それは、ちょっとした出来心だった。
家事の最中、立香はリビングにある戸棚のひきだしが中途半端に飛び出しているのに気がついた。中が気になってそのまま引っぱり出してみれば、思いのほか軽い。空なのかしらと中を覗き見ると、そこには古ぼけた手帳が一冊と万年筆がしまわれていた。きっと同居人のホームズのものだと思ったが、手帳には何枚か無造作にメモのようなものが挟まっている。その中身が何となく気になって、よくないとは思いつつも立香はおそるおそるそれを手に取った。
手帳をひらき、立香は「あ」と短い叫びを上げた。挟まっていたのは、二枚の写真だった。一枚目は、一度見たら二度と顔を忘れられないくらい美しい女のひと。二枚目は、一体いつ撮ったのだろう――わからないが、立香にとっても忘れ難い女性、エレナ・ブラヴァツキーの写真だった。
立香は、すぐさま直感的にこのふたりがホームズにとっての何なのかを察したが、こうしていざ彼の心の中に棲み続けている女性たちの面影を目の前にしてみると、ただうろたえることしかできなかった。
わかっている。ホームズは立香よりも何歳も歳上の男のひとだ。過去に特別な感情を抱いた相手がいたって、なにも不思議じゃない。
おまけに、いま彼のパートナーとして過ごしているのは他の誰でもない、立香だ。こんなのべつにどうってことない。ただ彼の懐かしい思い出が、ひきだしのなかにそっとしまわれていただけ……。
そういって自分を宥めたが、二枚の写真を丁寧に手帳のなかに戻したあとも、立香は複雑な感情に支配されたままだった。
嫉妬しているのかと聞かれたら、たぶん答えは否だ。強がっているわけではない。心のうちに湧き上がったのは、美しい女性たちへの純粋な憧れと、彼の心の内側に隠された彼女に触れられない領域――それに許可もなく踏み入ってしまった罪悪感、そしてわけもないもの寂しさだった。
しかし、こんな気持ちを抱いていることを彼に気取られるのは嫌だったので、立香はこの出来事をできるだけ早く忘れようと努めた。
***
「昨日から、すこし元気がないように見えるが」
翌朝、起床したホームズが身支度を整えながらキッチンに立つ立香に向かって言った。彼に違和感を抱かせることのないよう精いっぱい自然に振る舞っているつもりだったので、立香は鋭い指摘に面食らった。さすがはホームズだ。そう易々と誤魔化せる相手ではない。しかし立香も引き下がれない。
「そう?気のせいだよ」
動揺を気取られぬよう、穏やかな雰囲気を意識しつつ、意にとめぬ様子で朝食の用意を続ける。ホームズはさらに訝しげに片眉を吊りあげた。
「何かあっても君は大体いつもそう言うだろう」
「そんなこともないと思うけど……」
じっとこちらを見つめる視線から目を逸らす。このまま彼を誤魔化しつづけるのは至難の業だ。だが素直に話すには気が引けて、ついつい意固地になってしまう。そんな立香を見かねてホームズは肩を落とした。
「立香、おいで」
彼は立香に両腕を差し出した。立香は悩んだ末におずおずと歩み寄り、背の高い彼のその腕のなかに収まった。
「こっちを見て」
肩にそっと彼の手が置かれた。幼い子どもをあやすような声がむず痒くて、本当に子どもみたいなわがままを言って困らせてしまいたくなる。
彼を直視するのは怖かった。彼を惑わせられる人なんていないから、また何もかもを見透かされてしまうだろう。だけどその呼びかけを無碍にするのも心が痛い。
「話してごらん。大丈夫、心配要らないよ。私は絶対的に君の味方だ」
彼の態度は柔和だが、その語気は強く、有無を言わさぬとばかりの意思が読み取れた。立香は顔を上げて、毅然と言った。
「ホームズに心配かけるほどのことじゃないよ。ささいなことなの」
突き放したような彼女の言い草に、ホームズは短くため息をついた。立香の方に置かれていた彼の手のひらが彼女の首筋を撫で、そっと両頬に添えられた。
端正な彼の顔がゆっくりと近づいてくる――まつ毛が触れ合いそうになり、恥じらうように目を伏せると、薄くて溶けそうなくちびるの感触が押し寄せてきて、立香の頭の中をいっぱいにした。
昨夜、ベッドの中で何度も交わしたキスと彼のにおいが脳裏に蘇り、ふと、こわばっていた身体が温かくなる。
「ベッドの中でも君は少し変だったんだ」
私が気づいていなかったとでも?――キスをしたばかりの唇がそっと囁く。自信ありげな態度とは裏腹に、声音はすこし震えていた。彼は祈るように目を瞑って、立香のおでこにコツンと額を合わせた。
