ホームズは食卓に並べられたカトラリーを手に取り、食事を始めた。
彼は空腹のままにフォークとナイフを無造作に操ったが、幼少期に叩き込まれたのであろう窮屈なテーブルマナーが染み付いたその所作は、粗雑さのなかにも隠しきれない品の良さが漂っているようだった。
しかし、冷静沈着な普段の顔を知る立香は、その荒っぽい手つきの端々から昨夜の出来事を思い出してしまい、気まずさをやり過ごすために視線を手元に置かれたモーニングプレートの中へと落とした。
「受肉して一番参ったのはこの食欲だよ」
彼は能天気に、プレートの上のトマトの切れ端をフォークで突き刺し、満足げな笑みを浮かべている。
「その点、サーヴァントだった頃はよかった。昨夜みたいに君とベッドに入れば自ずと魔力が供給されていたからね」
***
木々のざわめき、公園の大きな池、渡鳥の群れ、そしてどこまでもつづく深い霧。車窓に映る景色が、うたた寝から目覚めた立香にはるか遠い異国へ来てしまった事実を思い出させる。
人理修復保障期間カルデアの任を解かれ、日常生活を取り戻した立香のもとに時計塔からの手紙が届いたのは一ヶ月前のことだった。神経質な筆跡で綴られた英文をなんとか解読すれば、どうやら自分は時計塔に特待生として招待されたらしいことがわかった。
――来るか来ないか、選択せよ。期限は一ヶ月。
いささかせっかちな手紙の主が本物の時計塔の魔術師なのか?という疑念は、手紙に施されていた慎重すぎるほどの術式や封蝋の印を見ればすっかり薄れた。カルデアで時計塔の難儀なしきたりについてカドックから聞かされていたのがまさかこんな形で役立つとは。
立香は自分でも意外なほど迷いなく渡英を決心した。――というのも、彼女は日常を取り戻したあとも、以前と同じごく普通の一般人として生きるのか、それとも魔術師として生きるのかを決めきれずにいた。
思えば、誰かが自分を運命の輪に引き戻してくれるのを待っていたのかもしれない――と彼女は思う。
皮肉にも、命を賭し心を削って彼女が守り通したこの世界は、彼女自身が何もかもを忘れてのうのうと生きていくには、あまりに無知で無自覚な生温かい幸せに満ちていて、つい不可抗力的に他者と自分を隔てる壁を感じてしまうのだった。
霧の立ち込める初秋のロンドン市街を抜け、黒塗りの車が赤灰色の煉瓦の建物の前で停車した。促されて車外へ出ると、建物の中から守衛が出てきて車の方をチラリと見るなり状況を察したように彼女ににっこりと微笑みかけた。
守衛に連れられて二階の事務局で入学手続きを済ませると、外の廊下からパタパタと忙しない足音がして乱暴にドアが開いた。何事かと立香は振り返る。
「君か、日本から来た特待生というのは!」
汗をかいた背の低い小太りの中年男性が入口で彼女にむけて叫んだ。
「え?そうですけど……」
「ああ良かった。君にティーチングアシスタントをして欲しいとアルタモント先生がご指名なんだ。これから一緒に来てもらう」
「ティーチングアシスタント、ですか?」
ポカンとする彼女の腕を、短気そうなその男が「説明はあとだ。ついてこい」と言って乱暴に引っ張った。そのままぐいぐいと引きずられるようにして長い渡り廊下を小走りに進む。
「えっと……その、アルタモント先生って、どなたです?」
「なんだ、知らないのか」
男はさも意外そうな顔で彼女の方を振り返ると、立ち止まりバツが悪そうにその腕を解放した。
「現代魔術科の新米講師さ。ポストの穴埋め役としてエルメロイ学部長がどこからか連れてきた素性もよくわからん男なんだが――なんでも授業が面白いらしく学生のなかにも熱狂的なファンが多い。ゼミの志願倍率もいまや五、六倍は下らないだろうね」
「なるほど……?」
やはりそんな人物と面識があるとも思えず、立香が腑に落ちない顔をしていると、男も困ったように頭を掻いた。
「てっきり君は面識があるものだと思っていたがね。彼の口ぶりはそういうふうだった。なぜ異国から来た魔術師の家系でもない学生をわざわざ助手に指名するのかと尋ねたら、『彼女に会えばわかることだから』の一点張りだったんだぞ」
