時計塔のヴィクター・アルタモント講師 第2章:寒村の任務

「今度の週末だが、君に仕事を手伝ってもらいたいんだ」

ある日のこと、立香が夕食の支度をしていると、帰宅したばかりのホームズがキッチンのドアを開けて開口一番にそう言った。
「休日出勤なんて、めずらしいね」
「いや、依頼人は時計塔だが内容は講師でも教務でもない。なに、ちょっとしたアルバイトみたいなものさ……裏家業、という言い方の方が正しいかもしれないが」
ホームズのまわりくどい話し方に嫌な予感がして、立香は眉を顰めた。
「わたしがロンドンに来て数ヶ月、裏家業なんてしてるそぶりなかったけど」
「そりゃそうさ。遠い異国から婚約者が来ると言って数ヶ月のあいだ免除してもらってたんだ。休日を休日として過ごせるのは久しぶりだったから有意義だったよ。片付けなければならない仕事にも手をつけられたし。だがいよいよそうも言っていられなくなったらしい」
「つまり……時計塔のお偉いさん方が対処しきれずシャーロック・ホームズに泣きすがってくるような面倒な事件ってこと?」
間髪入れずに立香が口を挟んだその顔があまりに憂鬱そうなのでホームズは思わず吹き出してしまいそうになった。
「君はそんな擦れた物言いをするレディではなかったはずだが……誰に似たのかな?」
「はぐらかさないで」
有無を言わせぬ立香に、ホームズは悪かったと肩をすくめるジェスチャーをして話を脱線させることを諦めた。
「元サーヴァントであるぼくが今の職や生活を手に入れる上でいくつか取引をした名残さ。君が来るまで、時計塔で教鞭をとる傍ら依頼を受け、世界各地で捜査が難航している事件を解決して回っていた。いい退屈しのぎにはなったよ」
説明を受けてもなお立香は戸惑いを隠せないようだった。安心させるようにホームズがぽんと彼女の肩に手を置いた。
「大丈夫だ。心配ないよ。大抵は解決に一日と要さないつまらない事件ばかりだ」
ホームズは服を着替えてくるよと言い残し、鼻歌混じりにキッチンを後にした。立香は薄暗い廊下に消えていく彼の背中を見送りながら、またわけもなく不安な気持ちに駆られたのだった。

***

その日から、講師ヴィクター・アルタモントのティーチングアシスタントだけでなく、彼の「裏稼業」を手伝う日々が始まった。

パリ、テキサス、シチリア、ミンスク、カサブランカ。短い週末を使ってさまざまな国に赴いたが、立香が担当するのは情報収集やほんのわずかな捜査の手伝いばかりで、肝心の事件現場に立ち入らせてもらえることはほとんどなかった。
そんなことで本当に役に立てているのか、とホームズに問うたことは何度かあるが、その度に彼はきまって「勿論。本当に信頼のおける人間がひとりいるだけでまったく違うものだよ。地元の協力なんてものは大抵、なんの役にも立たないか、偏見に囚われているかだ。君が心配する必要は何もない」と微笑むばかりだ。

これからもこんなふうに、形ばかりの助手として過ごすのだろうか――と立香が釈然としないまま過ごすうち、その事件は起こった。

それは年の暮れの、ひどく寒さが厳しい日のことだった。彼らはホリデーに浮かれるロンドンの街を後にして、遠い異国の地へと赴いた。
ふたりが訪れたスウェーデンの山村は、飛行機から鉄道に乗り継ぎ、さらに最寄駅から運転手が三時間かけて迎えに来るほど辺鄙な場所であったうえに、深い雪に閉ざされていた。

時計塔の寄越した依頼書には、村では毎年雪の時期に不定期に行方不明者が出ることや、時計塔から派遣した他の使者たちがみな消息を絶ったこと、この閉鎖的な環境もあいまって、なんらかの魔術犯罪の関与があるとみられることなどが淡々と綴られていた。
しかし、村に着いてみれば思いのほかその暮らしぶりが豊かであることに立香は驚いた。てっきり、もっと薄暗くて陰気な限界集落のような場所だと思っていたからだ。

