その春は永すぎて

 

「ふたりは恋人同士なの?」

ロンドンに暮らし始めて、出会った人からこんな質問を受けるのは何度目だろうか。僕は手短に決まり文句を述べた。
「恋人じゃない。……ちょっと複雑なんだ」
この返答を聞けば大抵の人間は困った顔をして曖昧に微笑み、話はこれで終わる。僕は不器用だから、きっとこれ以上は詮索してくるなっていう本心を隠しきれずに顔に出ているのだと思う。

カルデアでの任を解かれ、僕は時計塔に戻り特待生として学生生活を送っている。彼女――藤丸立香も、留学生としてロンドンの大学に編入した。
もう同僚ではないのだから、お互いに一緒にいる義務はない。それでも僕らはなんとなくこれからも一緒にいることを選んだ。

僕らは当初、敵対関係にあった。だが奇妙に縁が繋がったことと、あの閉塞的な環境で似たような立場を負わされていたこともあって、打ち解けるにはそこまで時間はかからなかった。
カルデアでの任務が終わり、彼女と離れるかもしれないという考えが頭をよぎったとき、認めるのは癪だけど――それを考えるだけで苦痛だった。

僕にとって彼女は、自分の半身のようなものなのだとそのとき気がついた。

彼女がどう思っているのかは正直なところわからない。いまだにそれを聞く勇気も持てず、ただ隣で能天気に笑う彼女を眺めて暮らしている。

「カドック、今日の晩御飯なに?」
「グヤーシュとパン」
「ああ、あの赤くておいしいやつ」

同居し始めた当初は僕の作る異国の料理を物珍しそうに見ていた彼女も、今ではすっかり慣れた様子で鍋の中を覗き込んでいる。

「ね、ご飯食べながら映画観ようよ」
「行儀が悪いぞ」
「ええ〜。ケチ」
「ワインもあるし、どうせなら食べ終わってのんびり観たい」

一緒に暮らし始めてもうすぐ1年経つが、交わすのはこんなふうに他愛のない言葉ばかりだ。カルデアにいた頃と何も変わらない。

結局、その夜は食事の後にソファに並んで映画を観た。同じソファに座っているのに、ふたりの距離は微妙に離れていて、手を繋いだりキスをすることもない。ただ隣に並んで、兄妹や友だちみたいに笑い合う――僕は必要以上に内面を吐露しないように気を張っているけど、鈍感なようでいて鋭いところのある彼女には、この迷いは見透かされているかもしれない。

さて僕は一体、彼女とどうなりたいのだろう。

心の中の靄が晴れないまま、うまく眠りにつけずに毎晩ベッドの中で考える。
いや、本当は自分の本心をわかってる。「どうなりたいのか」だなんて白々しすぎる。僕はきっと彼女とごく普通の恋人同士になりたいんだと思う。
だけど、過去の因縁によって僕らは奇妙なかたちで結びつきすぎていて、いまさら「それ」を切り出すには何もかも遅すぎる気がした。

僕らはあまりにもお互いの孤独を知りすぎていて、「恋人関係」という肩書き以外の何もかもを――心も身体の隅々までもを相手にすっかり明け渡してしまっているのだから。

***

眠れずに何度も寝返りを打っていると、コンコン、と控えめにドアがノックされた。午前1時。決して常識的とは言い難い時間だが、こうして彼女が夜中にひっそりと僕の部屋に来るのはよくあることだった。おおかた、嫌な夢を見たか、なにか不安なことがあって寝付けないか、そんなところだろう。

ドアを開けてやると、そこにはきまり悪そうな表情の彼女が立っていた。
「眠れないのか」
僕が問えば、彼女は黙って頷いた。
「ねえ、今日も一緒に寝ていい?」

僕は黙ってベッドに戻り、一人分のスペースを開けて横たわる。ブランケットの裾を持ち上げて、相変わらず気まずそうにしている彼女にベッドに入るよう促した。

すると、彼女はたちまち嬉しそうに微笑んで、ブランケットのなかに滑り込んでくると、僕の腕に包まれて子猫みたいに目を細めた。
彼女の柔らかい胸が密着する感触にも動じなくなったけれど、やはり身体の肝心な部分はそう簡単に制御できない。彼女は僕の葛藤など知らずに、甘えたように僕の胸に擦り寄ってきた。
耐えきれず、彼女の小さな顎を捕まえて噛み付くようにキスをする。彼女は従順に、唇を開いて僕の舌を迎え入れる。こういう時の彼女の体温はきまって僕より温かい。夢中になって熱い咥内をまさぐるうち、脳も舌も溶けてしまいそうになる。

