一緒に見よう!」
カチ、とスイッチが入って暗い部屋のそこかしこに星座が映し出された。
「きれい…」
わたしが天井を仰いで自分の知っている星座を探していると、本多くんがクッションを2つ持ってきて床に並べた。ダイオウグソクムシの抱き枕。わたしがクリスマスパーティーでプレゼント交換に出したやつだ。
わたしたちは並んでカーペットに横たわり、部屋一面に浮かび上がる星空を眺めていた。
「――ご覧ください。夜空に輝く3つの星が確認できるでしょうか?」
ときおり相槌をうちながら、本多くんの解説に耳を傾ける。本多くんはそれぞれの星座の観測できる季節や星座にまつわる神話をひととおり説明し終えると、天井に浮かんだオリオン座を凝視したまま、黙り込んでしまった。
「本多くん?」
わたしは不安になって呼びかけた。すると本多くんははっとしたようにこちらに向き直る。
「ご、ごめん! なんかさ、君に解説をしてたら――オレがこのまえ君に言ったこと、思い出しちゃって」
「このまえ言ったことって?」
本多くんとはいつも一緒にいるから「このまえ」なんて急に言われても、いつのことだかわからない。わたしがぽかんとしていると、彼はむず痒そうな顔で「先週、煉瓦道を歩いてたときに話したこと」と、小さな声で言った。
わたしは先週のデートの記憶をたぐり寄せていた。確か、臨海公園の煉瓦道を歩いていたときに、本多くんがそばを通りかかった人に見覚えがあると言ったのだ。それでわたしは、友人かと彼に尋ねた。彼は首を振った。
『違うと思う。オレ、そんなに友だちいないし』
そう言った時の、諦めとも、悲しみとも、開き直りともとれない彼の表情を鮮明に覚えている。
「あの時、友だちがいないなんて言ったこと、君に気を遣わせたり、重い意味に受け取られてないか、ちょっと心配になっただけ」
本多くんは照れ臭そうに笑っている。わたしはそんな本多くんの微笑みに、みるみる自分の頬が熱くなるのを感じていた。
実のところ、ここ最近わたしは毎日本多くんを昼食に誘っていた。
授業が終わったらすぐに本多くんのクラスに走って、たまに暇そうにしている七ツ森くんや風真くんを誘ったりして。自分ではあまり意識していなかったけど、本多くんの例の発言に影響を受けていないかというと――答えは否だ。おまけにわたしの考えが本多くんにバレバレだったことを考えると、恥ずかしくてたまらなくなった。
「君はいつもオレと一緒にいてくれるけど……その、ちゃんと楽しんでくれてる?」
本多くんは自信なさそうに言った。
「楽しいに決まってる!」
わたしは食い気味に答えた。だって本当は、彼からこんな質問をされることすら嫌だったから。
「本多くんはわたしの知らないことたくさん教えてくれるでしょ。それに、いつもわたしにはない視点でいろんなことを考えてて――話してて、すごく楽しいよ」
それを聞いた本多くんはほっとしたようにため息をついた。
「そっか、オレっていつも喋りすぎちゃうから。君がオレの話を楽しんでくれてるなら、それでいいんだ」
わたしもすっかり安心してにこにこしていると、本多くんはちょっと意地悪な笑みを浮かべた。
「でもね、オレにもわからないことはたくさんあるんだよ?」
わたしが「え?そうなの?」と驚けば、「特に、君関連は」と付け加えて肩をすくめている。
「本多くんにわからないことなんてないと思ってた」
本棚に陳列されている本の数々をぐるりと見渡してわたしが言うと、本多くんは首を振った。
「まさか。わからないことだらけだよ」
「ほんとに?」
「…自覚、ないんだ?」
本多くんは起き上がって、近くに積み上げられていた本の背表紙をそっとなでた。
「オレ、本はたくさん読んだよ。だから、人より知っていることも…ちょっとはあるのかもしれない」
「うん」