村には五十世帯あまりの可愛らしい家々が点在し、村の中心部にははさやかな店や集会所の立ち並ぶ美しい広場があった。村の生活には昔からの伝統を重んじた古めかしい慣習が色濃く残っていたが、電気やガス、水道などのインフラも完備されている。小綺麗に着飾った住民たちは、時計塔の使者である身分を隠して、民俗学の調査にやってきた大学教授と助手というふたりの偽りの肩書きを少しも疑わず、村では珍しい来客を手厚く歓迎した。

立香は食卓に所狭しと並べられた温かい歓迎のご馳走を前にして、ホームズにこっそりと耳打ちした。
「想像がつかないよ。こんな豊かで平和そうな村で事件なんて」
一方で、ホームズはどこか浮かない顔つきで、あの鋭い鷹のようなまなざしを村の人々に投げかけていた。

***

小さな山村ゆえにホテルなどの宿泊施設は当然なかったので、ふたりの滞在中の拠点として村長が私有している建物のひとつがあてがわれた。
ホームズはもっぱら早朝から夜中まで捜査にかかりきりで、立香はときおり同行させてもらえたが、案の定、寒さの厳しい気候を理由に昼過ぎには部屋に戻されてとりとめのない雑用をこなすこととなった。

彼は吹雪の夜すら深夜まで村中を彷徨い歩き、ほとんど部屋に帰ってこなかった。翌日の昼過ぎになっても顔を出さないことすらあったので、夜更けに静かに戸口を開ける音を聞くと立香はひとりホッと胸を撫で下ろした。けれども早朝には部屋を出て行ってしまうので、彼女が目覚めたときすでに彼の姿はない。

そんな日々が数日続いた頃、立香は痺れを切らして彼がベッドに入るかすかな衣擦れの音に目を覚まし、声をかけてみることにした。
「ねえ、こんな遅くまで毎日何をしているの?ちゃんと食事は摂ってるの?」
「毎晩起こしてしまってすまないね。うん、そろそろ聞かれる頃だと思ってたよ」
「わたしが起きてること、気づいてたの?」
彼は立香のベッドの隅に浅く腰掛け、ふっと微笑んだ。
「君は寝たふりをしているとまつ毛が動くんだ。実にわかりやすい」
「わかってたなら声くらいかけてくれたっていいのに」
「もう夜遅い。明日もあるだろう、睡眠をよくとりたまえ」
のらりくらりと掴みどころのないホームズの言葉に立香がため息をつくと、彼はそっと彼女に覆い被さり、その頬に口づけた。
「おやすみ、立香。良い夢を」
ホームズが彼女にキスをくれたのは、この時代で再会してから初めてのことだった。懐かしい唇の感触に、立香は咄嗟に口走る。
「……唇には、してくれないの?」
すると彼はちょっと困った笑みを浮かべて、彼女の手を取った。
「僕は腐っても紳士だからね。レディの唇に気安く触れるなど言語道断だよ」
今夜はこれで許してくれ、と手の甲に彼が恭しく口づけた。

唇が肌に触れる感触に鼓動を早める立香だが、一方でその頭の片隅ではどこか冷静に、ホームズの揺れる髪や肌の匂いに、普段の彼とは異なる――かつて彼女が戦場で幾度となく感じてきた――血や死んだ生き物の匂いがかすかに漂ったのに気がついて、密かに彼がしていること、そして自分には秘匿している事件の危うさに思いを馳せてきた。

***

翌朝、ホームズはいつもと変わらず早朝に支度を終えて部屋を出た。彼が出ていくのを確認するなり立香もベッドからいそいそと起き上がってキッチンに立つ。
今日という今日こそは、ホームズがひとりで何をしているのかを突き止めるつもりだ。
でもそのまえに、きっと寝食を忘れて事件に夢中になっている彼になにか栄養のあるものを食べさせてやらなければ。
立香は意気込んで、村では貴重な生野菜と塩蔵肉、チーズでサンドイッチを作り、昨夜のうちに鍋いっぱいに拵えておいた温かい豆のスープを持ち運び用のジャーに入れた。温かい紅茶やクッキーなどもつぎつぎにランチボックスにしまいこむ。

続いて彼女は身支度に取り掛かった。部屋着を脱いで、極寒地用の魔術礼装に着替えて髪を整え、簡単な野外活動用の装備を身につけて、帽子を被った。この寒村の冬の日照時間は六時間ほどしかなく、昼過ぎには陽が傾いてしまうので、しっかり着こまなければ彼の足跡を辿るより先に寒さに音を上げてしまうだろう。

