彼がマスターの密かなルーティンに気がづいたのは、ちょうど一ヶ月前のことだった。
カルデア内のレクリエーションルームのひとつに、ピアノやオルガンなどの楽器が設られた部屋がある。音楽にゆかりのある英霊は限られているし、楽器が西洋音楽に偏っているものだから利用者は少ない。
彼女は一日の仕事を終えると、その部屋の前にふらりと現れる。ただし中には入らずに、出入り口近くの階段に腰掛けて目を瞑り、部屋から漏れ聞こえて来る音色に耳を傾ける。ごくたまに、思い入れの強い曲なのか頭の中でスコアを反芻するような身振りをみせるが、基本的には黙って微動だにしない。廊下に反響して細部のぼやけた、決して聴き取りやすいとは言い難いその一音一音を聴き漏らすまいと耳をそばだてている様は、まるでひたむきに祈りを捧げる敬虔な信徒のようでもあった。
彼女の情熱といじらしさに心を打たれて、一ヶ月目の今日、ついに彼は観察者の立場を忘れて彼女に話しかけてしまった。
「そんなに熱心に聴いているなら部屋に入れてもらえばいい。かのアマデウスが君という観客を拒むとはとても思えない」
静かに音楽を愉しむ彼女を配慮して、彼が足音もなく背後から話しかけたものだから、彼女は無言の叫びをあげて後退り、幽霊を見るような視線をよこした。
「ホームズ、どうしてここに?」
小声ながらも驚いた様子で彼女は言った。
「ブリーフィングを終えて自室に戻るところだ」
「でもここから管制室は遠いでしょ?」
彼女の表情はさも不審そうに彼を疑っている。ホームズはそんな彼女の素直さに思わず微笑んでしまったので、正直に打ち明けてしまうことにした。
「つい先日から君の奇行に気がついて観察を続けていたんだが、君があまりにひたむきなものだからつい声をかけてしまった」
すると、訝しげだった彼女の表情が熟れた林檎のようにみるみる赤く染まってゆく。
「えーっと……それじゃ、毎日見られてたって、こと?」
「たまにだよ」
とっさに嘘が口をついて出てきた。本当のところをいえば、なんとなく彼女のことが気掛かりで、彼は毎日のように階段の上からその小さな背中を確認しつづけていた。
しかし、彼女の心配事は彼に観察されていたかどうかはあまり関係ないようだった。
「あのね、内緒にしていてくれる?モーツァルトには知られたくないんだ。もちろん、マリーやサリエリにも……」
ホームズは不思議そうに首を傾げた。例えば、現に自分のファンがシャーロキアンを名乗り出てきたとて悪い気はしないからだ。
「何故?こんなに熱心なモーツァルティアンがカルデアにいるなんて、彼は喜ぶだろう」
すると彼女は困ったように微笑んだ。
「……わたしもそう思う。だけど、彼の演奏は本来はわたしの時代に生きていれば間近で聴くことのできないものだから、いざ正面から向き合うと思うと怖くて。でも、ただ彼に知られるのが恥ずかしいだけなのかも。……自分でも、よくわからない」
彼のマスターはどちらかというと素直で実直で楽天家、ときおり強引で無鉄砲ですらあり、不安や迷いを直接的に口にすることは稀だった。そんな彼女にも、こんなにも曖昧で、他者には知られざる不可侵の――密やかな悩みがあるのだ。
ホームズはうんと頷いて、不安そうに彼の顔色を窺っている彼女に小指を差し出した。
「わかったよ。誰にも言わないと約束しよう」
「ホームズ、ありがとう」
彼女はそう言って小指を絡ませながら微笑んだ。
どこか哀愁を感じさせるその微笑みは、誰にも心のうちへは踏みいられまいとする毅然とした気高さがあり、謎めいていた。あっけらかんとした普段の彼女を知る彼は、意表を突かれたようにその顔を凝視した。
彼女にこんな物憂げな雰囲気を纏わせるものとは一体何なのだろう。気がつけばそんなとりとめもない関心が、ホームズの胸の内に新雪のように柔らかく降り積もっていた。
***
「ミス藤丸。ここで何を?」
午後九時を少し過ぎた頃、食堂の大きな冷蔵庫の前で立ち尽くしている彼女を見つけてホームズが話しかけた。夕食のピークタイムを過ぎた食堂は人もそぞろで、特に食事が好きというわけでもないうえにお酒も嗜む程度にしか飲まないホームズがここに現れるのは珍しいことだった。
