任務を終え、ふたりが家に着いたのは夜明け前だった。立香は温かいシャワーを浴びたあと、肌や髪の手入れもそこそこに、バスローブ姿のまま事切れるようにしてこんこんと深い眠りに落ちていった。
彼女がふたたび目を覚ました頃には陽が傾きかけていた。窓から蜜色の光が差し込む夕暮れ時の部屋に、なにやら甘い匂いが漂っているのに気がついて、泥のようにまどろんでいた意識が浮上する。彼女はよろよろとベッドから起き上がり、自室から出て匂いをたよりにキッチンへと歩き出した。
「おはよう、立香。ココア飲むかい?」
彼女の足音を聞きつけたホームズがキッチンから顔を覗かせた。
「……おはよ。うん、もらおうかな」
なみなみ注がれたココアの上に、こんもりとクリームとマシュマロが載ったマグを手渡され、立香はごくりと唾を飲み込んだ。そういえば帰りがけに簡単に食事を済ませたきり、何も口にしていなかった。寝起きで空腹はそこまで感じないものの、精神的にも肉体的にも疲れきっているせいか、目の前のこの歯が溶けそうなほど甘そうな飲み物をどうしようもなく身体が欲している。
「ありがとう。……いただきます」
行儀が悪いとは思いつつ、キッチンに立ったままココアを啜った。ひとくち口に含んだ途端、糖分が心地よく身体に染み渡った。
「わあ……美味しい!あまぁい……」
立香がココアに夢中になっているのをじっと見つめていたホームズだが、不意に「おや、唇の端にクリームが」と彼女の顎に恭しく手を添えた。
端正な顔がゆっくりと近づいてきて――立香がその長いまつ毛にドギマギしていると、ちろ、と覗いた赤い舌がクリームを舐めとった。
途端、寝起きのぼんやりした頭はすっかり冴えわたり、立香の心臓はバクバク不自然に高鳴る。
その艶かしいふれあいの余韻は離れた後も残り続け、つい意識してしまうたびに全身の血液が煮えるように熱い。
今回の任務を経て、彼との関係性は決定的に変わってしまった。
その事実を再認識し、気恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだ。立香は黙って、恥ずかし紛れにごくごくとココアを飲みつづける。
だが、壁にもたれかかったまま彼が投げかけている焦げつきそうな視線をこのまま見て見ぬ振りし続けるのは至難の業だった。
彼は濃いオリーブ色のバスローブを羽織って白い首筋を無防備にさらけだしている。冷静に考えてみれば、ふたりしてバスローブ姿のままキッチンに立つなんてこれまででは考えられないことだった。偽の婚約者同士という立場はあれど、どちらともなく色っぽいシチュエーションになることを無意識に避けていたのだ。こうなれば導火線に火がついてしまうことは明らかだったから。
「ねえ――いま、何を考えてるの?」
気まずい沈黙に耐えきれず、立香は声に出してしまった。それに対してホームズはちっとも悪びれたところもなくさらりと答えた。
「久しぶりに、君を抱きたいなと考えていた」
「ええ……」
予想以上にあけすけな返答に、思わず絶句してしまう。
彼は動揺を隠せず目を白黒させている立香のマグを奪って、カタン、とカウンターに置き、立香の腰に腕を回した。手つきは優しいが、振り解くことはできない強い力で引き寄せられ、彼女はまた逃げ場を失った。耳元にホームズの唇が近づいてきて、そっと低く囁いた。
「きみ、間違ってもぼく以外の男に許したりしていないだろうな」
そうっと、彼の手のひらが立香の下腹を撫ぜた。じんわり温かい彼の体温が布越しに伝わってきて、肌がゾクゾクと粟立った。少し怖くて後退りたかったが、彼の胸板は押し返したってびくともしない。
「ばか言わないで。他の誰かとそういう関係になる余裕なんて、これっぽっちもなかったんだから」
気恥ずかしく、思わずそんな突き放したような返事をしてしまう。
本当は――忘れられなかったのだ。目の前の、鋭い眼差しで呆然と立ち尽くす彼女を射抜いている、この長身の男のことを。