いつもの起床時刻より何時間も早起きをしたので、彼女が部屋から出たとき、外はまだ真夜中のように暗かった。
普段は陽が出てから外出していたせいか、立香はあまりの寒さに身震いした――ああ、一刻も早くここでの任務を終えて、ホームズとロンドンの部屋にある温かい暖炉にあたりたいものだ。

と、そんなことを考えながら隣の民家の角を差し掛かったとき、彼女は強い違和感を捉えて立ち止まった。

――魔力だ。
近い。しかも、かなり強い。この村に滞在して数日間、今までこんな露骨すぎるほどの気配を感じたことはなかった。魔力感知が得意でない立香ですら、身の毛がよだつほどの禍々しい気配が近づいてくる。

ふと彼女が魔力の根源を感じ近くの木立に視線を向ければ、そこには首を切られた若い女の死体が不気味な笑みを浮かべて立香を見ていた。

その光景を目の当たりにした瞬間、立香の胸に、命のやりとりをするあのヒヤリとした恐怖と、かつて戦場に赴いていた頃の記憶がまざまざと蘇った。
当然、アンデッドを見たのもこれが初めてではなかったし、こうして遭遇してしまうこともかつては日常茶飯事だったのだ。だが今の彼女は丸腰で、カルデアにいた頃のように簡易召喚すら使うことはできない。魔術礼装を着ていたのが不幸中の幸いだ。

アンデッドはだらだらとよだれを垂らしたまま、唸り声をあげて立香に襲いかかってきた。彼女は自身の胸に湧いた恐怖をねじ伏せて、思考を研ぎ澄ませ、アンデッドの急所にむけて的確に魔力を圧縮し、攻撃を打ち込んだ。

死に物狂いの応戦の甲斐あって、なんとかアンデッドを木の幹に縛り付け、猿ぐつわを噛ませることができた。
木に縛りつけられたアンデッドが縄を解こうと忙しなく蠢き、不気味な呻き声をあげるのを前にして、しばし立香は呆然とした。誰かの死に触れる悲しみも、生死と隣り合わせになる恐怖を感じたのも、ずいぶん久しぶりの感覚だった。
アンデッドになってしまったからには再びこの少女は始末されなければならない。カルデアのバックアップすら失った今の彼女では、それ以外に打てる策が何もない。

立香が己の無力に打ちひしがれていると、不意にアンデッドの身体からグルルルル、と音がして、この少女の死体がひどく腹を空かせていることに気がついた。痛々しくてみていられなかったその肢体を改めて観察してみる。飛び出した眼球と、肋の浮いた腹、骨ばった手足……。かつて人間であったはずの少女の見るも哀れな姿に立香は泣き出してしまいそうになった。

アンデッドが人間の食事を摂らないことはわかっていた。だが、こんな形で人としての尊厳を踏み躙られ、空腹に苦しみ喘いだこの少女を、このままとどめを刺さして殺してしまうのはあまりに不憫でならない。
立香は悩んだ末、おもむろにランチボックスを開けてスープジャーを取り出した。少女が求めているのはきっとこんなものではないし、気休めにしかならないのはわかっているが、彼女を苦しめている乾きをほんの少し癒すくらいはできるかもしれない。彼女は慎重に少女の猿ぐつわを外し、スプーンで唇の端からゆっくりと温かいスープを注いでやる。

するとどうだろう。耳を塞ぎたいほど悲痛な叫び声を上げ、拘束から抜け出そうと激しく身を捩らせて暴れていたアンデッドが、不意に動きを止めた。
不思議に思った立香がその顔を覗き込むと、焦点の合わなかった少女の視線にいくばくかの光が宿ったかに見えた。
「君、わたしがわかる?」
慌てて立香は問いかけると、少女は立香を認識できているのかいないのか、虚空を仰いだままうわごとのように告げた。
「わたしの他にもうふたり逃げ出したの。どうかわたしを殺して、そして彼らを探して。お願い、あなたにしか頼めない」
そう言った瞳からはらはらと涙が溢れた。

しかしそれ以降、立香がどれだけ呼びかけようと、再び彼女と意思の疎通を図ることはできなかった。

「ごめんなさい、助けられなくて」
立香はかつて教えられた手順通りにアンデッドを葬り、その死体が獣に狙われないように、未だ夜が明けず閑散とした村の広場まで運んでやることにした。
こんな状況には慣れっこのはずだった。だけど目の前で助けを求めている誰かを死なせてしまう虚しさは何度経験したって堪えるものだ。