「……抱いて」

僕の耳元で小さく、けれどはっきりとした声で彼女が囁く。それを合図に僕はためらいを放棄して、欲するままにその豊かな胸に手を伸ばす。

カルデアでは任務の合間に何度もこうして身体を重ねては互いを慰め合った。だから彼女の気持ちいいところも弱いところも――精神的不安や体力を持て余して寝付けずにいる彼女をへとへとにして眠らせてやる方法すら――何もかもが僕の手中にあった。

「どんな夢を見た?」
「もう……細かいところは忘れちゃった。だけどすごく嫌な夢。わたし以外、誰も世界からいなくなる……みたいな」

はは、と薄ら笑いを浮かべる彼女の瞳に暗い影が落ちる。彼女は、悪夢やちょっとした不幸な出来事に敏感なところがあった。しかし、過去を思えば無理もない。僕は彼女を抱きしめ、いつものように言い聞かせた。

「大丈夫だ。立香。ひとりにしない。何があっても僕はずっといるから」

立香はぎゅっと僕にしがみついてきた。うん、ありがとう、ありがとう。何度もうわごとのように繰り返しながら。

僕は結局、彼女の弱みにつけ込んでいるだけだ。この平穏な生活を失うかもしれないという不安が、僕らを固く固く結び付かせる。本当はもういまの彼女に僕は必要ないかもしれないのに、僕がこうして離さないから彼女はどこへも行けない。それがわかっていても僕は彼女を手放せない。どこへも行かせないし、誰にも譲るつもりはない。

彼女の肌に触れている自分の身体は暗い欲望に塗れていた。白く滑らかな肢体に手を這わせると、あちらこちらに生々しい傷跡が走っているのが感触でわかった。僕はこのうちのいくつかの傷跡が開いたところを見たことがある。彼女が傷を負う瞬間の記憶は呪いみたいに何度も僕の頭でフラッシュバックし続ける。

赤い花が咲くように身体から血が吹き出し、彼女が死を覚悟するような表情を見せたとき、たとえ苦しめてでも生きながらえさせるのが正解なのか、死なせてやる方が彼女のためなのかわからなくなった。迷いなく、彼女を救うことだけ考えてやれなかった自分の弱さを思い出して、思わず嗚咽しそうになる。

カルデアを去ったいまも、彼女の身体はどうしようもなく僕を欲情させるのに、同時に彼女を喪失するかもしれないというあの恐怖を思い起こさせた。
唇を噛み締めて、彼女の身体に覆い被さるようにして抱きしめたまま、その首筋に顔を埋めて目を閉じ、窓の外に降る雨音に耳を澄ませた。

この世の苦しみも絶望も何もかもを味わった彼女の求める幸せが、こんなにちっぽけな自分のなかにあるとはとても思えなかった。だけど僕は涙を流しながら、彼女から離れることを決意できずに、こうして無様にしがみついたままでいる。

***

翌朝。目を覚ますと、どことなく身体がだるい。まだ眠っていたいけど、昨日あれだけしたのだから立香はまだ寝ているはずだ。僕が朝食を用意しないと……。そんなことを考えていたら、ふと左肩に感じているはずの彼女の体温がないことに気がついて飛び起きる。

こんなことは今までなかった。彼女はいつも早起きだけど、昨日みたいにヘトヘトになるまでした次の日は必ず疲れて僕より遅く起きてくる――そのはずなのに。

彼女の悪夢に影響されたのか、わけもなく嫌な想像をしてしまう。
冷や汗をかきながらベッドを這い出てリビングへ向かうと、そこには着替えを済ませて朝食の用意をしている彼女の姿があった。