困惑の表情を浮かべたふたりがアルタモント講師の部屋のまえにたどり着くと、ドアの中からはにぎやかな声が聞こえた。コンコンと男が躊躇なくノックすると、開いたドアから艶やかな黒髪をツインテールにした綺麗な女の子が顔を覗かせた。彼女の姿がよく見知った金星の女神に酷似していたので、立香は目をパチクリさせる。
「あら、あなたが噂の。先生、おまちかねのお客さまですよ」
「ありがとう、ミス遠坂。……どうぞ、はいりたまえ」
奥から聞こえた聞き覚えのある声に、立香はなにか強烈なデジャヴを感じた。――ある種の予感に胸をドキドキ高鳴らせながら部屋へ足を踏み入れる。
部屋に電気はついていなかった。薄暗い部屋に窓から光が刺し込んでいる。ソファに腰掛けた学生たちが皆一斉に立香を見たが、彼女はまったく別のものに気を取られていた。
ドアの真向かいの部屋の一番奥。安楽椅子にもたれかかりパイプを燻らせる細く長い指、青白い不健康な肌、几帳面にかき上げられたオールバックの前髪、彫りの深い横顔に涼しげな目元。
「え――――」
アルタモント講師と呼ばれる謎の人物は、かつて立香がカルデアで人理修復の旅を共にした英霊、シャーロック・ホームズその人だったのだ。
思わず、ホームズ、とその名を叫びかけたが、すんでのところで思いとどまる。彼が偽名を使っていること自体が本名を明かせない事情を物語っているし、そもそも小説のキャラクターである彼がこの場に存在すると周囲の誰かに知られたら思わぬ混乱を招くかもしれない。
彼は口ごもる立香を見つめて意味ありげに微笑んだ。
「やあ。私はこのゼミナールの主宰のヴィクター・アルタモントだ。知っての通り、この時計塔で教鞭をとっている」
アルタモント講師、もといホームズが椅子から立ち上がり、立香の前まで歩み寄るとソファに座って興味津々にこちらを見ている学生たちを指し示した。
「ここに集っているのは私のゼミの学生たちだ。今は週に一度の特別演習の最中でね。さて、長旅でお疲れのところ申し訳ないが、君にはさっそく今日から私のアシスタントとして働いてもらう」
彼が立香に手を差し出した。おずおずとその手を取ると、ぎゅっと固く握られた。そのひんやりとした体温が無性に懐かしく、彼を恋い慕っていたカルデアの日々が思い起こされ、途端に泣き出してしまいそうになったので彼女は戸惑った。そんな彼女をホームズは優しく見つめかえす。
「現代魔術科魔術犯罪研究ゼミナールへようこそ。ミス藤丸、君を心から歓迎するよ」
***
特別演習、と名付けられたこの少人数授業はどうやら各人がそれぞれ研究の進捗を報告するものらしかった。
その研究というのは日本の大学でいう卒業論文のようなものらしく、学生たちの選んだテーマは過去の魔術犯罪の共通点を指摘するものから立香の聞いたこともない特殊な魔術の痕跡を鑑識する方法を研究したものでさまざまだった。演習用のスペースに思い思いに陣を描いたり犯罪現場の再現をする学生の手伝いをするために立香は忙しなく動いたが、その間もホームズはあのお決まりの両手指を顔の前で合わせたポーズのまま微動だにしない。ぼうっと焦点もなく虚空を見上げていたかと思えば、学生の報告にずはりと的確な合いの手を入れたりする。こうした刺激的な彼の言葉は、離れていた数年間を飛び越えて、あっという間に立香の心をカルデアで働いたあの日々に引き戻した。
ゼミが終わるなり、学生たちは慣れないながらも懸命に彼らの発表をサポートしてみせた立香にすっかり打ち解けた表情になって、親しげに彼女を取り囲み歓迎した。思えば、ホームズが主催するこのゼミの雰囲気は、カドックや諸葛孔明もといエルメロイII世、グレイなどの関係者から聞き及んでいた時計塔のイメージとは随分かけ離れていた。魔術師の政治的闘争とは無縁な、純然たる研究活動だけを目的とするゼミ。当然、誰も突然ティーチングアシスタントに指名された新参者である立香をエコ贔屓だと言って妬みはしない。それどころか、皆口々に立香の境遇を憐れんだ。