誰よりも頭脳明晰で、冷徹で、不器用で変人で、暗闇を彷徨うカルデアをしばしば光へ導いた、彼女にとって生涯忘れることはできないだろう強烈なイデオローグ――このシャーロック・ホームズという男に、彼女はずっと恋していた。叶わなくたって、もう二度と会えなくたって、それでもやっぱり好きだった。
このことを素直に彼に伝えてしまうことは簡単だった。だが、いざ言葉にしようとするとそら恐ろしくて声がつかえた。自分の彼への想いは、彼が望むようなさっぱりした美しいものではないことを彼女はわかっていた。愛しさも寂しさも嫉妬も憎らしさも、正体のわからない曖昧な感情さえ含んで肥大しすぎたこの気持ちを知ればきっと彼は困惑するはずだ。とどのつまり、自分が傷つくのが怖かった。
だが立香の百面相をじっと観察していたホームズは落ち着き払った態度で、微笑みすら浮かべていた。
「――そうだな。君の言葉を信じることにしよう。いずれにしたって……いまから念入りに君の身体を味わえばわかることだ」
***
ホームズが書斎兼、寝室として使っている部屋は、いつもかすかに煙草のしめっぽい匂いがした。シーツの上に散乱した本や書類を彼が無造作にサイドテーブルへ積み上げると、いまだ恥じらい惑っている立香をベッドの上にゆっくりと横たえた。
カルデアの無機質な彼女の部屋で、人目を偲んでは何度も抱き合った。が、こうして日常に溶け込んだ自室のベッドのまっさらなシーツのうえに、リコリスの花のような彼女の赤毛が広がり落ちるのを見たとき、彼の胸の内にはえもいわれぬ優越感がわきあがってきた。カルデアでの彼らの友情は特別なものだったに違いないが、それでも彼は彼女の数多いる有象無象のサーヴァントのひとりでしかなかった。
ホームズはさっさと立香のバスローブのリボンを解いてしまった。たった一枚の頼りない布すら取り払われて立香が頬を赤く染めるのを眺めながら、自らのバスローブも躊躇なく脱ぎ捨てる。
彼が立香に覆いかぶさって、ふたりは素肌のまま抱き合った。肌を合わせれば、吸い合うような柔らかな感覚の懐かしさに、先ほどまでふたりのあいだに流れていたどことなく他人行儀な気まずさは消え失せた。
クリスマスを翌日に控えたロンドンの街には先刻から雪が降り出していて、窓の外はごうごう風の強く吹く音がする。けれどホームズの体温が温かいせいか、立香自身の身体が火照っているせいか不思議と寒くはなかった。
熱く湿っぽい睦みあいのさなかで、ふいに立香が口を開いた。
「ねえ、いまだに信じられなくなる時があるの」
「何を?」
「あなたにまた会えたこと、あなたがわたしをパートナーに選んでくれたこと、……こうしてまた同じベッドに入っていること」
彼が想定した返答をすべて立香が口にしたのでホームズは笑った。
「そうか。だがすべて現実だ。それを君はどう思う?」
すると立香は困ったような、泣き出しそうな顔をして、両手で彼の頬を包んだ。
「すごくすごく、幸せ。……だけど本当は少し怖い。わたしがこんな形であなたのそばにいることが、いつかあなたにとって負担になるんじゃないかって」
彼はしばし、意表をつかれたようにすこし言葉を詰まらせた。なぜなら、すでに自分なりに言葉を尽くして彼女を口説いていたつもりだったのだ。しかしすぐさま考えを改めて、目の前のうら若き恋人が胸を痛めている不安を解き放ってやるべく、慎重に言葉を選び始めた。
「ぼくはずっと、ひとりで生きていくつもりだった。恋や愛のまえではどんな人間であれ少なからず愚かになる。ぼくは愚かになりたくなかったし、愚かな人間を道伴れにするくらいなら、ひとりで生きていったほうがいいと信じて疑わなかった。ぼくに無二の友人ができるまで。……ご存知の通り、ワトソン君だ」
「しかし我々は男同士、彼は結婚をして妻を得た。家族に比べて、友人関係というものは儚いものだ。その時ふと思ったんだ……無二の友人が生涯の伴侶なら、どれほどいいだろう、ってね」
ふと、立香は任務から帰還途中のヘリの中で彼が言ったことを思い出した。
『相棒に大切なものができてぼくの元から去るのは、君が思うよりずっと寂しいものでね』
ジョン・ワトソンと妻メアリーとの結婚が決まった時の彼の心情は、小説には綴られていない。しかしその裏にはきっと彼にしかわからない孤独があったのだろう。