広場の中心にある小さな公会堂の石の階段に横たえられた少女の死体を見ている立香の表情には翳りがさしていた。
だが彼女はパチンと両手で頬をたたき、気丈にも自分を奮い立たせるのだった。

「――残りの二人を探さなくちゃ」

そう言い残して彼女は、もといた木立のなかへと姿を消した。

***

立香が三人目を仕留めて村に戻ったころにはすっかり陽がのぼっていた。しかし空は厚い雲に覆われて薄暗く、雪のせいか広場には誰もいなかった。あたりはしんと静まりかえっていて、なんだか気味が悪い。おまけに、階段に横たえていた二体の死体が消えている。それを訝しんで立香が公会堂の扉に手をかけると、「パァン!」と中から銃声が響いた。
驚いた立香が中に入ると、室内はむせかえるような血の匂いが充満していた。美しかった公会堂の絨毯には血痕やアンデッドの肉片が散らばり、床には以前はなかった地下通路へ続く階段が顕になっていた。
その光景を見た瞬間、何よりも先にホームズのことが頭をよぎった。ざわざわと胸騒ぎがする。本当ならここで戻って助けを呼ぶべきだったかもしれないが、いても立ってもいられずに、気がつけば立香は階段を駆け降りていた。

「シャーロック!!どこなの?」

彼の偽名を使うことすら忘れ、無我夢中で彼に呼びかけながら地下の長い廊下を駆ける。バタバタと廊下に連なる幾つものドアを開けて中を確認するが彼の姿はない。
すると、床に散らばった試験管の転がる音やガラスの砕ける音に紛れて、また二、三発の銃声が響いた。

立香は一心不乱に、音のする方へと駆け出した。廊下の突き当たりの重たい鉄のドアを半ば蹴破るようにして押入ると、そこにはアンデッドのものと思われる血塗れの腐乱死体が転がり、幾人かの見知った人たちが床に臥していた。その部屋の一番奥に――追い込まれたのだろうか――負傷し、壁に寄りかかる彼の姿があった。部屋の中で意識を保っているのは彼だけらしい。立香は何よりも先にホームズの無事を確認した。

「シャーロック!……怪我してるの?」
するとホームズは疲れ切った表情のまま彼女の方を見上げてほっと息をついたが、戦闘で負傷した彼女の腕をめざとく見つけて眉を顰めた。
「……君か。その様子だと、逃したアンデッドは君が仕留めたようだな。暗いうちは外に出るなとあれほど言っておいたのに、まったく……」
だが立香はホームズが無事だとわかるやいなや、彼のお小言を受け流してこの悲惨な状況の説明を求めた。
「ねえ、そこに倒れてるの……村長、さんだよね……?それにどうして、こんなにたくさんのアンデッドが……一体、何があったの」
彼は無造作にコートのポケットから葉巻とジッポライターを取り出して火をつけ、この臆病で卑怯な男は気を失っているだけさ、と吐き捨てるように言った。
「どうもこうも、これこそが今回我々が呼び出された理由だよ。この村はもともと、特にこれといった産業もなく肥沃な土地にも恵まれない、貧しい村だった。だから越冬のためにしばしば人間を間引いていた」
「ま、びく、って……」
立香は思わず口元を覆う。
「そう、儀式だとか生贄だとか理由をつけて、村の人間が村の人間を恣意的に殺してきた。大抵は子どもを産めない女性か、働けなくなった高齢者、身体が不自由な者、精神の病を患う者、養えない家に生まれた赤ん坊なんかをね。そしてその悪習に目をつけた魔術師によって、この村は数十年にもわたって人間の肉体や魂を使った禁術の、格好の実験場にされてしまった」
彼はクイッと顎を上げて、あれが今回の事件の首謀者だ、と死体を指し示した。そこには脳天をぶち抜かれている男が血を流して倒れていた。
「この村にある電気も水も、暖かい暖炉も食事も、村民の犠牲と引き換えにこの魔術師によってもたらされたものだ。その恩恵にあやかった村の長たちが事実を秘匿しつづけてきたのも理解に難くない。彼らは甘い蜜に蝕まれていたんだよ。捜査に赴いたこちらの人間が誰ひとり戻らなかった理由にも合点がいく。この実験室に倒れているアンデッドは皆、人体実験の餌食になった時計塔からの使者だよ」
そこまで語ると、ホームズはふう、と長く煙を吐いた。
「醜悪なうえに、実につまらない事件だ。しつこい吹雪とこの部屋にたどり着くまでの結界の解除に手間取って捜査が難航したこと、そして相手が好戦的すぎて反撃してしまったのが計算外だが……」
じつのところ、魔術や戦闘は門外漢でね、とホームズが頭を掻いてさっきから黙りこくっている立香の顔を見上げる。
すると彼は驚き――絶句した。

