姿見に映る買ったばっかのトップスを合わせた自分を見て、ムダに「よしっ」と意気込んだあと、なんだかその必死さがおかしくて苦笑した。
週末はあのコと久々のデート。何食わぬ顔でOKしたけど、彼女からの誘いに俺の心は完全に舞い上がっていた。
ダーホンやカザマを含むいつものメンバーで出かけることが増えて、ふたりきりのデートは随分久しぶりな気がする。
みんなと出かけるのは確かに楽しい。でも最近は、気づけば彼女のことばかり目で追いかけている――まあ、それはアイツらだって同じか。
そんなこんなで、俺は正々堂々と抜け駆けデートできるその日を楽しみにしていた。
***
待ち合わせ場所に向かう道中。
眠れずに考え抜いたコーデの自分がちらりとショップのウィンドウに映り込んで、ああやっぱボトムスあっちの黒いのにしとけばよかったかな、とか余計なことが脳裏によぎる。
不安な気持ちのまま待ち合わせの駅前広場に着くと、そこにはもう彼女の姿があった。
「えっあんたいつから待ってた?まだ待ち合わせの時間前だよな?」
慌てて駆け寄れば、彼女は笑顔で首を振った。
「気にしないで。楽しみで早く着きすぎちゃっただけ」
学校の制服姿でもアルカードのウェイトレス姿でもない彼女は、いつもよりちょっとだけ大人びて見えた。
赤いチェックのコートに、俺が誕生日にプレゼントしたバングル。
今日の彼女は完璧だ。可愛くてセンスも良くて、俺好みで……なんていうか、もはや尊い。神様ありがとう。
俺が密やかに胸中で神様に感謝していることなんか知りもしない彼女は、無邪気に俺の腕を取った。
「いこ?映画、今からチケット買えばいい席とれるよね」
「…ん。季節限定フレーバーのポップコーン、どれにしようか」
他愛ない会話を交わしながらふたりで歩けば、2月の寒空なんて気にならないほど身体の中が温かくなる。
彼女の隣を独り占めできる喜びを噛み締めながら、そっと腕を取ってエスコートした。
***
「今日の映画、微妙だったね!」
映画館を出た後、彼女がさも可笑しくてたまらない、といった表情で言った。
それには俺も吹き出しそうになるのを堪えながら「終わりかた、わりと意味不明だったよな」と相槌を打つ。
今日観た映画はSNSでも評価が分かれる問題作として話題になっていたのだ。
「でも、隣に座ってたお姉さん、途中で嗚咽するほど泣いてたよ」
「その人にとってはサイコーの映画だったんだな」
その後も隣の彼女は楽しげに、「空からゾンビが降ってくるとこはちょっと面白かったな」とか「でもさ、最後主人公の努力が全部水の泡になったとこはなんで?って思っちゃった」などと素直な感想を話し続けている。
俺もそれらの意見には心底納得で、こんなささいな感覚すらも互いに共有できる喜びをじわじわと噛み締めていた。
彼女は明るくて趣味が良くて可愛くて、おまけにとても心根が優しいイイコだ。
そんな彼女と一緒にいるのが、俺はこんなにも好きだけど――彼女がどう思っているのかは、正直よくわからない。
昼食のために入った喫茶店でナポリタンを頬張る彼女を、俺は目の前に置かれた大好物のカルボナーラも余所にじっと見つめていた。
今日の彼女は、心底楽しそうだった。
でも、こういう笑顔はダーホンやカザマといる時だって見せているような気がする。
俺が本当に求めているのは、もっとこう……。
いや、別にヤマシイことをしたいワケじゃない。
つまり俺は、もっと甘い雰囲気のデートをして、彼女にとって自分が特別なんだって思いたいんだ。
たとえそれが自分のエゴでしかないと分かっていても、だ。
「ん?どしたの?」
視線に気づいた彼女が食事を中断し、顔を上げた。
俺は彼女の顔を見るなり吹き出した。
「はは、口の端にケチャップついてる」
「え!」
「ナプキン貸してみ。拭いてあげるから」
「かたじけないです…」
言われるがままにおとなしくしている彼女の気取らない笑顔に、さっきまで疑心暗鬼になっていたのがなんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。
やっぱり、彼女は今のままでいい。
自然体の笑顔を俺に向けてくれれば、それで。
だって俺が好きになったのは、そんな飾らない自然体の彼女なんだから。
