天から落ちてきたひとびと - 2/2

空になった2人分の朝食の食器を洗いながら、ウォロは先ほど出かけて行ったショウの制服姿を思い出していた。

他の生徒たちと同じ制服に身を包んだ彼女は、群れの中の魚のようだと思った。
どこにでもいる普通のティーンエイジャーという名の、大きな群れのなかの1匹の魚。
制服を着たとたん、昨晩も布団の中で自分に好き放題乱されていた彼女はすっかりなりをひそめた。
年相応の新芽のような若々しさを目の当たりにすると、つい眩しくてじっと見つめてしまったのだ。

ウォロは、この世界に転生させられてからというもの、この村に伝わる伝説を調べて続けていた。
伝説を調査する当初の目的は、ようやく手に入れた新天地を心ゆくまで味わうために、ショウを元の世界に戻す方法はないか探すためでもあった。
それが自分たちふたりにとって最適解であると思ったからだ。
けれど最近は、そんな目的がすこしずつ薄れ始めている。この心的変化に彼自身もうすうす勘づいていた。

洗い物の最中、玄関先でガサガサと音がした。
コンコンとドアがノックされ、声が続いた。
「もし、ウォロさんおるかね?」
ウォロは皿洗い用のゴム手袋をいそいそと取り外し、緩み切った表情や居住まいを正すと、商人時代に鍛えられた営業スマイルを貼り付けた。
「はい、おります。どうしました?」
ドアを開ければ、人の良さそうな老人がビニール袋いっぱいのじゃがいもを持って立っていた――大家の後藤さんだ。
彼はふたりに住む場所を提供し、村の仕事を手伝う代わりに多くはないが少なくもない生活費を支給してくれるいわば恩人だ。
「いやいや、今晩は雪になりそうやけね、ショウちゃんは傘を持ったやろうかとおもって」
はいこれ、酒井さんとこのじゃがいも、とビニールを渡される。
「ショウちゃんはイモモチが大好きやからねえ」
ショウは明るく気立てがよく働き者で、今ではすっかり村の人とも打ち解けていた。だから後藤さんはよくこうしてショウの好物を持ってくる。
ヒスイ地方の原野を駆け巡っていたウォロとショウは足腰が強く、山仕事や動物の世話が上手かったので村の人から重宝されていたというのもあるが、やはり単身でコトブキ村にやってきてあれだけ皆から慕われていたショウの人望にはさすがのウォロも敵わないと思う瞬間があった。
ウォロがにこやかに礼を言ってじゃがいもを受け取ると、後藤さんはうんうんと満足げに頷いた。
「夕方から霙まじりの雨になるからね、あとで高校まで傘を届けておやりなさいね」
そう言いのこし、ふたりと後藤さん以外誰も入居者がいない古い2階建てのアパートの階段を降りていく。
後藤さんの後ろ姿を見送りながら、ウォロはこの村の煩わしい人間関係にまた胸の内で密やかに悪態をついた。

余計なお世話だ――本当はそう言って老人を追い返してやりたかった。
しかし、後藤さんの世話になっているのは事実だし、彼の助力なしに自分たちがこの世界で生きていくことは当分の間は不可能だろう。
おまけに、今の澄み渡った晴天が夕方には崩れるなんて考えもしなかった。ショウが身体を冷やすことはウォロにとっても耐え難いのだった。

それでは何が、彼をこんなにも苛立たせるのか。
その理由は釈然としないままだ。

彼はそのあと、近所の畑仕事や害獣よけの罠の修理などこまごました仕事をこなし、17時過ぎに傘と文庫本だけを持ってショウの通う高校に出向いた。
今日の授業は15時ごろに終わっているはずで、そのあと彼女は18時まで部活動に出席する予定だった。

傘をそのまま下駄箱に置いておくこともできたが、なんとなく校門前で彼女を待ってみることにした。
18時までまだ少し時間があった。手持ち無沙汰に本をめくってみるが中身は頭に入ってこず、何故か彼女のことばかりが頭に浮かんでは消えた。

初めて抱いた時、抱きつぶされてくったりした彼女がうわごとを繰り返した。
「ウォロさん、すき…」
空耳かと思ってじっと耳をすませてみれば、たしかに「すき」と言っている。
あんなことがあったうえ、無理やり処女を散らし辱めた男を彼女が好くなんて考えもしなかった。
「アナタ、物好きですね」
思わず返事をしてみたが、こちらの声が届いているのかいないのか、
「すきなの」
とだけ繰り返し、彼女の瞳からまたはらりと涙の滴が流れ落ちた。