「悩んでるの。この時間にバナナアイスを食べていいか」
「バナナアイス?」
「うん。昼間、エミヤが作ってくれたらしい。ナーサリー・ライムたちが美味しいって言ってた。ひとりひとつずつあるはずだからきっとホームズのぶんもあると思うよ」
彼女はホームズがバイオリンケースを担いでいることに気がついていたが、素知らぬ顔で質問に滔々と応え続ける。すると案の定、本題を避け続ける彼女に彼が次第に痺れをきらしていくのが手を取るようにわかった。
「ミス藤丸。アイスクリームなんかよりずっといいものがある」
彼は軽く屈んで彼女の顔を覗き込むようにして言った。
「ずっといいもの?」
「ああ、そうだとも。もっと甘美で、好奇心を掻き立てられ、尚且つ腹の皮下脂肪にもなりえない理にかなったものがね!」
さあ行こう、と彼は彼女の腕を掴んで歩き出した。彼女はすごく嫌な予感がしたけれど、その力に抗えずずるずると引きずられるようにして後に続いた。
***
やっぱり、連れてこられた先は例のレクリエーションルームだった。
「ねえ、ホームズ……」
どういうつもりなのかと問うつもりだった。しかし彼は部屋に着くなり立香のことなどそっちのけで、部屋の本棚に陳列された楽譜を物色しはじめた。
立香は大きなため息をついて部屋の隅のソファに腰掛け、その後ろ姿を眺めていることにした。
「あった、あった」
数分後、頬をわずかに高揚させた彼が何冊も楽譜を抱えて戻ってきた。どさどさとソファの前のローテーブルに露店でも開かんばかりに楽譜が敷き並べられる。
「さあ、好きなものを選びたまえ」
立香は呆気にとられていたが、楽しげなホームズに水を指すのも憚られて目の前の楽譜を手に取ってみた。
ローテーブルに並べられたのはいずれもモーツァルトが書いたヴァイオリンソナタの楽譜だった。
「このなかから選んだのをホームズが弾いてくれるってこと?」
それなら楽しいかもしれないと思って彼女が顔を上げると、心外そうにホームズは片眉を吊り上げた。
「いや。君も弾くんだ。私がヴァイオリンで、君がピアノ」
それを聴いて彼女はドキッとした。何故なら音楽が好きなことも、ピアノを弾けることも、カルデアに来てからは誰にも話したことがなかったからだ。
「……わたしがピアノ弾けるなんて言ったこと、あった?」
「初歩的なことだ。君はシャワー浴びる時に鼻歌を歌うだろう。私はいつもそれを聴いているんだが――」
そこまで聞いて、立香は顔を真っ赤にして彼の言葉を遮った。
「ちょっと、まってまって、どういうこと?」
「落ち着きたまえ。君の部屋は居心地がいいからな。私がよく利用しているのは君も承知のうえだろう」
「でも、そんな、シャワーの音が外まで聞こえてるなら教えてくれたって……」
立香がどれほど恥ずかしがっても、彼は涼しげに「ははは」と笑うだけだ。
彼女が呆れてものを言えないのをいいことに彼は続けた。
「リストの献呈、ブラームスのピアノソナタ第三番――君は一楽章が好きなようだが――、そしてモーツァルトのピアノソナタ第十四番。君が特に好きな曲だ」
思い入れのある曲の数々をピタリと当てられ、立香は背筋が凍るような思いがした。無意識のうちにそんな鼻歌を歌ってることすら、指摘されるまでまったく気がつかなかった。いざ自分のことを洗いざらいにされるのは気恥ずかしく、彼女は彼を直視できずにうつむいた。
「君が歌うのはピアノ曲ばかりだし――なにより君は耳がいい。ただの鼻歌でもリズムも音程も限りなく楽譜に忠実だ。何度も反芻し練習したのだろうとわかるくらいによくスコアを覚えている。だから君はピアノを弾けるのだろうと、わざわざ推理するまでもなく感じたまでだよ」
と、そこまで語って彼がパンと手を鳴らした。
「さて、楽しい楽しい音楽の時間だ。好きな曲を選びたまえ」
完膚なきまでに論破され、立香はしぶしぶ楽譜に手を伸ばす――正直なところ、ヴァイオリンソナタはそんなに聴き込んでこなかったので、唯一伴奏を弾いたことのあるものを選んだ。
立香が選んだ楽譜を確認して、ホームズは満足げに微笑むと、ケースからヴァイオリンを取り出して手に取った。