「だけど、それはオレが経験で得た知識じゃない。そして知識の方も、きっと不完全」
本多くんは博識で、人にものを教えるのも上手い。だけど、決して自分の知識を驕ることはなかった。ひとつの物事を知れば、新たな疑問がどんどん増えて、結局この世は知らないことだらけだって結論になるんだよ――彼はいつもそんなふうに笑ってた。わたしは彼のそういうところが好きだった。
わたしの気持ちとは裏腹に、積み上がった本を眺める彼の横顔は少し寂しげだった。
「マクルーハンって学者はね、書物が人間の知性と感性を分断したって言ったんだ」
「マクルーハン?」
わたしは思わず聞き返す。
「『グーテンベルクの銀河系』っていう有名な本。分厚くて冗長で、内容を面白いと思うかどうかは好みが分かれるかな」
本多くんの講義はいつだって唐突だ。わたしは黙ってうなずき、言葉の続きを促した。
「グーテンベルクが発明した活版印刷技術が今みたいな書籍の流通を可能にして、どんな人でも同じ知識を手に入れることはできるようになった。だけど本の誕生によって、人々はそれ以前の、環境のなかで感じた聴覚や触覚をはじめとするいろんな感覚を包括的に含んだ世界を失った。――人間の意識のあり方が、根本的に変わってしまったんだ」
滔々と語りつづける彼は、自分自身に言い聞かせているようにも見えた。
「マクルーハンに言わせれば、僕らはそんなグーテンベルクの生み出した無数の書籍が拓いた銀河系の住人なんだって。でも、なんとなくわかるんだ、オレは本に書かれていることを知っていても、その知識の意味することはなんにも実感がもてないなんてこと、しょっちゅうだから」
彼がこんなふうにややハイコンテクストな講釈を長々と述べるのは珍しいことだった。
わたしは、いっそ彼が言いたいことが何なのか皆目検討がつかなければよかったのに――と思った。けれどわたしは、本多くんが言わんとしていること、苦しんでいることをなんとなく察してしまった。
本多くんはたぶん、中学生の頃に図書館で本ばかり読んでいた自分の過去を気にしている。同級生がヒソヒソ話している、その事実にいくぶんか尾鰭のついた噂話についても。
「本多くんがいま、実際に見たものや聞いたもの――つまり経験を大切にしているのは、その分断された『感性』の部分を取り戻したいから?」
おずおずと、わたしは自分の見解を述べてみる。すると本多くんの沈んだ表情がぱっと明るくなった。
「そそ! やっぱり君って最高!」
本多くんは叫びながら興奮気味にガバっと隣に寝そべるわたしに覆い被さった。わたしは突然本多くんの顔が近づいてきたので心臓が止まるほど驚き、どぎまぎしていた。けれど彼は構わず言葉を続けた。
「ごめんね。普段は読んだ本のこととか、自分の中で噛み砕けてない知識の話はあんまり人にしないようにしてるのに。君といると、なんだか心の中のそういうリミッターが外れちゃうことがあるんだ」
わたしに覆い被さった本多くんの顔は、笑ったり落ち込んだり忙しい。
いつの間にかわたしは、目の前に本多くんの顔があることも覆い被さられていることも忘れて微笑んでいた。
「それで、本多くんはいま、何が知りたいの?」
「えっ?」
「だって、なにか悩んでたみたいだったから」
すると、本多くんは困ったような表情を浮かべたあと――ゆっくりと口を開いた。
「君と一緒にいるのが好きなんだ。けど、これは恋愛感情? それともヒトとしての本能?」
「えっ」
今度はわたしが戸惑う番だった。本多くんのまっすぐな視線がわたしを射抜く。一体どんな顔をしていればいいのだろう。
「あるいは一種の帰属意識? 男女という最小単位のコミュニティに帰属することへの安心感というか…」
考え込んだまま、本多くんはぶつぶつつぶやいている。