舌を伸ばして彼女の涙をそっと掬ってみた。
生ぬるくてしょっぱい、なるほどこれが生きた人間の味なのだな、と妙に納得した。
自分が果てるまで、ぐったりした彼女の腰を掴んで何度も抽送を繰り返す。
「すき」
その度に彼女は浮かされたように愛を囁き続けた。
「もう、どこにも……行かないで」
ウォロは彼女の科白をどこか額縁の外に追いやられた部外者のような気持ちで聞いていたが、ふとした瞬間、自分が泣いていることに気づいた。
「は……何で」
涙に濡れた自分の頬を、怪我の患部に触れるように恐る恐る触ってみる。
自分の中に湧き起こった奇妙な感情のまえでなすすべなく狼狽えている彼の元に残ったのは、彼女が囁き続けた「すき」という言葉と、肌の上に精液を撒き散らされ気を失ったままの哀れな少女だけだった。

翌朝、目覚めた彼女を注意深く観察してみたが、妙に彼女の態度はよそよそしく、彼から距離を置こうとしているようにも見えた。
それから毎日どうにかこうにか彼女と夜迦をともにしてみるが、あの夜のような言葉を聞けたことは一度もなかった。
今となっては、あの日見た光景が現実だったのかも定かではない。
ひょっとしたら自分の願望が見せた夢だったのかもしれない――もしそうだとしたら、考えただけで反吐が出そうだ。

彼は毎日、この村の伝説にまつわる本や資料を漁って貪るように読み続けていた。
村の図書館司書の年老いた女性とはすっかり顔馴染みになり、他の地区の図書館に所蔵されているマイクロフィルムになった古い新聞や雑誌なども取り寄せてもらっている。
彼女を元の世界に戻すためのその作業は、いつしか彼女が勝手に自分の前から姿を消してしまう可能性をひとつひとつ排除していく確認作業と化していた。

ウォロは本から顔を上げて校庭の時計を確認する。
18時ちょうど。
数分前からパラパラと雨が降り出し、気温もグッと下がってきた。遠くで春雷が鳴っている。
彼は文庫本をコートのポケットに押し込んで、ショウが出てくるのを待った。

しだいにガヤガヤと部活終わりの生徒たちが下駄箱にやってきて帰路につき始めた。
その中にショウの姿を探すが、なかなか彼女らしき人物は現れない。
20分ほどして、一組の男女が親しげに会話をしながら廊下を歩いてくるのが見えた――その片割れは、ショウだ。
男子生徒は傘を開くと、ショウに中に入るよう促しているようだった。
彼女は少し躊躇ったあと、その傘の中におずおずと収まった。
そのまま彼らがウォロのほうへと歩き出す。

ウォロはその様子を顔色ひとつ変えず、まばたきも忘れてじっと見ていたが、深くため息をついてツカツカと歩き始めた。
金色の髪、銀色の目、長駆。ウォロの外見はこの田舎町ではよく目立った。
夢中で隣の男子生徒が話し続けるのを他所に、ショウがウォロに気がついた。
「ウォロさん!」
心なしか嬉しそうな表情でショウが叫んだ。
「霙が降ると後藤さんに言われて傘を持ってきました。一緒に帰りましょう」
ウォロは2本の傘を持っていたが、自分が差していた傘の中にそのままショウを引き入れた。
ショウの肩を抱き、雨に濡れないように引き寄せたあと、男子生徒の方を振り返る。
「ショウさんに傘を差してくれてありがとうございました。でも、もう大丈夫ですよ」
にこやかに告げたが、ゆるく上がった口角と対照的に目はまったく笑っていなかった。
男子生徒は怯えるように「じゃ、さよなら」と走り去ってしまった。

一方で、ショウは突然の出来事に理解が追いついていなかった。
ウォロが同じ傘に入って一緒に歩きたがることは今までなかったし、おまけに彼はもう一本傘を持っていた。
濡れないようにと肩は抱き寄せられたままで――なんとなく、どこかへ逃げないように捕らえられているような気分になった。
「ねえ、今日は一体どうしたんですか…? なんだか珍しいですね」
「そうですか? 家族ならこうして一緒に傘に入ることもあるんでしょう、普通は」
口調はひどく穏やかにコントロールされていたが、その中に苛立ちが潜んでいるのをショウは見逃さなかった。

「あら、仲がいいわねえ」
お隣の小西さんが話しかけてきたのを、ウォロが愛想良く応対する。
確かに、今の彼らは誰がどう見ても仲のいい兄妹のように見えるのだろう。
それでショウは感じていた違和感を忘れてみることにした。