***
数年ぶりに触れた鍵盤は重くて固かった。カルデアに来るまではほとんど毎日のように弾いていたし、予定のない休日は一日中弾いていたことすらあったけれど、この部屋のピアノを弾きにきたことはない――おそらくきっと、カルデアのマスターになるより前の出来事をあまり思い出したり考えたりしたくなかったのだ。ピアノを弾けばきっとあの頃のことを思い出してしまうから。
指を慣らすためにホームズが用意してくれた楽譜の冒頭部をさらうと、次第に指が動きを思い出していくのがわかった。あの頃のようにとはいかないけれど、長年染みついた習慣はそう簡単に失われないらしい。
その傍らでホームズがヴァイオリンをチューニングし、軽いボーイング練習を始めた。彼の長身に対してヴァイオリンはひどく小さく見えた。ほどよく鍛え上げられ筋肉のついた体躯が楽器を支え、惚れ惚れするほどに安定した弓使いで響きのある音を奏でるので、思わずピアノを弾く手を止めてじっと聴きたくなるほどだった。
立香が彼の身振りを観察する余裕を見せ始めたのを、ホームズは見逃さなかった。
「準備ができたかな、ミス藤丸」
「ねえ、ほんとにやるの?うまく弾けるかわかんないよ?」
「ははは。ま、気楽にやればいいさ」
そう言って彼は彼女の決心がつくのも待たずにヴァイオリンを構えて、深く深呼吸をした。
彼は演奏を始めるつもりだ。そうだとわかるなり立香はいてもたってもいられず、鍵盤に手を置いて彼が息を吐き出し終えるのをじっと見つめて合図を待った。
彼と目が合った。その瞬間、彼の薄い唇が「スッ」と音を立てて息を吸い、弓が跳ね上がる。立香は五感を研ぎ澄ませてそのアインザッツを捉え、最初の一音目を奏でた。
ヴァイオリンとピアノが、一分の隙もなくジャストなタイミングで同じ和音を響かせる。その響きがパンと弾けるように天井に向かって発散していく余韻にうっとりと目を閉じた。生楽器の音の洪水を久しぶりに感じて、頭の奥がビリビリ痺れている。
音楽は過去の美しい時間の記憶をともなって、立香の目の前にたち顕れた。心はそれを直視するのを恐れていても、身体は貪るように懐かしい音楽を全身に浴びたがっている。
立香が選んだこの変ロ長調のソナタはふたつの楽器の対等性が際立っているところが特に気に入っていた。ピアノもヴァイオリンも、どちらかの楽器の脇役になることなく、まるでダンスを踊るように互いの旋律が軽やかに絡み合う。
彼の奏でる音は物憂げで合理的で芯があり、一音一音が的確に彼の言葉を語っていた。その音に神経を研ぎ澄ませて向き合えば、その海の底にいるような暗く穏やかな呼吸が彼女の体内に満ち始め、鍵盤を駆ける指をあるべき方向へと誘った。
彼が作り出した呼吸に、リズムのすべてが囚われる、抜け出せない、彼女の指はどこまでも鍵盤を追い続ける。
その感覚は自分の身体が彼に操られているようで怖かった。しかし恐怖に打ち震える心とは裏腹に、まるでカラカラに乾いた大地に雨が降り、新芽が芽吹いてゆくような――冷え切った身体に、熱い血潮が注ぎ込まれるような感覚を彼女に与えた。
彼の奏でる螺旋のような音階を辿っていくうち――導かれるようにして、彼女はごく自然と安らかな気持ちでこの曲を最後に弾いた時のことを思い出していた。
***
『ねえ立香、今年の文化祭のステージで一緒にこの曲を弾いてくれない?』
わたしは最初、その提案に渋い顔をした――いいんだろうか、自分は彼女と違って音大すら目指してないのに、みんなの前で演奏なんて。自信のないわたしに彼女は微笑んだ。
『いいの。どうしても、伴奏して欲しい。立香に』
わたしはあれこれ悩んだ末、弾くことにした。だけど結局、この約束は叶わなかった。なぜなら、それからすぐにわたしがカルデアに召集されることが決まって、文化祭の日まで学校に通うことができなかったからだ。
最後に会った日、彼女は残念そうにしながらも、努めて明るく振る舞ってくれていたのを思い出す。
『あーあ、合奏、できなくなっちゃったね。残念だけど、わたしはこれが最後だとは思わない』