「先生のお守りは大変だぞ。同情するよ」
「先生は研究者としてはこの偉大なる時計塔においても第一級であることは間違いないけれど、教育者としては激しく疑問符を打たざるを得ないわ。なにか困ったことがあれば相談してちょうだい」
――とまあ、こんな具合である。
学生たちがさっさと次の講義へ向かうために狭い研究室を後にすると、部屋は急に閑散としたもの寂しい雰囲気につつまれた。
ホームズとふたり取り残された立香は、窓辺に立ち外を眺めている彼にゆっくりと歩み寄った。
すると彼がこちらを見ることなくぽつりと言った。
「久しぶりだ。ミス藤丸」
「やっぱり、本当にホームズ……なんだね」
数年ぶりの互いの距離感を掴めずに――そもそも一時英霊の座に帰していた彼がどこまでの記憶を有しているのか定かでない――立香は控えめに受け応える。本来、彼とはほとんど恋人同士のような関係を結んでいたので、もっと親しげに声をかけるべきだったかもしれないが。
ホームズの後ろでおずおずと煮え切らない態度のまま俯いていると、彼が勢いよく彼女の方へ向き直った。
「もっと驚くかと思ったのに!我々の友情はその程度のものなのか?」
「は――?」
驚いて絶句しながら顔を上げると、彼がわざとらしく残念そうな表情を作って落胆している。
「でも、あなたは……」
自分に関する記憶がないのではないか、と立香が言いかける前に彼は彼女の疑問に即座に応えた。
「ふむ。私が君のことを覚えているか不安がっているのかい?――カルデアでの出来事は、もちろん記憶しているとも」
淡く微笑みながら彼女を見つめる視線に、立香はほっと安堵すると同時に気まずさを覚えていた。カルデアでのふたりの関係は何とも形容し難く、複雑なものだったからだ。
「今回の召喚に応じた瞬間から、君を呼び寄せることは決めていた――。なにせ、頼りは君だけだったからね。私が生きた物語の中のロンドンとは違う、この現実世界の、二十一世紀という時代において――ワトソン君以外に私の助手を務められるのは君しかいないだろう」
彼の口から飛び出した単語に立香は首を傾げる。聖杯戦争にでも呼び出されたのだろうか。そして今の彼はサーヴァントではなく、生身の人間の姿をしていた。長らく英霊と渡り合ってきた立香にはその違和感にすぐ気が付いていた。おそらく聖杯の力を用いて受肉したか、それに準じるイレギュラーな方法でこの世に第二の生を受けたとみえる。
「聞きたいことは山々だけど……とりあえず期待に応えられるように、頑張ればいいのかな」
「ああ、そうしてほしい。君以上の助手を見繕うのはこのうえなく骨の折れる仕事だからね」
会話の切れ間を見計らったように定刻を報せる鐘が鳴る。壁にかけられた時計を見ると午後六時を回っていた。
「じゃあ、今日のところはそろそろお暇します。時計塔が用意してくれた下宿先に向かわないと……」
彼女はお辞儀をして踵を返した。が、とっさに強く腕を掴まれたので驚き、彼の方を振り返った。そこにはせっかちな彼女を嗜めるようなホームズの呆れ顔があった。
「それなら問題ない。君の下宿先は私が用意したのだから」
「――どういうこと?」
「君にはいろいろ手伝ってもらいたいことがある。それに、君を時計塔へ呼び寄せたのは私だ。ひととおり君の日常生活は私が保証するよ」
***
「まあまあ、アルタモント先生。今日はお帰りが早いのねえ……あら?お客様かしら」
ミスター・アルタモント、もといホームズに連れられて時計塔から車で二十分ほどの郊外にある家に着くと、玄関先で初老の女性に鉢合わせた。
「ああ、ミセス・エバンズ。ちょうどよかった。紹介しよう。こちらは日本からやってきた私の婚約者のリツカ・フジマルだ。今日から一緒に住むことになった。……立香、彼女はエバンズさん。うちの大家でなにかと身の回りの世話を焼いてくれている」
――は?婚約者?今日から一緒に住む?
