茶色い小瓶、白い錠剤が入った大きな瓶、彼女が常備している漢方薬が3種類、袋に入った粉薬。
僕は家中の薬をテーブルに並べて、呆然とその前に立ち尽くしていた。
それからほどなくして、背後からガチャっと玄関のドアが開く音がした。
パタタと軽やかな足音が忙しなく家中を駆け回り、すこししてこちらに近づいてきた。
「夜ノ介くん、またこんな薄着で!なにしてるの?」
「あ…おかえりなさい」
僕は彼女が帰ってきたことが嬉しくて、ぼんやりしたまま微笑んだ。
彼女はちょっと真剣な顔で僕の元に歩み寄り、テーブルの上の薬たちを見るなり、あちゃーと手をおでこに当てた。
「夜ノ介くん、正露丸はおなかの薬だよ。整腸剤も。高熱が出てる人に必要な薬は、こっち」
ずい、と薬局の紙袋が胸に押し当てられる。
「ゴホ、すみません…」
「もう。わたし、薬買ってくるって言ってでてきたのに。こんな薄着でリビングうろうろしてるんだもん、びっくりしちゃったよ」
ちゃんと寝てなきゃ、だめでしょう?
頬を膨らませて彼女が怒っている。
「ごめん。劇団が心配で…早く治さなきゃと思って、いてもたってもいられず」
僕が正直に白状すると、
「そんなことだろうと思いました!だから、一応劇団の事務局にも顔を出しておきました」
と彼女が言うので、僕は驚いて思わず目を見張る。
「これ、事務の矢口さんから預かったメモだよ。あと、明後日のテレビ局のロケは一応来週にリスケしてもらうよう手配してもらった。あと、今日搬入予定の大道具も、武田さんに対応してもらうように言ってきた」
淡々と彼女が説明し、「ちょっとは安心できるといいけど!」とメモを僕に手渡して、さっさとビニール袋の中の食材を冷蔵庫にしまおうとキッチンに向かおうとするので、彼女の背中にとびついてギュッと抱きしめた。
「あなたは、なんてすばらしい恋人なんでしょう」
僕は感動のあまり、泣きそうだった。
ありったけの感謝と「好き」を込めて、彼女の頭に頬擦りする。
「はいはい。こうでもしないと夜ノ介くん、寝てくれなさそうだったから」
彼女はやれやれとため息混じりに僕を抱きしめ返してくれた。
「熱じゃなければ…あなたにキスできるのに」
心底残念な気持ちになり、思わず本音をこぼすと、彼女は悪戯っぽく笑った。
「ふふ。治ったらたくさんできるよ?」
それから僕は彼女に手を引かれて半ば強制的に寝室に連行され、水分を摂らされベッドに横たえられ、体温を測られてきっちりとおでこに冷えピタまで貼られた。
「すごい。これが世に言う体調不良なんですね」
今まで、季節風邪やインフルエンザといったものに無縁だった僕は、テキパキと看病してくれる彼女の手際の良さにすっかり感心していた。
役者ゆえに幼少期から徹底的な体調管理を強いられてきた僕が、ここまでの高熱を出したのはこれが初めてだったから、看病というものをされたことがなかったのだ。
「薬を飲む前に、なにかおなかに入れた方がいいと思うから…すこしまっててね」
そう言って彼女は腰掛けていたベッドサイドの椅子から立ち上がり、寝室を出て行ってしまった。
けれど、一回だけ戻ってきて「ちゃんと寝ていること!」って念を押していったっけ。
寝室にひとりになった僕は、ただひたすらに心細い気持ちに見舞われて、まるで世界にたったひとり、とりのこされているような気分になった。
自分がこうしている間も、どんどん時間は過ぎていって、劇団のみんなも、彼女も、テレビ局の人たちも、どんどん進んでいってしまう。
自分なんかいなくても、世界は回っていく。
ふと、つい最近彼女と見たSF映画の、ぽつんと広い宇宙に投げ出された宇宙船のシーンが思い出された。
気持ちばかりが急いていくけど、高熱ゆえに頭はクラクラと熱い。
やり場のない孤独感と焦燥感に駆られて僕がうまく寝付けずにいると、寝室のドアが開いた。
「おまたせ、お粥作ったからこれ食べて薬飲もうね」
その声は、寒い冬の束の間のひだまりのように、僕の心をあったかくした。
「やっぱり、なかなか寝付けない?」
お盆をサイドテーブルに置いた彼女が、ぱっちりと目を開けている僕の顔を心配そうに覗き込んだ。
「なんだか…心細くて」
「そうだね、風邪で動けないときって不思議と心細くなるんだよね」
彼女はくすくす笑っている。
「…あなたもそう?」
「うん、きっとみんな同じじゃないかな」
「そっか…じゃあ今のこの気持ちは、ごく一般的なものなんですね」
安心しました、と僕がため息をつくと、彼女はやっぱりすこし可笑しそうに笑い続ける。
「ふふ。本当に夜ノ介くんは熱で寝込むの初めてなんだなあ」
僕は、熱が出ているのをいいことに彼女にお粥を食べさせてもらいながら――この心細さがごく普通のものならば、今日はちょっぴりわがままを言っても、彼女はすんなり受け入れてくれるのかもしれない、と胸の内で邪なことを考えていた。
ふうふう、とスプーンの上のお粥をさましながら、僕の口元にスプーンを運び続ける彼女を眺める。
最初は小っ恥ずかしかったけれど、慣れてみればなんのその。
僕は小鳥のように口を開いては、普段は大学にはばチャの編集部員にと忙しなく動き回っている彼女を独り占めできる喜びを噛み締めていた。
「あの、すこしわがままを言っても?」
食器を片付ける彼女のスカートの裾を掴み、呼び止める。
「?どうしたの」
彼女が不思議そうに首を傾げている。
「もしよければ、今日一日だけ、一緒にいてくれませんか。この部屋で」
僕は彼女のスカートを握ったまま、ありったけの思いを込めて彼女の瞳を見つめた。
一方、彼女は僕の言葉にぽかんと口を開けている。
「……めずらしい」
そっと呟かれた言葉には、僕も同感だった。
生まれてこのかた、僕は周囲が期待する人物像を求められるがままに「演じて」きた。
父も母も忙しくて、子どもらしく甘える方法を、実のところ僕はよく知らなかった。
もちろん、彼女との同棲生活だって同じだ。
だけど、本当はずっと探してた。何者でもない、演技を取り払った、ありのままの僕を愛してくれる人――彼女を。
彼女はくすぐったそうに微笑んで、
「わかった。今日は記事のお仕事、この部屋のデスクでするよ。それでいい?」
と言って、僕の前髪をくしゃりと撫でて額にキスをした。
僕はこくりとうなずいて、彼女がふたたびこの部屋に戻ってくるのを心待ちにしながら、鼻歌まじりにリビングに向かうのを見送った。