「いま、目の前にいる君を抱きしめたいって思っているのは、君を愛しいと思っているから? それともフロイトの言うようにリビドーを発散させたいから?」
「リビドー…?」
熱っぽい眼差しで吐き出された言葉を、おそるおそる聞き返す。すると本多くんは一瞬だけきょとんとして、すぐにいたずらっぽい笑みを浮かべ――そっとわたしに耳打ちした。
「抑えきれない性的欲求のことだよ」
わたしはヒュッと息を呑んだ。たしかにこの状況で「そういうこと」を1ミリも想像しなかったわけじゃない。けど、本多くんの口からそんな露骨な単語が飛び出すなんて、思いもよらなかった。
「せい、てき…って、」
言葉に詰まって視界がぐるぐるまわる。彼の口角はゆるやかなカーブを描いているけれど、何を思っているのかはわからない。
わたしが困っているのを察してか、本多くんはぱっと身体を離した。
「だーっ! こんなこと急に言われても困るよね」
ごめんごめん、とおちゃらけた口調でお茶を濁そうとする彼の困り眉を眺めながら、わたしは考えていた。
このまま話題を変えてしまうのは簡単なこと。だけど本当に、このやりとりを無かったことにしていいの?――わたしは自問自答する。
本多くんは感情表現が素直だし、いつも明るくオープンな人だけど、こんなふうに内面を吐露するのは珍しかった。せっかく彼が勇気を出して正直な気持ちをぶつけてくれたのに、誠意を持ってそれに答えなかったら、きっとわたしは後から泣いて後悔するにちがいない。
頭で考えているうちに、身体が勝手に動いていた。
わたしは本多くんの着ているTシャツの胸元を掴んで、引き寄せた。本多くんは最初こそ驚いていたけれど、すぐにわたしの意図を汲み取って再びわたしの身体の上に覆い被さった。わたしはそのまま彼を引き寄せた。
目を瞑り、深く息を吸った。至近距離に、本多くんの熱量を感じる。そっとまつ毛がふれあうこそばゆい感覚が過ぎ去って、鼻の先が互いの頬に触れた――そしてすぐに、唇がぴたりと重なった。
それは、ただ触れるだけの短いキスだった。
でも、本多くんの肌の匂いや予想よりふっくらとしていた唇の感触、うっすらと開いた瞳のなかの虹彩のかたち――彼にまつわる、ありとあらゆる情報が、鮮明すぎるほどに脳に焼き付いていく。
そっと互いの顔を離したあと、わたしは尋ねた。
「ねえ、わかった? 愛か、リビドーか」
それを聞いた彼は、ふ、と笑った。
「わかんない。…けど、もう1回したら、わかるかも」
「もう!」
2回目はどちらともなく唇を寄せた。
最初に数回、互いの唇のやわらかさを味わうように、何度か軽くふれあった。うっすらと目を開けてみる。すると彼はすでにじっとこちらを見ていた。わたしが彼に目配せすると、彼はにやりと笑ってそっと唇を食んだ。何度も何度も首の角度を変えて、確かめ合うように唇を味わう。
本多くんのキスは繊細で、じわりじわりと焦ったく深度を掘り下げていく。
もっと実験的で、忙しない、自分の内側にあるものをどんどん暴かれていくようなキスを想像していたわたしは、本多くんの新たな一面との遭遇に鼓動を早めた。
キスに夢中になっているわたしの唇に、ふと、ぬるりとあたたかい何かが触れた。熱くて質量のある本多くんの舌がわたしの唇の境目にゆっくりと侵入してくる。
これはちょっとだけ、怖かった。男の人とキスをするのは今日が初めてだったし、その先を一度味わってしまったら、この沼のような快楽から抜け出せなくなってしまうような気がしたから。
「こわい?」
本多くんが吐息混じりに訊いた。わたしは少しためらった後、ごく浅くうなずいた。すると、床の上に放り投げられていた手のひらを本多くんがぎゅっと握った。指と指が絡まって、普段より本多くんの手のひらの大きさや重量感、ゴツゴツした指の形がよくわかった。本多くんの手はあったかくて、触れているだけでほっとした。こんなにドキドキと呼吸も浅くなるほどに鼓動は高鳴っているのに、本多くんと触れ合うのはこのまま眠ってしまいたいほど心地よかった。