けれどそれが間違いであったことを、すぐに思い知らされることになる。

ガチャ、とアパートのドアの鍵とチェーンをかけ、振り返ろうとした時だった。
「〜〜〜〜むぅ!」
力任せに壁に身体を押さえつけられて噛みつかれるように唇を塞がれた。
乱暴に服を脱がそうとする彼の手を防ぎきれず、学校指定の黒いストッキンがビリリと音をたてて裂けた。
ローファー、セーラー服のリボン、裂けたストッキング、コートとカーディガンが取り払われて床の上に散らばった。
あらわになった脚を彼の着ている濡れたモッズコートから滴る雨粒が濡らす。
「ウォロ、さん……どうして……っ」
戸惑うショウが唇を離して切れ切れに言えば、ウォロは冷え切ったまなざしでショウを見下ろした。
「あの男、誰」
地を這うような声に、ショウは身震いした。
「同じ部活、のっ」
彼女の必死の弁明はウォロの耳に届かない。
彼は心許なく彼女の秘部を覆っていたショーツをさっさと取り払い、焦ったい手つきでがちゃがちゃとズボンのベルトを外し、あらわになった自身を彼女のなかに容赦無く埋めた。
「やだっ……ああっ」
慣らさずに挿れられたのは初めてで、さすがに痛くて短い悲鳴が上がる。
しかし、毎晩のように彼を受けている彼女の身体はあっさりとそれを飲み込んでしまった。
「どうして……」
床の上に押し倒されたまま、ショウがさめざめと泣く。
こんなふたりだったけど、彼がこんな手非道いやり方でショウを抱いたことは今まで一度もなかったのだ。
ウォロは彼女のあられもない姿に征服欲が満たされていくが、わけもなくジリジリと胸の奥が焦がされるように痛かった。
自分の心を占拠する正体不明の感情のまえで、彼はまたしても途方に暮れていた。
「なま、ダメだよ…」
彼女は困惑の表情を浮かべ、舌足らずの喋り方で彼の動きを制する。
どうやら自分がコンドームを付けていないことが不安らしい。
「孕めばいい」
イライラしながら言い返せば、彼女はまた泣きそうな顔で押し黙った。

パンパンパンパンと、肌がぶつかる音だけが聞こえる。
彼女は喘ぎ声が外に漏れないようにぎゅっと口元を押さえ、耐えている。
その仕草は毎晩の営みとなにひとつ変わらないものだったが、今日は無性にその光景を物寂しく感じてしまう。

一度目の射精が終わっても、彼の気持ちは収まらなかった。
「今更、逃げられると思うなよ」
泥のような言葉が口から漏れ出て、その場に深く沈んでいくようだった。
「どこにも行かせない……ワタクシを、こんな目に遭わせておいて」
吐き出されたこれは呪いの言葉だ――彼女を自分の元へ縛りつけておくための、呪い。

目の前の彼女は、ただ何も言わずじっとこちらの言葉に耳を傾けていた。
その表情を見ていると、憤りとも悲しみともとれない激しい感情で、視界がぐらぐらと揺らいだ。

その時だった。
ひんやりと冷たい手のひらが、彼の頬をそっと覆った。
「どこにも行ったり、しません」
きっぱりとしたショウの声が、凛と静かな室内に響いた。
ウォロは彼女の毅然とした態度を意外に思って目を見開いた。
「だってわたし、ウォロさんさえいればいいの」
「……は」
彼女の言葉に夢中になって、動きがぴたりと止まる。
「ずっとずうっと、ウォロさんが好きなの。ヒスイにいた時から……」

認めるのは癪だが、深い安堵がウォロの胸の内に広がっていく。彼は目を閉じて、長く息を吐きだした。
「ずっと黙ってて、ごめんなさい。ウォロさんはわたしのことなんてどうでもいいんじゃないかって、思ってたから」

――あの日のことは、夢ではなかったか。
彼の心を幾たびも掻き乱してきた疑問にもたらされたひとつの回答が、胸にぽっかりあいた穴を塞いでいく。
へなへなと脱力するように大男が少女の上に覆い被さった。
下敷きになっている少女の体は温かく、彼女の小さな心臓の鼓動がトクトクと震えているのを感じる。
彼は不器用な手つきでそっと彼女を抱きしめてみた。するとなぜだか無性に泣き出したい気分になった。
それを知ってか知らずか、彼女が腕を伸ばしてウォロの頭や背中をぽんぽんと宥めるように撫でた。

しばらく彼は何も言わず、されるがままになっていたが、春先の暖房のついていない玄関の床はひどく冷えた。
心のなかのわだかまりが溶けて頭はすっかり冷静さを取り戻しているが、自分の行動の愚かさ加減に流石に気まずさを覚える。
彼女からずるりと己を引き抜いて、身体を抱き上げた。
「風呂に入りましょう。中のものも、掻き出したほうがいいでしょう」
ちらりと彼女の顔を盗みみれば、頬を赤らめて「はい」と短く返事した。

恋とは――今まで知ることも向けられることもなかったその感情は――ひどく厄介で、時に自分たちを不幸にする。
けれど、彼女の発するたったの一言で、あっという間に地獄は天国へと姿かたちを変えてしまった。

彼はおそるおそる、腕の中でおとなしくしている彼女の表情を確認する。
すると彼女はやわらかなまなざしで不安げな彼に応えた。
それは今まで見てきた中で一番美しく、穏やかな微笑みだった。

まるで草原に咲いた花のようなこの気持ちに――いつかはきちんと向き合えるだろうか。