カルデアでの日々が積み重なるたび、このとき彼女がどんな表情をしていたかを思い出せなくなっていった。耳に染み付いて離れないその声すらも、時間の波に押し流されて、いつかは忘却の彼方へと消えてしまうのかもしれない。
『楽譜、無くさないでね。またいつの日か一緒に弾こう。その日まで練習していてよね』
わたしはずっと、ピアノを弾くのが怖かった。でも本当は――彼女と交わしたこの最後の約束を叶えられないかもしれないと考えてしまうことが何より恐ろしかったのだ。
だけど音楽はあの頃のまま、何も変わらずこの手のなかにあった。彼女の声も顔も過ごした時間も、すべてあの頃のまま、この手の中なかに。
***
「立香、泣いているのか?」
気がつくと彼は演奏する手を止めて立香の顔を覗き込んでいた。はっと我に帰った彼女は自分の頬に手をあて、自分が涙を流していることにようやく気がついた。
「すまなかった。君がこれほどまでに音楽を愛しているにもかかわらず――頑なにそれを悟られまいとしていた理由を、私はいささか軽んじていたようだ。君が苦しいなら、ここでやめよう」
ホームズはスラックスのポケットからピンと糊の効いたハンカチを出して彼女の頬にあて涙を拭った。立香は彼の言葉に首を振る。
「ううん……いいの。おかげで自分の中にあった靄がひとつ晴れたみたい」
「靄?」
首を傾げるホームズに、立香は微笑み、ぽつりぽつりと、言葉おぼつかぬままに語り出した。
「わたし、カルデアに来る前のことだけど……すごく、大好きな友だちがいた」
うん、とホームズが相槌を打つ。彼女は自分のなかの曖昧な感情をどうにか言葉にできないかと、ゆっくりと慎重に話し続けた。
「この曲を弾いたのも、その子に頼まれたからで……結局、合奏は叶わなかったんだけどね」
「カルデアに来て任務をこなしているうち、どんどん遠くなっていったの……彼女と過ごした時間の記憶が。おまけに、地球上にもう彼女はいないでしょ。二度と会えないかもしれないって……考えると悲しくなるから、本当はもう、ピアノは弾かないつもりだった」
そこまで話して、ホームズは立香の腕をつかみ、彼女をピアノ椅子から立ち上がらせると、ぎゅっとその身体を抱き寄せた。
彼は自らの好奇心の無遠慮さと――愛するマスターに音楽を奏でる楽しみをふたたび感じて欲しかったとはいえ――軽はずみな思い立ちを実行したことを悔いた。
「立香……もういい、悲しいことを思い出させてすまなかった。大切な友人に会えない悲しみは、僕にもよくわかる」
いつも冷静沈着なホームズがこれほど感傷的なことを口にするのは珍しかった。立香はその厚い胸板のなかで、ふふ、と朗らかに笑う。
「ううん、違うんだよホームズ。あなたのおかげで彼女のことを思い出せた」
ホームズはその返答に虚をつかれつつも、神妙な面持ちで腕の中の彼女をまじまじと見つめた。
「わたしは彼女を忘れることを恐れていたはずだった。でも気がつけば、彼女を思い出すことすら恐れていたの。彼女はわたしのピアノのなかに、いつだっていてくれたのにね」
「……君は、強いんだな」
眩しげに彼女をみつめるホームズに、彼女はえへん、と胸を張る。
「わたしは仮にもあなたのマスターだもの。見くびってもらっちゃ困ります。でもそうだな……ホームズに泣かされたのは事実なので、やっぱり一緒に食堂でバナナアイスを食べてもらうことにしようかな」
「イエス、マイレディ」
彼は恭しくお辞儀をし、彼女にウインクした。
「では今日は君にサービスしよう。アイスを楽しんだ後は、立香の部屋で好きな曲をなんでも演奏しよう。君の気が済むまでね」
***
「――ねえ、アマデウス。よかったの?あんなにふたりの演奏に感銘を受けていたのに、話しかけなくて。あの子たち、行ってしまったわよ?」
「いやぁ、僕としても話しかけるタイミングは見計らっていたんだけど――……」
音楽室の物陰に隠れるように身を寄せ合っていたマリーとアマデウスがひょっこりと顔を覗かせた。
「あの演奏に水を差すのは、まるで初夜を迎えた恋人たちのベッドをのぞくようなもの。ナンセンスだとおもったんだよ」
「まあ、アマデウスったら!」
ふたりは顔を見合わせ、ころころと笑い合った。
end