「わたしはあなたにとっての無二の友人になれたかな」
あまりに眩しいワトソンとホームズの友情に並べられてしまうと自信がなくて、彼女はおずおずと尋ねた。ホームズは彼女の杞憂を笑い飛ばす。
「今さら何を言う。君とはありとあらゆる苦難をともにした。どんなに辛い時も肩を寄せ合って助け合ったじゃないか。――無論、君はぼくの大切な親友だよ」
ふたりは互いの頬に手を当てて顔を見合わせていたが、どちらともなく再び唇を合わせた。それは温かく、穏やかで、溶け合うような心地の良いキスだった。
キスの最中、次第に立香のお腹に触れている彼自身が硬く熱を帯びてくるのがわかった。それはかつて、幾度となく立香の胎のなかを蹂躙した――毎晩のように彼から与えられていた気が狂いそうななほどの快感を思い出して、身体が勝手に疼いてしまう。そのわずかな機微を見逃さない彼ではない。
彼はその長い指を彼女のじっとり湿っている入り口にあてがった。
「ふむ。狭いな」
指をゆっくり押し進めながら、彼はあくまで事務的に言った。
「あ……」
そこに男のひとを受け入れるのは随分久しぶりだった。懐かしい指の感触が、やはり彼にしかわからない良いところを掠めていく心地よさに、腰が勝手に浮いてしまう。彼は満足げに「君はどうやら本当にいい子にしていたようだ」と耳打ちしてきた。
その様子がとても得意げで、まんざらでもなさそうなのを見て彼女はひとこと物申したくなった。
「さっきは言いそびれちゃったけど……わたしの前から姿を消したのはあなたのほうなのに、自分以外の誰とも恋仲になるな、だなんてちょっと虫が良すぎるんじゃない?」
立香がぷく、と頬を膨らませると、彼は愉快そうに「ははは」と笑った。
「別に、君の自由な意向を妨げるつもりはこれっぽっちもなかったさ」
「ふうん……イギリスに来て以降は、わたしはあなたの偽の婚約者に仕立てあげられて、恋愛する自由なんてちっともなかったけど」
相変わらず不服そうな立香に、彼は急に生真面目な顔になって言った。
「当たり前だ。再会してからの話は別だろう。……君はもうマスターじゃないし、ぼくもサーヴァントじゃない。もう君を誰にも渡してなるものか」
ちょっとからかってみるつもりが、彼らしからぬ科白に立香は呆気に取られた。
彼はぐずぐずに溶けた彼女の中からずるりと指を引き抜いて、その指先を舐めとった。その一連の動作や彼女を見つめる視線に宿る眼光の鋭さはあの頃と何も変わらなかった。
気恥ずかしさとデジャヴのはざまで立香が身動きをとれないでいるうちに、彼はサイドテーブルの抽斗のなかから新品のコンドームの箱を取り出して、神経質な手つきで封を開けた。今の彼は英霊ではなく生身の人間なのだからとうぜん避妊は必要だ。その事実を改めて目の当たりにするとなぜだか妙に艶かしく感じられて、立香はごくりと唾を飲み込んだ。
コンドームの装着を済ませたホームズはペニスを彼女の秘部に当てがい、十分にほぐれていることを確認するなり、ズン、と深く穿った。
「んっ…………」
指よりも硬くて大きくて、圧迫感は比べ物にならない。しかし彼女の中はどうしようもなく彼を覚えていて、意外にも抵抗なくつるりとそれを受け止めた。
寂しく震えていた粘膜を充たされて、その心地よさに思わず嬌声をあげそうになる。一方で、立香を見下ろしている彼は昂っていたが、どこか沈んだ瞳をしたままつぶやいた。
「君のここが他の男のペニスを咥え込むなんて許さない」
その暗い声音に背筋がゾクゾクと粟立った。
彼の大きな手のひらが、ぎゅっと立香の下腹を押さえつけた。みちみちと彼をやっとのことで受け入れている身体が、悲鳴をあげてその快感を喜んでいる。
しかし彼はそれでも満足せず、立香の奥を的確に貫き、ぐりぐりと押し上げた。
「もちろん君の子宮に吐精するのも、だ」
「あ、だめ、だめ…………!」
立香のなかはその刺激に震え、あまい痙攣を繰り返している。ぽろりと溢れる涙を拭ってやりながらホームズはなおも彼女を責めたて続ける。
「ここはぼくだけの場所だろ」