あまりに衝撃的なホームズの発言に彼女が言葉を失っていると、目の前のエバンズさんが悲鳴にも似た大声をあげたので彼女はホームズを問い詰める隙を失った。
「なんですって!?良い方がいたのなら何故それを早く言わないの!そうと知っていれば私だって何度もお相手を見繕って紹介するなんて差し出がましいこと、しなくて済んだじゃありませんか」
エバンズさんはどうやら未婚の妙齢男を気遣って身の回りの世話だけでなく彼のプライベートに関してもいろいろとおせっかいを焼いていたらしい。立香はホームズに白々しい視線をよこしたが、彼は涼しい顔のまま「あなたが私の話にろくに耳を傾かなかっただけだ」と憤るミセス・エバンズを一蹴した。
それからエバンズさんはホームズとすこしばかり不毛な言い合いを繰り広げたが、所在なげにしている立香に気がつくとさすがにおしゃべりな彼女もホームズの非礼に口をつぐみ、立香の方へ向き直った。
「それにしてもまあ……なんて若くて可愛らしいお嬢さんですこと!先生にはずいぶん勿体無くてよ。あなた、親御さんに結婚相手を決められてしまったのかしら?可哀想に……」
エバンズさんは立香に同情のまなざしを向けたが、彼女の勢いに気圧されている立香はただ曖昧に微笑むことしかできない。それをホームズがやんわりと制した。
「確かに私のような男を夫とする女性は不運かもしれないが、少なくとも彼女はロンドンに来ることを自分で選択してくれた。それだけは揺るぎない事実だ」
そう言って玄関のドアを開け、立香の腰にそっと手を回して彼女を家の中に入るよう促した。
「では、エバンズさん。食事の準備をどうもありがとう。これから立香が世話になります」
ホームズの言葉に、立香は慌てて振り返り、深々とお辞儀した。
「あっえと、何卒よろしくお願いします!」
エバンズさんは立香の初々しい様子に微笑むと、困ったことがあったら何でも聞いてちょうだいね、と残してホームズの部屋の隣の部屋のドアのなかに去っていった。
メゾネットタイプのアパートの階段を登り、居間に通された立香は、焦らしに焦らされて爆発しそうな頭の中の疑問をぶつけるべく、きっとホームズを睨んだ。それを彼は心なしか愉快そうに眺めている。
「で?何か質問は?」
「何か質問は?じゃないでしょう!一体どういうこと?婚約者だなんて!わたしはあなたと結婚することになった覚えはないし、用意した下宿先ってまさかホームズと同じ家なの?」
矢継ぎ早に質問を投げかける立香を「どう、どう」と制しながら、落ち着き払った態度で彼は答える。
「まず君を私の婚約者だと吹聴している理由だが――君のような若い独身女性が男と二人きりで同居するのは外聞が悪いだろう。おまけにあの通り、厄介なことに私はこちらのプライベートに介入したがる迷惑な隣人や同僚に囲まれていてね。ミセス・エバンズなんかは婚約者の一人でも作らないと今に発狂しかねない。毎週のように飽きもせず女性の写真を見せに来ようとするんだ」
ホームズは憂鬱そうに頭を抱えた。仕草じたいは芝居がかっていたが、彼なりに参っているのが長年の付き合いの立香には見てとれた。
「つまり、わたしがあなたの弾除けになれと?」
流石の立香も呆れてため息をつく。
「あいにく、こんな頼み事ができる相手は君くらいしか思い浮かばなくてね。実際、カルデアでの我々はごく親密な関係だったと記憶しているが」
言われて、立香の心臓がどきっと大きく脈打った。
「それは……でもホームズは一度もわたしのことを恋人だなんて思ったことはないでしょう」
強がってすこし突き放した言い方をしてしまったはいいものの、語尾がわずかに震えている。それを彼は見逃しはしないだろうと思うと逃げ出したくなった。