なぜなら、彼女が涙を堰き止めきれずに真っ赤な頬を濡らして、恨めしそうに彼を睨んでいたからだ。

「立香、どうして君は泣いているんだ」
確かに後味の悪い事件ではあったが……と、頭から血を流したまま彼が不思議そうに首を傾げているので、立香は悲しみを通り越して行き場のない怒りを覚えた。
「あなたはどんな謎も解き明かすことができるんでしょ。それなのに、どうしてこんな肝心なことはわかってくれないの」
やっとのことで絞り出した声は震えている。それでもやっぱり彼には立香の言いたいことが腑に落ちないようだった。
これほどまでに人間を理解していながら、他者から愛されることに関してはとんと無頓着なところにこの男の孤独を垣間見て、わけもない寂しさが押し寄せる。
だがいくら立香が察しろと言ってわかる相手ではないのだろう。彼女は意地を張るのをすっかり諦めて、ため息をついた。
「ホームズ。ずっとひとりでこんなことを続けていたの?」
「――ああ。安楽椅子探偵も悪くないが、こうしてさまざまな場所へ赴いて魔術を取り巻く事件を解決して回るというのも退屈凌ぎにはいい。ぼくにはおあつらえむきの仕事だよ」
彼の科白にはちっとも悲壮な響きはなかった。むしろその声音が朗々と楽しそうですらあることに立香はまた悲しくなった。
「…………だけど、いくらシャーロック・ホームズが天才だからって、あなたが元英霊だからって……こんなの見過ごせない。だってあなたはもう、生身の身体の、れっきとした、ひとりの人間なんだ」
立香がホームズを真っ直ぐに見つめるその瞳には強い光が宿っていた。彼女の心は、ただ彼へと猛々しく燃えていた。その炎は彼が水を浴びせかけても決して消えやしないだろうことはわかりきっていたので、ホームズは観念して、温かくもむず痒いその言葉に黙って耳を傾けている。
「あなたがひとりでこんな危険な仕事をこなしてきたことも、わたしの知らないところで怪我をしていることも、わたしを勝手に婚約者なんかに仕立てたくせに本当のことを何ひとつ教えてくれなかったも――こんなにそばにいたのに、それを知らずに呑気に過ごしていた自分にも、何もかもぜんぶ、腹が立ってしょうがない。どうしてこの気持ちを、わかってくれないの。あなたのそばで生きることを選んだわたしに、どうしてなにも話してくれなかったの」
彼女の問いかけにホームズは一瞬、目を逸らした。が、彼としてもこのまま本心をはぐらかし続けて立香の疑念を膨らませるのは本意ではなかった。
彼はやれやれと肩をすくめ、ほんのすこし気恥ずかしさを滲ませながら語り始めた。

「――我ながら、愚かなことをしたと思っているよ」
ぽつりと彼がつぶやいた、まるで罪を贖うようなこの独白は、立香にとっても思いがけないものだった。彼は滔々と話し続けた。
「いま、この瞬間も世界が存在しているのは――ひとえに君がかつて命を賭して死地を駆け抜けた結果だ。君はこの平穏な生活を取り戻すために何もかもを犠牲にしてきた。その尊い結末をぼくは守るべきだった。もしひとたび君と再会すれば、ぼくはまた君を闘争の渦中へと引き戻してしまうだろうこともわかりきっていた。それなのにぼくは――君をあきらめられなかった」
そういって彼が力なく微笑んだ。あれほど知りたかったはずの彼の心情だが、いざ知ってみるとどんな言葉を返せばいいやらわからず立香は口ごもってしまった。
「そのくせ、君にすべてを打ち明けることをぼくはいつまでも渋っていた。君を巻き込む覚悟がつかなかったんだ。だから君が抱いた悲しみも怒りも、すべてぼくのせいだ。罵ってくれたっていい」
彼が語ったのはまるで懺悔だった。しかしホームズの思惑とは異なり、彼の言葉は立香にとってはまったく別の意味を持っていた。