「君の力になりたい。私にだけは何でも話してほしい」
「それは……」
惑う。しかしがっしりと身体を抱き止められていて身動きが取れない。目を逸らそうにも、キスできそうなほどの至近距離であの聡い瞳が立香を射抜いている。
彼女は観念して、洗いざらい話してしまうことにした。
「写真を……見ちゃったの。ホームズの手帳の中に入ってた、綺麗な女の人の写真」
ホームズは真剣に彼女の言葉に耳を傾けた。その表情からは、彼女の話を意外に思ったのか、はたまたそうでないのか、一切の感情が読み取れず、立香は不安な気持ちに見舞われる。
「リビングの掃除をしてたら偶然見つけてしまって……中身を勝手に見てしまったの。本当にごめんなさい」
言いながら、立香は泣き出したくなった。自分の心の柔らかいところを無防備に曝け出しているみたいで、その場から走り去って逃げてしまいたかった。
それまで黙っていたホームズが、ゆっくりと口を開いた。
「だいたいわかった。私はどうすれば、君の気分が晴れるかな?」
立香はまた恥ずかしくてたまらなくなった。こんな他愛ないことで彼を煩わせたくなかったし、自分の抱いたこの微妙な感情を知られたくなかった。しかし逃げ場が失われたいま、正直に白状しなければずっと彼はこのまま彼女を離さないだろう。
「嫉妬……したわけじゃないの、たぶん。それに、ホームズの心の奥に、過去の美しい思い出や特別だった誰かがしまわれていたって、かまわない。あなたがわたしをとても大切にしてくれてることも、よくわかってるから」
ホームズはじっと立香の言葉に耳を傾けている。
「だから、ホームズにどうしてほしいとか、そういうのはないよ。本当に、まったく」
立香が言い終わると、ホームズは「ふむ」と何かを納得した様子で彼女を解放した。そのままふらふらとリビングから出て行ったかと思うと、パソコンやタブレット、スマートフォンなどの電子機器の類を抱えてすぐに戻ってきた。
「君が怒りそうだからしばらくは黙っておきたかったんだが、この際やむを得ない」
そう言って器用に素早くパスコードをタップしていき、それぞれのデバイスのロックが解除されていくなり、立香は目の前の光景に唖然とした。すべてのデバイスの壁紙が、立香の写真なのだ。
「えっ……なにこれ……」
「なにって、これは君の寝顔。これは口にクリームをつけて一心不乱にアイスクリームを食べる君。そしてこれが子どもと泥だらけになって遊んでいる君の写真だが」
いや、わかるけれども……という言葉すら出てこないほどに彼女は驚き呆れていた。つい先ほどまで、彼が誰かの写真を身につけることに何か高尚な意味を見出していた彼女だが、こうして自分の写真を並べられると次第にこの行為を美化しすぎていたのかもしれないという気にもなってきた。
「現代の写真技術はいい。私は着飾って撮るような気取った写真は好かないよ。被写体の人間性が溢れでるような写真こそ、こうして愛でるべきだと思う。だが十九世紀のロンドンでは写真はここまで気軽なものでもなかったからね」
なるほどそうか、と感慨深げなホームズのテンションにのせられかけていたが、ふと立香は我にかえる。
「いやいやいやいや。まってまって。だからってこんなヨダレたらしてる寝顔、壁紙にしないでよ!もし誰かに見られたらどうするの?」
「それは大丈夫だ。すべて私用デバイスで、仕事ではほとんど使わないから」
「うーーん、でもやっぱりこの写真はやだ!変えて!」
「ははは。嫌だ」
「このわからずや探偵…………」
それからしばらくふたりは不毛なやり取りを繰り広げたが、結局ホームズの頑固さに立香が折れる形となった。相変わらず不満げにむくれている立香だったが、不思議と心の内は軽かった。
ふと、生真面目な顔でホームズが言った。
「立香、決して忘れないでほしい。君はひきだしのなかにしまわれる過ぎ去った思い出なんかじゃない。いま私が生きている、この美しい日常そのものだと言うことを」
立香は微笑み――わざとらしく頬を膨らませながら言った。
「じゃあ、次はもっと可愛いところを撮ってよね」
「なに、君はいつだって愛らしいさ」
「そういう問題じゃないの」
呆れたように肩を落としつつも、立香は晴れやかな表情で再び朝食の準備へと戻っていく。食卓についたホームズは、柔らかな微笑を浮かべながら、毎朝の日課であるタブレットの電子新聞にも手をつけずに、キッチンに立つ彼女の後ろ姿を眺めていた。
end