彼は縋るように言って、立香の大切なところに甘えるように、舐るようにペニスを擦り付けた。息もできない強い快楽の前で、立香はろくに返事もできずにただ喘いでいることしかできない。
ホームズの様子は少しおかしかった。もしかして、くだらない自分のプライドが彼を自暴自棄にさせているのかもしれない――立香はようやく思い至った。それはすこし想定外の出来事だった。彼が自分のことで取り乱すなんて考えたこともなかったのだ。
「まっ……て」
そっと、彼女の手のひらが彼の胸板を押さえた。ホームズは彼女が静止の意思を示したので、額に汗を浮かべたまま動きを止め、眩しげに彼女を見た。
その視線は凪いだ海のように穏やかな愛情を感じるのに、直視すればやっぱり焦がされてしまいそうな熱があった。
「……忘れられなかった、の」
息をととのえ、やっとのことで立香は声を絞り出す。
「あなたがいなくなっても……もう会えないってわかっていても……あなたが好きだった。だからそんな顔しないで……」
その言葉にホームズははっと我にかえり、きまり悪そうに頭を掻いた。
「うむ。誰かを想うというのは実に厄介だ――こうなるのが嫌だったんだ」
眉間に皺を寄せ渋い顔のまま、どこか自嘲気味に彼は言った。
「君がカルデアで大勢の人々から慕われていたことを、つい思い出してしまってね」
立香はそんなホームズの乱れた髪をそっと撫で、瞳に涙を浮かべたままやさしく微笑んだ。
「ううん、意地を張っていたのはわたしのほう。自分の気持ちがあなたを困らせるじゃないかって、今でも時々、怖くなってしまうんだ」
「悪かった。……本当は君がぼくを好いてくれて嬉しいんだ、ありがとう」
彼は決まり悪そうに目を逸らしつつ、掠れた声で言った。
立香はうん、と頷きながら、彼の首に腕をまきつけて、ぎゅうっと抱きしめた。
***
ひどい筋肉痛で目が覚めた。眠っている彼を起こさないよう、上にのしかかっているその腕と脚をすこしずつずらして、抜け出すようにゆっくりと起き上がったのに、ベッドから降りる直前、腕を掴まれた。
「……どこへ行くんだ」
未だ意識を朦朧とさせたまま、眠そうに彼が言った。
「朝食の支度をしてくるよ。まだ眠いでしょ……もう少し寝てていいから」
甘やかすように言って彼のおでこにキスをすると、ホームズはなるほどそうか、というような表情のままふたたび眠りについた。
彼も決して朝寝をするタイプではないはずだが、流石に無理が祟ったのだろう――昨夜はまるで、熱病に浮かされたような夜だった。夕食を摂るのも忘れて、ふたりでサイドテーブルに置かれたマグのココアを分け合い、夜更けが来るまで絡み合っていた。ベッドに寝そべっていた自分とは違い、英霊の体力に慣れ切って、ずっと激しく動いていた彼は疲れ果てているだろう。
お互いに柄にもなく無我夢中だった昨夜の出来事を思い出して顔が熱くなる――が、立香はブンブンと首を振った。いや、そんなことよりこのひどい空腹をどうにかしなくては。きっと彼もお腹を空かせているに違いない。
今朝はしっかりと栄養のある食事を作ろう。彼女はそう意気込んで、簡単に身支度を整え、キッチンに立ってエプロンの紐をキュッと結んだ。
***
彼女が朝食を作り終えた頃、彼が起きてきた。休日の装いに着替えて、髪を撫で付け、すっかり目が覚めた様子の彼だが、その表情にはやはり疲れが滲んでいた。おはようの挨拶と頬への軽いキスを済ませて、ふたりは温かい湯気をたてる食事を囲んでテーブルについた。
ホームズは食卓に並べられたカトラリーを手に取り、食事を始めた。彼は空腹のままにフォークとナイフを無造作に操ったが、幼少期に叩き込まれたのであろう窮屈なテーブルマナーが染み付いたその所作は、粗雑さのなかにも隠しきれない品の良さが漂っているようだった。
しかし、冷静沈着な普段の顔を知る立香は、その荒っぽい手つきの端々から昨夜の出来事を思い出してしまい、気まずさをやり過ごすために視線を手元に置かれたモーニングプレートの中へと落とした。
「受肉して一番参ったのはこの食欲だよ」
彼は能天気に、プレートの上のトマトの切れ端をフォークで突き刺し、満足げな笑みを浮かべている。