これまで自分が彼にとってどういう存在なのか、彼の考えていることがわからず苦しくてたまらなかった。いましがた彼が語った後悔は、同時に彼女の求めていた答えでもあった。
彼女は彼を苦しめている誤解を解きたかった。
彼が自分を探し出し、そばに置いてくれたことがどんなに嬉しかったか。そして、自分がどれほど彼との日々を大切に思っているか。言葉にしたいが、うまくまとまらなくて彼女はもっと手っ取り早い方法を取ることにした。

立香はホームズの目の前にしゃがみ込むと、そっと彼のシャツの襟に手を伸ばした。そのままおずおずと顔を近づけ、彼の瞼にぎこちないキスを落とした。
その瞬間、ホームズがはっと驚き息を呑むのがわかった。それに気がついて立香は無性に恥ずかしくなり、すぐに唇を離そうとした――が、ホームズは逃すまいと腕をまわして立香の腰をがっしりと掴んだ。

彼に捉えられた瞬間、立香はその瞳がギラリと光ったのを見た。すぐさま強い力で引き寄せられ、噛みつかれるように深く口づけられた。それは、触れ合えなかった長い歳月を埋めるような、深く、切実で、貪るようなキスだった。
ホームズは立香をきつく抱きしめながら、キスの狭間に――悪夢にうなされている時の譫言のように繰り返した。
「幸せにできないかもしれない」
「うまく愛せないかもしれない」
その声音は、いつも自信に満ち溢れている彼からは想像もつかない弱々しさだった。やはりこれも懺悔なのかもしれないと立香は思った。
そんなことはないよ、と言い返したかったけれど、彼が気休めの言葉を求めていないことも明らかだった。
「……わかってる」
立香が優しく微笑むと、ホームズはいじけた子どものような顔のまま念押した。
「だけどこれからも、立香にはぼくのことだけを想っていてほしい。そばにいて欲しいんだ」
別の誰かが相手なら怒り出してもおかしくない、不恰好極まりない愛の言葉だが、彼が他人の人生を縛り付けるようなことを口にすることがどれだけ珍しいかは立香には痛いほどわかっていた。
どうしようもなく、立香には彼の言葉が嬉しくてたまらないのだった。
「その言葉を聞けてよかった」
そう言って花のように微笑んだ彼女を、ホームズはしばらく決まり悪そうに見つめていた。

が、なにやら外が騒がしいのに気がつくなり気を取り直して抱きしめていた彼女を解放した。
「……さあ、兎にも角にもはやくここから出よう。もうすぐ応援が来るはずだ」
彼がフラフラと立ち上がる。咄嗟に立香は彼の脇下に回り込んで肩を貸した。ホームズは体格の小さな立香に身体を預けることに渋い顔をした。
「君も負傷しているだろう。本来ならぼくが君を運んでやりたいところだが……」
「気にしなくていいの。お姫様扱いされるほどわたしは弱くないし、こうやって肩を貸しあって歩くのが、いちばんわたしたちらしいよ」
毅然とした立香の言葉に、ホームズは「そうだったな」と微笑んだ。

肩を寄せ合い、一歩一歩を踏み締めてふたりは歩き出した。
村はすでに魔術協会に占拠され、広場に止まったヘリの前で、救護班が負傷したふたりを待ち受けている。ホームズはその光景を目にしてようやく安堵したようだったが、相変わらずどこか浮かない顔をしているのを立香は見逃さなかった。協会に保護される直前、不意に彼は心境を吐露した。

「こうして悪夢の元凶は絶たれた――が、もとは貧しい山村だ。魔術師からの援助がなくなり、これまで通りの豊かな暮らしはできなくなるだろう。これからも変わらず冬は厳しい。越冬するにはそれなりの蓄えが必要だ。資源も土壌も乏しいこの村にとって正しいことをしてやれたのか……正直なところ、わからないんだ」
彼の懸念はもっともだった。
しかし、立香にはゆるぎない哲学があった。人理修復という途方もない旅路で、打ちひしがれた心を何度も強くあらんと駆り立てたそれは、いまもなお変わらず彼女の中枢にあり続けている。立香は彼の不安にきっぱりと答えた。
「それでも、明日を生きるはずの誰かが、別の誰かの利益のために理不尽に未来を奪われることはあってはいけない。なんの罪もない人が、人としての尊厳を傷つけられ、空腹に喘ぎ、怪物として殺されるなんて間違ってる。わたしにとっては、それがなにより重要なんだ」