こちらに気がついて彼女が振り返り、後ろに束ねた赤い髪が揺れ、微笑みを浮かべるまでの数秒が、スローモーションのように一瞬も漏らさず網膜に焼きついていく。

僕は彼女の存在を確認するなり、身体中の緊張が解けてどっと脱力感に見舞われた。

「あ!カドックおはよ!今日はね、日本っぽい朝ごはんにしてみました……って、顔真っ青だけど、どうかした?」
「いや、ベッドにいなかったから……びっくりして……」

力なくソファに座り込むと、彼女が心配そうに僕の顔を覗き込みにきた。
「ひょっとして昨日のこと、心配させちゃったかな。ごめんね」
「いや、違う。立香がいなくなったかと思って焦ったんだ」
素直に言うと、彼女は露骨にニヤリとわざとらしい笑みを浮かべた。
「じゃ、次からはカドックが起きるまでベッドから出ないようにするよ」
僕はニヤニヤしたままにじり寄ってくる彼女を押し返して、放心状態のまま答える。
「いいよ。起きてるのにベッドでゴロゴロしてちゃ非効率的だろ」

食卓には彼女の故郷――日本の食事が用意されていた。なるほど、先週、日本食を扱うスーパーで熱心に食材を買い込んでいたのはこういう理由か。

「今日はやけに豪勢だな」
「なんだかたまに食べたくなる味なんだよね」

彼女は手を合わせ、「いただきまーす」と歌うように唱えると、器用に箸を使って食事を始めた。つられて僕も、どれどれ……と皿に手をつければ、なるほど美味しい。あっさりしていて、疲れた身体に染み込むような味だった。

「美味いな」
僕がこぼすと、彼女はぱっと花の咲くように微笑んで、得意げに胸を張った。
「本当?じつはね、これまで朝ごはんはカドックに作ってもらってばかりだったから、わたしもがんばろうって決めたんだ」
「別に、気にしなくてもいいのに」
「ううん。わたしがそうしたいだけ!」

苦笑しながら肩をすくめる彼女を、僕は注意深く観察していた。明るく振る舞ってはいるけれど、今日の彼女はやっぱりどことなく変だ。まるで自分と相手の間に見えない透明な壁があるようだ。

その絶妙な空気を看過すべきでないのか、それとも気にせず普段通りにやり過ごせばいいのか。迷って何も言えずにいると、彼女が唐突に言った。

「カドック、最近学校はどう?友だちできた?」
「はあ?――まぁ、普通。おなじゼミの奴とたまに話すくらい」
学校はどう?って、急に何だよ。母親じゃあるまいし。心の中でつっこまずにいられない。しかし彼女は僕の呆れ顔を気にも留めずに続けた。その顔は妙に嬉しそうでもあった。

「わたしは最近、大学で友だちができたよ!すごく可愛くて明るい子でね、カドックの話もしたら、会いたいって言ってた!」
それを聞くなり、僕は飲んでいたお茶を盛大にむせた。
「ゲホッゲホッ」
「えっ、大丈夫?」
彼女は驚いて、心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。しかしこちらはそれどころではなかった。
「なんて説明したんだ、僕のこと。っていうか、僕らの関係性について」
ようやく、これまで気になって仕方のなかった質問を投げかけるチャンスが巡ってきた。彼女はうーんと首を傾げながら答えた。
「えっと、普通にルームメイト?っていうか前の職場の先輩っていうか、わたしにとってお兄ちゃんみたいな人だよって説明したよ」

――お兄ちゃん、みたいな人。

何気なく彼女が放った言葉が、僕の心に深く沈み込む。別に、年齢の離れたカップルだってごまんといる世の中なのだから、そこまで気にするべき発言じゃないのはわかってる。だけど、もし彼女が僕を異性として見ていなかったら――家族のようなものだととらえているのだとしたら、正直、辛すぎる。

こちらの心境など知る由もない彼女は、能天気な笑顔のまま大学用の鞄からゴソゴソと何かを取り出そうとしている。
「あったあった」
彼女は小さな紙袋を手に取り、その中身を取り出した。
「これ、その友だちとお買い物に行ってお揃いで買ったんだ!かわいいでしょ」
中から出てきたのは、大ぶりなハートがあしらわれたピアスだった。
「立香はピアス開いてないだろ」
僕が指摘すると、立香はすこし照れくさそうに微笑み、紙袋の中からピアッサーを取り出した。
「そうなんだけど、それ言ったら友だちが開けてくれることになってね。今度の土曜日に約束したんだ」
忘れないように、いまのうちから鞄の中に入れてるの、彼女はそう付け加えた。