ホームズは立香の態度にすこしも動揺していなかった。おそらくこうした問答を免れないことを想定していたのだろう。短くため息をついた後、ホームズは立香に手を差し伸べた。
「君が不安がるのはもっともだ。だけど……もし君が嫌でなければ、これからも私の側に居てくれると嬉しい。こんなことを頼めるのはこの世でたった一人の、僕の理解者である君だけだ」
そっぽを向いていた立香は、決まり悪そうにホームズをちらりと盗み見た。彼は困ったような微笑みを浮かべて懇願するように彼女を見つめている。彼は女性に何か頼み事をするとき、決まってこの甘い表情をしてみせた。この曖昧な美しい微笑の前ではどんな女性も降参してしまう。――そんなことをいちいち根に持っているくらいには、立香は彼を好きだった。
立香は大きくため息をついた。結局いつも通り調子のいい彼に乗せられている我が身の愚かさと、往生際の悪さに嫌気がさしたからだ。
「わかった。このまま時計塔で学生生活を送らせてもらう代わりに、ホームズの婚約者のフリをしながら、ティーチングアシスタントをする。これでオーケー?」
おそるおそる彼の方に手を差し伸べると、待ち構えていた彼の手のひらがぎゅっと捕まえるようにして握った。
「ああ、ありがとう。これからよろしく頼むよ、立香」
***
退屈が苦手なはずの彼との生活は、存外に単調なものだった。
毎朝、立香は二人分の朝食とランチボックスを用意する。彼はそんなことをしなくてもいい、君が疲れるだろうと眉を顰めたが、彼女は取引したとはいえ生活費も納めずに家に置いてもらうことに後ろめたさがあったので、家事をすすんで引き受けた。
ホームズの朝食は大抵トーストかビスケットを齧りながら紅茶を啜るだけの簡単なものだったが、立香が来てからは毎日サラダやベーコン、卵料理をつけるよう心がけた。最初は立香の家事労働を気にして渋い顔をしていたホームズも、いまではすっかり彼女の朝食をありがたく享受している。
朝食を済ませると教員の仕事があるホームズはそそくさと外出して午前中の講義の準備に取り掛からなければならない。その点、学生である立香はのんびりと皿洗いと身支度を済ませて時計塔へ向かえば良かったので、午前中は時間にゆとりがあった。
午前の講義を終えると、大抵はアルタモント教官の指導室へと向かい、ほとんど毎日のようにホームズ、もといヴィクター・アルタモント先生とテーブルを挟みそろいのランチボックスを広げて昼食をとる。それを目撃した学生たちが噂を広めたので、ホームズの目論見どおり、ふたりが婚約者同士の関係であることはあっという間に時計塔中に知れ渡ってしまった。
もちろん、ホームズとばかり昼休憩を共にしていたわけではない。
たいてい、週に二日ほどはアルタモントゼミのメンバーである遠坂凛から昼食の誘いがあった。彼女は時計塔の中でも指折りの優秀な魔術師で、ホームズも一目置いていたし、人目を引く美女なので同期の男性魔術師たちからはマドンナとして崇拝されてもいた。しかし同時に才色兼備な彼女を妬む者も少なくはなかった。
時計塔の権力争いや魔術師界の事情に疎い立香は彼女にとっても親しみやすい存在だったのだろう。彼女は他の人には見せない砕けた表情をいつも立香に見せたし、想いを寄せているボーイフレンドの話すら打ち明けた。立香も、ホームズとの曖昧な関係性を察して根掘り葉掘り聞いてこない凛との食事は心底穏やかな気分になれる数少ない時間だった。