自分が心の底からそう思えたことに安堵した。
食事を済ませて、「次どうする?」なんて会話をしていると、彼女は不意に神妙な面持ちで言った。
「あのね、今からちょっと行きたいところがあるんだけど…」
想定外の展開に、俺は少しだけたじろいだ。
こういうとき、彼女が行き先を提案してくるのはちょっと珍しいことだったからだ。
「すぐ、そこだから」
そういってどんどん歩みを進める彼女に連れ立っていけば、辿り着いたのは花屋アンネリーだった。
「…花屋?」
俺は事態がよく飲み込めず、頭上にクエスチョンマークを浮かべている。
すると彼女は朗らかな笑みのまま、歌うように店内の後ろ姿に呼びかけた。
「一紀くん!」
店内にいたのは同じはば学に通う1学年下の後輩、氷室くんだ。
「…なんだ、君か」
彼は無愛想な仏頂面のまま眼鏡をくいっと持ち上げたが、口角がほんの少し笑っているのを俺は見逃さなかった。
まったく、彼女はいろんなヤツから好かれているらしい。
俺はまたうっすら憂鬱な気分になりながら、彼女と氷室くんのやりとりを見ていた。
「頼んでたアレ、できてるかな?」
「うん。できてるよ、今持ってくるから」
氷室くんはバックヤードに走っていき、すぐに戻ってきた。
両手に真っ赤な大振りの花が束ねられたブーケを大事そうに抱えて。
「おまちどうさま」
氷室くんがブーケを彼女に手渡した。
俺は相変わらずワケがわからずポカンとしていた。
すると彼女は俺に向き直り、言った。
「実くん、この前の水曜日、お誕生日だったでしょ」
真っ赤なブーケを持った彼女が、瞳をキラキラさせている。
「うん、あんたにも祝ってもらった」
今年もらったプレゼントもやっぱりめちゃくちゃセンス良くて、その日はスキップしたい気持ちで家に帰った。
カザマからはアンティークのカップとソーサー、ダーホンからはオススメの本をもらったっけ。
目の前の彼女はモジモジとはにかみながら花束を俺に差し出した。
「あのね、えと…改めて、お誕生日おめでと」
「えっ……」
突然のことに言葉が出ない。戸惑いと嬉しさで頭がパニック状態だ。
彼女は顔を耳の先まで真っ赤にしながら、慌てたように言葉を重ねた。
「あああアルカードの店長が実くんにバースデープレゼントのお菓子を用意したから預かってくれって言われて…ど、どうせならわたしも何か用意したいなって思って…」
これが店長からのお菓子です、と紙袋に入ったお菓子の箱を俺の胸元に押し付ける。
彼女の声も手も震えていた。
その表情は、さっきの喫茶店で浮かべていた自然体の彼女っていうよりも、ちょっと必死で、まるで…。
――恋する乙女みたいだ、って思った。
俺の頭はいろんな感情が押し寄せて大渋滞を起こしていた。
学校でくれたプレゼントだけでも俺はすごく嬉しかったのに、とか、彼女に気を遣わせちゃったんじゃないか、とか。
だけどそんな考えよりもずっとずっと大きなキモチが、胸いっぱいに広がっていく。
「…すげー、嬉しくて、アタマがヘンになりそう…」
「よ、喜んでもらえて、よかったです」
彼女はぎこちない表情のまま「ちょっと、お母さんに頼まれてたテーブルフラワーみてくるね」とその場を足早に去っていってしまった。
そんな後ろ姿を見つめていると、いつの間にか隣に戻ってきていた氷室くんがぽつりと言った。
「『愛情の絆』『永遠の美』」
「…なんて?」
俺は氷室くんらしくない語彙のチョイスに慄いていると、彼は呆れた顔ではーっと大きなため息をついた。
「2月9日の誕生花、ストックの花言葉ですけど」
わざとらしく肩を落としながら、「あの人、恥ずかしがって絶対に自分からは言わないと思ったんで」と付け加えた。
俺は一見生意気そうな彼の気遣いが嬉しくて、思わず泣きそうになりながらじっと彼を見つめた。
「氷室くんって、実はめちゃくちゃイイコだよね。ちょっと照れ屋さんだけど」
「…っは?」
「アリガト、本当に」
氷室くんは顔を赤くして俺を睨むと「じゃ、レジがあるんで」とカウンターの奥に引っ込んでしまった。
彼女が小さなブーケを購入して店を出た頃には昼下がりになっていた。
ふたりとも片手に花を持っているのが珍しいらしく、道ゆく人が微笑み混じりに俺たちを見つめている。