こんな話、普通ならどうってことない。ふうん、そうなんだ、といって受け流せるようなことだ。それなのに僕はこのうえなく動揺していた。彼女は昔から人懐っこいところがあって、仲のいい友人ができてもなにもおかしくないはずなのに何故だろう、僕はどうしてこんなに焦っているのだろう。

「わ、時間やばいな。そろそろ行かなくちゃ」
彼女は時計を確認するなり、慌ただしく支度を済ませて部屋を出ていった。

それきり彼女と言葉を交わすことなく、部屋にはただひとり僕だけが残された。

***

カドックはたぶん、わたしを抱くことに後ろめたさを感じている――暮らし始めて1年が経ち、自分の中に芽生えた疑念が少しずつ確信に変わっていく。

カルデアでの任務をまっとうすることは容易くはなかったけれど、わたしは任務を通して出会った人々や英霊たちとの交流を心から楽しんでいた。とはいえ、戦闘では繰り返し深傷の怪我を負い、何度も死にかけた。わたしの立場は常に孤独で、周囲から向けられる期待と重圧、未知のものに相対する不安は常に付き纏った。

わたしにはそれをまったく辛くないと言い切る強さはなかった。そんな心のなかの秘密を、ひょんなことからカドックに知られてしまったのだ。
知らんぷりして放っておくことだってできたのに、彼はわたしと積極的に関わり合うことを選んだ。

わたし自身、彼に肉体的に依存することで、自分の現実を直視しない時間を見出していたのは否めない。しかし、そんな甘さを彼は黙殺し、交わっていられる間だけはただスポイルするように抱いてくれた。

本音や弱味を晒しても彼が隣に居続けることを選んでくれたことが、わたしには嬉しくて仕方がなかった。

人理修復の長い任務を終えて、こうしてごく普通の大学生として過ごせているのはある種の奇跡みたいなものだった。
彼は優しいから、きっとこれまでのことに責任を感じて、わたしをひとりにしておけなかったのだろう。一緒に住もうと言われたとき、彼のためを思うならわたしはおそらく断るべきだった。

一緒に住むことになって、彼から誘われることはなくなった。いや、思えばいつだって求めるのはこちらばかりだったような気もする――何であれ、わたしが彼に依存しているのは明らかだった。

わたしにセックスを教えたのは彼だった。普段はちょっぴり卑屈なところもあるけれど、そのときだけは歳上のお兄さんみたいな顔をして、彼のやり方ですみずみまで暴かれ、彼の形にならされた。今ではすっかり味をしめて、わたしの身体は性懲りもなく彼を毎夜のように貪りたがる。

カルデアを去り、孤独を埋める方法は必ずしも彼である必要は無くなった。それは相手も同じだった。はやく元の生活に順応して、友だちをつくって、1人で生きていけるようになって、彼を安心させてあげなくちゃ。そう思っているはずなのに、わたしの肉体は夜毎に彼を求め続ける。こんなのはよそう、今日で終わりにしよう。そんなふうに考えていても、気がつけば次の夜も彼の部屋のドアをノックしている。

***

夕方。いつも帰宅時間はわたしのほうが早いのに、今日は帰宅すると玄関に彼の靴があった。

「ただいまー。あれ、カドックもう帰ってるの?」
玄関から呼びかけても返事はない。リビングのドアを開けても彼の姿はなく、不審に思って彼の部屋をノックする。
「カドック?いるの?」
すると中からガタガタッと物音がしてドアが開いた。
「あ――……おかえり」
ドアの影から出てきた彼の表情は疲れていて、部屋は薄暗く、ベッドにはヘッドフォンやギターやCDが散乱していた。
「ただいま。……もしかして今日、ずっと家にいた?」
「すこし、体調が悪くて」
「そうなの?大丈夫?」
わたしは彼に近づいて、熱を測るためにおでこを合わせようとした。しかし彼はわたしが近づくと怯えるような目つきになってすこし後ずさった。
「大丈夫だ、心配、しなくていいから……」
「……わかった。じゃあ、あとでなにか消化にいいもの作って持っていくよ」
「ああ……ありがとう」
彼はそう言い残してフラフラとベッドに戻っていってしまった。