ホームズはしばし、ぱちくりと目を見開いて彼女の顔を凝視したまま沈黙した。
相変わらず、どこまでも不完全で不器用な善性。問題に塗れた、青臭くて泥臭い彼女の美学。
久しぶりに目の当たりにしたそれは、カルデアの管制室から彼女の苦悩と葛藤を見守っていた頃よりもずっと眩しく、力強く彼の心打ったのだった。
まるで暗闇に煌々と輝くひとつ星のような彼女の言葉を、人知れず渇望していた自らの心に気がついて彼は目を細めた。
「君はそういう人間だったな。……立香」
ホームズは立香と向かい合い、その手を取ってぎゅっと握りしめた。

「ぼくは君に――本当に、会いたかったんだ。心の底から」

***

「そういえば、魔術は専門外だって言ってたのに、どうやって公会堂の結界を解除できたの?」

帰路、天候の悪い空を飛ぶヘリに揺られながらホームズと立香は身を寄せ合い座っていた。立香の質問に、ホームズはすこし決まり悪そうに答えた。

「……解析を、頼んだんだ」
「ふうん、誰に?」
「なに、ちょっとした知り合いだよ。ただの」
「ただの知り合い、ねえ……」
警戒心が強く、あまり積極的に他者と関わろうとはしないホームズに、立香の知らない知人がいること自体が不自然で、彼女は怪訝そうに顔を顰めた。
それに彼の態度もちょっぴり妙だ。これは長年のつきあいのせいもあるが、彼が立香に対して決まり悪いと感じていることがあるときや、なにか隠し事をしているときは、だいたいわかってしまうのだ。これは恋する乙女の勘だといってもいいのかもしれない。相変わらず不満そうな目つきのまま黙っている立香に、ホームズは深くため息をついた。
「ああ……もう、わかったよ。ちゃんと話すから」
機嫌を直しておくれ、と彼は肩をすくめる。彼は恥ずかし紛れに髪を無造作にかきあげ、決まり悪そうにぼそっと呟いた。
「…………ダ・ヴィンチだ」
「ええ?!うそ、ダ・ヴィンチちゃんいるの?会いたい、会いたーい!」
懐かしい旧友の名前に立香が目を輝かせると、ホームズはウンザリした顔で苦々しく言った。
「こうなるから嫌だったんだ……」
「どうして?ダ・ヴィンチちゃんはもともと仲良しだし……」
彼女(彼?)も現界しているのだというなら、会いたいに決まっている。立香がきょとんと彼を曇りなき目で見つめていると、ホームズはその間の抜けた頬をむぎゅ、と片手で挟み込んだ。
「――君はついさっきぼくの前で誓ったことを忘れてはいまいな?」
恨めしげな彼のまなざしに、立香はハテと首を傾げた。
記憶を手繰り寄せれば、不意に、彼が話してくれた不器用すぎる愛の告白がフラッシュバックして彼女はぽっと頬を染めた。

『だけどこれからも、立香にはぼくのことだけを想っていてほしい。そばにいて欲しいんだ』

「別に、ダ・ヴィンチちゃんに会ったって、他の誰かに会ったって、わたしはどこかへ行ったりしないよ」
「いいや、君は妙に人を惹きつけるところがあるからな。人脈を広げればまた余計な問題に巻き込まれかねない。そうすれば君はぼくの手を離れて別のところへ行ってしまうかもしれないだろう」
「そんなこと――――」
ない、と言おうとして目の前の彼の表情がいつになく暗く物憂げなので、立香は少しばかり面食らった。
「シャーロック……?」
心配そうに立香が彼の顔を覗き込むと、彼は力無く微笑んだ。

「相棒に大切なものができてぼくの元から去るのは、君が思うよりずっと寂しいものでね」

その言葉の意味をまだよくわからぬまま、あいまいに相槌を打って立香は彼の肩に寄り掛かり、目を閉じたのだった。