「あのさ」
気恥ずかしいのか、黙ったままの彼女との間に流れる沈黙を破った。
「今からすこしだけ、海を見に行かない?」
俺の提案に、彼女は微笑みを浮かべた。
その様子に安堵して、さっきから頭の片隅にひらめいている小さなワガママをそっと彼女の耳元でつぶやいた。
「手、つないでいい? 海に着くまででいいからさ」
彼女はさっと顔を赤らめた。
そして無言のまま、おずおずと手を差し出す。
俺はその手を取って、ゆっくりと歩き出した。
「あんたが選んでくれたんでしょ、俺の誕生日の花」
「! …知ってたの?」
「あー…白状すると、氷室くんに、聞いた」
すると彼女は心底楽しそうに笑った。
「ふふ。一紀くんったら、おせっかい」
それで、さっきまで緊張やはずかしさでこわばっていた彼女の表情も少しずつ溶けていった。
「花言葉…愛情の絆、永遠の美だっけ」
「うん。実くんにぴったりの花言葉だよね」
彼女は少し眩しそうに俺の顔を見た。
「そ…かな? …ドウモ」
自分がこんな大袈裟な言葉が似合う人間には到底思えない。
腑に落ちないな、と視線を泳がせると彼女はまた可笑しそうにころころと笑う。
「風真くんや本多くんと4人でいるとき、実くんはいつもひとりひとりのことよく見て、気を配ってくれてるでしょ」
ほら、風真くんも本多くんも、ベクトルは違うけどたまに突っ走っちゃうときあるじゃない?と、彼女が悪戯っぽく目配せした。
俺は苦笑しつつ「まあ、確かにあいつらといるとウルサイ弟が2人できたような気分になるかな」と相槌を打った。
海へと続く長い道をゆっくりと歩いていたが、しだいに小さく海が見え始めた。
「実くんがいないと、ああして4人で仲良くなれることもなかったんだろうなって思う。実くんはとっても愛情深いひとだよ。きっと2人もそう思ってる」
海を眺めながら彼女が言った。
俺は――考えていた。
確かに4人でいるのは楽しい。カザマやダーホンのことも好きだ。けど、俺の愛情の向かうさきは、紛れもないあんただ――俺の愛情は、あんたといる心地よい空間を守るためのものなんだ。
あれこれ考えていた俺は百面相をしていたらしい。
気づけば彼女がすこし困ったように微笑んでいる。
「あー、ゴメン。何て言っていいか、ワカンナイ…」
俺が困って頭を掻けば、彼女は微笑んだまま「うん」と頷いた。
「4人でいると、俺がグループの調和をとる役っていうか…あいつらが暴走した時の兄貴役っていうか…そんな役割になることが多いけど――俺は本当はもっとあんたとこうして、ふたりきりで話したり会ったりしたいって思ってるよ」
俺の言葉を聞くなり、彼女は何も言わずそっと手を離して歩み出した。
ふたりで手を繋いで歩いた10分程度の短いパラダイスが余韻もなく幕を閉じ、俺の胸の内には言いようのない寂寞とした感情が溢れた。
海を見ている彼女が視線を逸らさずに言った。
「だからね、この花束は特別なの」
俺たちは長い海岸線が続く道に出ていた。
彼女がテトラポッドにピョンと飛び乗って俺の方を振り返る。
「赤いストックの花言葉には、もうひとつ意味があるんだよ」
俺は黙ったまま、彼女の背後の夕日に映し出される影の美しさに見惚れていた。
「『わたしを信じて』」
胸の内の寂しさを堪えながら、彼女の言葉に耳を傾ける。
「わたしを信じていてよ、実くん」
彼女の言葉を聞いたとき沸き上がったこの感情を、俺は一生忘れることはできないんだろうな。
「なにを、信じていればいい?」
今にも泣き出したいような気分で彼女に問い掛ければ、彼女はまた、タンと軽やかに地面に着地して俺の目の前に戻ってきた。
上目遣いで、じっと俺の顔を覗き込みながら、彼女はまた屈託のない表情で微笑んだ。
「わたしにとっても実くんが特別だってことを、信じていて」
俺はまた泣きそうになりながら「はは」と微笑んだ。
嬉しい。本当に嬉しかった。
だけどずるいよ、あんたは――こうしていつも俺をかき乱すんだから。
「じゃあもっかい手、繋いでよ」
「うん」
「あんたの家、着くまで――もう勝手に離さないで」
太陽が静かな水面の上にきらきらといくつもの光線を放っている。
薄水色の海と空。夕凪の静かな気配を感じながら、手をつなぐ俺たちは笑いあい帰路についた。