「こわいけど、この先を知りたいなって思うよ」
わたしの返事に、本多くんは安心したように胸を撫で下ろした。
「…よかった。オレも君のこと、もっと知りたい」
それでわたしたちはもう一度口づけた。本多くんがゆっくりと唇を開き、そろりと舌をわたしの咥内に侵入させた。
初めて口にした「おとこのひと」の舌は厚くて体温が高かった。けれど、ゴツゴツした手指や厚い胸板、どこもかしこも硬くて大きなそんな本多くんの身体のなかで、口の中でうごめいている舌だけが、最もやわこくて愛しい部位のようにも思えた。
わたしはアイスクリームを掬うように、そっと舌を絡ませた。すると、彼はわたしの舌のうえを溶けそうにやわらかく這っていく。その感触に、ゾクっと身体が震えた。
ただ、ひたすらに気持ちいい――思考の輪郭がおぼろになっていく。
彼はわたしの着ていたカーディガンをそっと脱がせた。
タンクトップ一枚になったわたしの肌を、本多くんの手のひらが撫ぜてゆく。その感覚は焦ったくてゾワゾワして、だけどやっぱり気持ちよくて――このまま、本多くんも裸になって抱きしめられたらどんな気分になるのだろう、ついそんなことを考えた。
わたしはちらりと本多くんの方を見た。すると向こうもどうやら同じことを考えていたらしい。彼はおもむろに来ていたTシャツを脱ぎ出していた。
「えっ!」
わたしが驚いて短い叫びをあげるのも束の間、また本多くんの唇に口を塞がれた。ぎゅ、と抱きしめられて、タンクトップから覗く肩や広く開いた背中、胸もとの肌が本多くんに触れた。
はじめて彼の肌に触れた時の感動を、どう言い表せばいいのだろう。柔らかくて温かい肌と肌は、互いに吸い合うようにぴったりと合わさった。
本多くんがひとつひとつ丁寧にほどいていく未知の快楽に、わたしは酩酊しそうだった。このままふたりでどこまでいくのだろう――糸一本のところで平静を保とうとしている自分の意識がそう言った。
「ねえ、わかった? 本多くんの知りたかったこと」
わたしは自分が理性を失ってしまう前に、息も絶え絶え呼びかけた。それに対して、本多くんはうーんと唸った後、結論を出した。
「わかったけど、ちょっと困ってる」
その返答が腑に落ちず、わたしがクエスチョンマークを浮かべていると、本多くんはまた意地悪っぽく笑って言った。
「愛もリビドーも、相反する感情じゃないでしょ?」
大胆すぎる告白に、わたしは顔を真っ赤にしたまま彼の腕の中で狼狽えた。目を白黒させているわたしの顔を、大きな手のひらが包み込む。
「この感情はぜんぶ、君のせいだよ」
咄嗟に何かを言おうとして開いたわたしの唇に、本多くんの親指が触れた。
「本当はオレ、誰ともわかりあえなくたっていいって思ってた――話し相手なら、家族で十分だ、って。だけどこうして君が現れた。オレの見たいものを、こうして隣で一緒に見て、触れてくれる君が」
本多くんのふたつの瞳はまっすぐわたしを見つめていた。彼は少し泣きそうにも見えた。
「あのさ…これからもずっと、一緒にいてくれる?」
心配そうに吐き出された言葉に、わたしは微笑みながら頷いた。
スイッチが入ったままのプラネタリウムが、部屋中に星々を散りばめている。わたしたちはそんな星々の中でまた何度目かもわからなくなったキスを交わした。
彼のなかにある孤独のことを、わたしが完全に理解することはできないのかもしれない――だけど、こうしていっしょに確かめ合うことはできる。本だけじゃわからない感情のことも、この世界のどこかに隠された未知の体験も。
だってこうしてふたり、グーテンベルクの銀河のなかで巡り会えたのだから。