ホームズはそんな女子たちの友情を眩しげに、いつも遠くから眺めていた。彼が立香たちの昼食中に話しかけてくることはなく、決まって凛と解散した後に待ってましたと言わんばかりに立香を呼び止めるのだ。
話しかけてくれていいのに、と立香が言っても、「君の数少ない友人であるミス遠坂とのランチタイムを邪魔するほど野暮じゃないさ」と濁される。
ふたりで暮らしているとはいえ、ホームズの考えていることは不可視のヴェールに包まれていた。立香は弾除け役として仕立て上げられた婚約者ではあるが、果たしてこの約束に期限があるのかすらわからなかった。何年も婚約者のままでは周囲から不審がられるだろう――その時、この関係はどうなってしまうのだろう。立香がロンドンの暮らしに馴染めているかを気にしているそぶりを彼が見せるたび、そんな疑問がふつふつと湧き起こった。
いっそカルデアにいた頃のように、彼がまた自分の身体を求めてくれたらいいのに。そうすれば愛の告白なんて無くても、形だけの夫婦を演じることだってできるかもしれない。しかし、魔力供給という大義名分すら失われたいま、彼と再び交わるなんて不可能に思えた。彼がいま立香のことをどう思っているかもわからないうえ、そもそも、彼をまだ好きだという気持ちすら、打ち明けられずにいるのだから。
休日の朝はたいてい、普段よりゆっくりと起床して遅い朝食を摂った。
テーブルには、カリカリになったベーコンやグリンピースのうえに落とされたポーチドエッグ、粉っぽいマフィンの載ったプレート、ジャムやクロテッドクリームの容器、エバンズさんが早朝に焼いてドアノブにかけてくれていたスコーンなどが所狭しと置かれている。
ホームズは湯気を立てる朝食を横目にレコードの針を落として、ゆったりと椅子に腰掛けステレオタイプのオーディオから流れる美しい旋律に耳を澄ませた。
「二十一世紀の音響技術は素晴らしい。かつて私が愛用していた十九世紀の蓄音機とは比べ物にならない音質と再現度だ」
合理主義の彼らしく、二十一世紀の技術動向にはことごとく目を通しているようで、活用できそうなものは目ざとく生活や仕事に取り入れていたので、ふたりが暮らすこの家にも家電やガジェットの類は取り揃えられていた。それでも十九世紀出身の彼なりの矜持があるらしく、独自の美学にそぐわないものには時おり苦言を呈している。
「テクノロジーの進化は興味深いが、ストリーミングサービスというのはいささか味気ない気もするね。いまだにアナログレコードを買うのをやめられないよ。あとは電子タバコなんてものは論外だ。愛煙家の敵だ、あんな不味いものは」
オーディオから流れている音楽が、ハイドンの弦楽四重奏曲第七七番「皇帝」であることは、毎週のようにホームズの音楽談義に付き合わされている立香にはすぐにわかった。
ダイニングには室内楽特有の、均整のとれた音の絡み合いが放つ独特な緊張感に包まれていた。カトラリーが食器に当たるかすかな音と、立香が本のページをめくる音以外、なんの雑音もない。
ふと、読んでいた本から顔を上げる。するとテーブルを挟んだ真正面に、目を瞑ってじっくりと音に耳を傾ける彼の端正な顔があった。
通った鼻筋、形のいい唇、彫りの深い目元に、虹のような瞼がふたつ。じっと見つめていると、なんだか胸が締め付けられるように苦しくなるのはなぜだろう。
息を呑んでその美しさに惚れ惚れとしてしまったことに気づいて、立香はあわてて再び本に目を落とす。その様子を察したホームズが、恥じらう彼女に微笑を投げかけた。
こんなふうに、たとえ同居していてもふたりの仲は初々しすぎるくらいいじらしいものだった。
しかしそんな曖昧な関係性は、ひょんなことがきっかけでピリオドを打たれることとなるのだった。