「その点、サーヴァントだった頃はよかった。昨夜みたいに君とベッドに入れば自ずと魔力が供給されていたからね」
立香は彼の目の下の隈を気にしながらも、彼の様子が溌剌と元気なことにほっと胸を撫で下ろした。
「英霊だった頃とは違うんだから、体力の使い方も考えなくちゃ……昨日みたいに、溺れるみたいなのはもうよそう」
気恥ずかしさを振り切れぬまま、頬を赤らめて立香が言うと、テーブル越しに彼が手を握ってきた。
「そうかい?……ぼくはいっそ、これからも溺れてくれたらいいのにと思っているけど」
はっと驚いて、立香は俯いていた顔を上げる。彼らしくない科白だと思った。しかしそれを告げた彼の態度は落ち着き払っていて、いつもと変わらない理知的なまなざしが立香を捉えている。どういうこと?と首を傾げると、彼は続けた。
「君は人理を修復し、世界を取り戻したいまでも――平穏な暮らしの中に身を置くことに罪の意識を感じているだろう」
彼の放った思いがけない言葉に、立香はびくっと身体を硬直させた。自分でも直視しないよう、蓋をしてきた感情をピシャリと言い当てられて少し怖かった。そんな彼女の挙動を彼が見逃すはずもなく、ホームズはため息をつきながら煙草に火をつけた。
「君の心の中にある焦りに、ぼくが気が付かないとでも?」
立香はなんと言っていいか分からず、ゴク……と不自然に唾を飲み込んだ喉が鳴った。
「ぼくはずっとそれが気がかりだった。だから君を側においておきながら、肝心な時に君を危険に晒すことを恐れていくつも秘密を作ってしまった――任務のことや、ダ・ヴィンチのことだ」
「そ、れは……」
「君の渡英に関してもそうだ。当初、君はぼくからの招待だということを知らされていなかった。それなのに時計塔の招待を承諾し、縁もゆかりもない英国へ来ることを決断した。その理由をずっと考えていたんだが、今回の任務で確信した。君はやはり……」
ホームズは言い淀んだが、彼の思うところは言われずともわかっていた。これ以上隠すのは不可能だと悟り、彼女はゆっくり自分の気持ちを吐露し始めた。
「たしかに、ここへ来た理由は……シャーロックの考える通りだよ。わたしは、誰かが自分を運命の輪に引き戻してくれるのをずっと待ってた。この世界をとりもどした後も、やっぱり自分のしてきたことは何も変わらない。今でも毎晩夢に見る。この手が、救えたものの数よりもずっと多くの、救えなかったもの、踏み躙ってきたものの血にまみれているんだってこと、片時も忘れたことはない」
「立香……」
ホームズが肩を落とす。それを見て立香は、今の言葉が人理修復というおなじ目的のために戦った仲間に対して酷なものだということに思い当たり、首を振った。
「もちろん、自分のしてきたことを後悔してるわけじゃないよ。カルデアは最善を尽くしたと、心の底から思ってる。だけどたまに……どうしてかな……自分にできることが、わたしがやらなくちゃいけないことが、まだこの世のどこかにあるんじゃないかって思うと、身体が勝手に動いてしまうことがある。……でも、」
そう言って、テーブル越しに不安そうな視線を寄越す彼を真っ直ぐに見つめ返した。
「わたしはやっぱり……シャーロックといたい。たとえ離れていても、もう二度と会えないかもしれないってわかっていても……あなたの存在が、言葉が、ずっとわたしを勇気づけてくれたの。だからこれからも、あなたのそばにいたいんだ。そう思っていることは、忘れないで」
ホームズは神妙な面持ちで彼女の言葉に耳を傾けていたが、「うん」と頷いた。
「君がおてんばで無鉄砲なことは、よく分かっているつもりだ。そう簡単に変われないのも重々承知さ」
やれやれと諦めた風を装ってはいるが、彼女を見つめるその瞳はカルデアの管制室にいた頃と変わらず、慈愛と親しみに満ちていた。
彼らが言葉もなく互いに見つめあっていると――ガタガタガタ、と玄関から騒がしい物音が聞こえ始めた。
すぐさまその音はバタバタとメゾネット式の彼らの住まいの階段を上り始めた。ホームズは足音の主にすぐ合点がいった様子で「そろそろ来る頃だと思った」とひとりごちた。
「メリークリスマス、アルタモント先生、リツカ。ホリデーも仕事だった可哀想なあなたがたに、七面鳥とプティングを持ってきてあげたわよ」
一階に住んでいる大家のミセス・エバンズだ。彼女はリビングの扉を開けるなり大きな包みを掲げて言った。
「わぁ……すごいご馳走!エバンズさん、ありがとう!」
食べ物に釣られて無邪気に喜んでいる立香の手前、また無断で玄関の鍵を開け、リビングに上がり込んでくる隣人への不満を飲み込んでホームズは苦笑した。
「さあさ、今晩はうちの孫たちも遊びに来て大忙しなのよ!いまから急いで部屋の飾り付けと、残りのご馳走の用意をしなくちゃね」
やけに張り切った様子のミセス・エバンズに嫌な予感がしてホームズが口を開いた。
「今日はクリスマス当日だが――いったい、あなたはいまさら何を飾りつける必要があるんです」
確かにホームズの言う通り、一階のエバンズ家は一ヶ月以上も前から、玄関も居間も庭さえも、クリスマスを待ち侘びるようにキラキラと賑やかなオーナメントや電飾が飾り付けてあった。不思議に思って立香も首を傾げる。するとエバンズさんは「何を言ってるんだ」とばかりに呆れた様子できっぱりと言ってのけた。
「この部屋に決まっているでしょう?あなたたち、こんな寂しい部屋でクリスマスを過ごすつもり?」
その発言に、ふたりはぎょっとして顔を見合わせた。しかし互いに驚きのあまり(ホームズは呆れて)声が出ない。
「わたしとうちのひとでしょ。娘夫婦に、孫三人、そして心配なうちの隣人ふたり。ご近所のエヴァとマイケルも呼んであげなくちゃ……。と言うわけで、全員入るにはうちのリビングじゃ物が多くて手狭なのよ。だから今夜はこの部屋を使わせてもらうわよ」
「いや待て、この家でパーティをする許可を出した覚えはないが……」
しかしホームズの言葉はミセス・エバンズには届いていない。
「先生ったら、せっかくこんなに可愛らしいお嫁さんをもらうっていうのに、部屋も殺風景で、ご馳走もなし、こんな味気ないクリスマスを過ごさせるつもり?ああ、可哀想なリツカ……」
正直なところ、日本人の立香にはクリスマスへの思い入れはそこまで深くないのだが、ミセス・エバンズの哀れみの視線が痛い。一方で、さっきから明らかに不機嫌そうに無言になっているホームズのことも気になる。ふたりの板挟みになって立香はしばし狼狽えていた。
「うーん……ええっと……ええっと……」
だが美味しそうな焼きたての七面鳥の匂いには抗えず「でもやっぱり、ご馳走は食べたいかも……」と彼女がぼそりとつぶやいたので、エバンズさんは勝ち誇った顔で「決まりね」とホームズのほうへ向き直った。
「先生、ヴァイオリン演奏の準備をよろしくお願いしますね。それじゃ、追加の料理ができたらまた来るわね」
歌うように言って彼女はさっさと行ってしまった。
彼女が家から出ていくのを確認するなり、ホームズはどかっとソファに腰掛けた。
「まったくやれやれ、ハリケーンのような女性だよ、彼女は」
朝食を食べて元気を取り戻したはずの彼の顔に、また深く疲労が滲んでいるのに気がついて、立香は慌てて謝った。
「ごめん……ご馳走の魅力に抗えず、つい……」
申し訳なさのあまり縮こまっている立香にホームズが微笑みかけた。
「いいんだ。準備を怠ったこちらの落ち度もある。何より君は、大勢でクリスマスを祝うのは嫌いじゃないだろう」
彼の言う通り、カルデアにいた頃はクリスマスの時期になると毎年のようにトンチキな事件に巻き込まれていた。ゆっくり過ごすクリスマスもいいけれど、大勢でわいわい過ごすのも好きだ。もちろん、彼とふたりで過ごすクリスマスも楽しみではあったが、このところ忙しくて準備どころではなかったので、今日はありがたくエバンズさんのご厚意に預かろう。
「うん、ありがとう、シャーロック」
ふたりが暮らす部屋の窓辺に、しんしんと雪が降り積もる。彼らのホワイトクリスマスの幕開けは慌ただしくもあったが、確かに幸福だった。こんなクリスマスがこれからもずっと続けばいい――そう願いながら、ホームズは準備に勤しむ立香の後ろ姿を眺めていた。