彼の様子が変だ。昔から鈍いって言われてきたわたしでもさすがにわかる。しかし、どれだけ考えても明確な理由はわからない。

結局、カドックは夕食の時間になってもリビングには顔を出さなかった。パン粥をつくって彼の部屋に持って行き、ひとりで夜の時間を過ごす。

一緒に暮らし始めて、こんなことは初めてだった。彼にだって友だち付き合いはあるだろうに、わたしが家にいる夜は決まって彼も夕食前には帰宅して、一緒に晩ご飯を食べてくれた。話したいことや相談事がある日は話し相手になってくれたし、眠れない日は一緒に寝てくれた。

もし、彼が自分のことを嫌いになってしまっていたらどうしよう。ついに歪すぎる自分たちの関係性に嫌気がさしたのか。それともわたしに愛想を尽かしたか。考えれば考えるほど思考がマイナスになっていく。

結局寝付けずに、気がつけばわたしは今日も彼の部屋の前に来てしまっていた。

コンコン、と控えめにノックする。
「カドック、起きてる……?」
すると、中から小さく声が聞こえてきた。
「まだ起きてるのか」
「うん。寝る前に、すこしだけ話せない?」
「…………入れよ」

ドアを開けるとカドックはベッドに横たわったまま目を開けていた。その表情は一日中眠っていた人というより、何日も寝ていない人のように疲れて見えた。

彼がベッドの隅を開けてくれたので、そこに腰を下ろした。わたしがどう話を切り出すべきか悩んでいる間も、彼は黙ってこちらの様子を伺っている。

「あのね、わたし……カドックに言わなくちゃいけないことがあって」
勇気を持って切り出したものの、あえて口にするには気恥ずかしくなってしまい、わたしはうまく話せずにいた。
「何だよ、急に改まって」
余裕ぶっているけれど、彼の表情はみるみる青ざめていく。またきっとなにか心配事をしている顔だ。
「わたし、いつも何かにつけてカドックに甘えちゃってた。カルデアにいた頃とは何もかも状況は変わったはずのに、昔のことを思い出して不安になったり、悪夢を見たり、とかで…………その、何か嫌なことがあるといつも慰めてくれるでしょ」
わたしの言葉に、彼がごくりと唾を飲む。ふたりのあいだで、こんなふうに直接的に行為に言及することは今までになかった。暗黙の了解的に、友人として接しているときに、行為時のことを持ち出してはならない空気感があったからだ。
「悪夢が怖いのも、昔のことを思い出して辛くなるのも……本当は……ちょっと嘘なの。悪夢は確かに怖いけど、ひとりで耐えられないほどじゃない。カルデアのことを思い出すのだってそれほど辛くない。だってカルデアでの日々は――辛いことも多かったけれど、わたしにとっての青春時代そのものでもあるから」
「――なるほど?」
カドックはこちらの告白にまだどんな反応をすればいいかを決めきれない顔でわたしの話の続きを促した。
「なんとなく、カドックとそういうことをするには――大義名分っていうの?そういう、不安とか、苦しみとか……そういうのから逃れたいっていう意思表示がないと、カドックはしてくれないのかな、と思って……」
「ちょっと待て」

彼は険しい顔でわたしの発言を制した。

「お前の言ってることの意味を掴み兼ねてる。つまり、何が言いたいんだ?」
「えっと……だから、どんな不安なことがあっても、これからはひとりで耐えられます。今までわたしの勝手に付き合わせてごめんなさい。もうカドックに甘えないようにするから、わたしに気を遣わず好きなように過ごして欲しいです……みたいなかんじ?」

すると彼は、とても大きなため息をついて上半身を起こし、わたしの腕を掴んだ。

「まず聞かせてほしい。何で急にこんな話をするんだ?」
「えっ……だってカドック、たぶんわたしに怒ってる、よね?体調は悪くなさそうだけど、何だか疲れてて顔色は悪いし……理由も色々考えてみたけど、これ以外、心当たりもないし……」
いざ状況を言葉にすると、思いのほか悲しみが込み上げてきて、うっすらと目に涙が浮かぶ。それを気取られまいとそっぽを向こうとしたら、カドックに腕を引きよせられた。さすがに男性の力には抗えず、カドックの顔が至近距離に近づいてくる。
「じゃあ、もうひとつ聞かせてくれ。何故嘘をついてまで、僕に抱かれたかったんだ?」

言葉に詰まる。だが彼の瞳はいたって本気で、すこしも茶化すような気配はない。言い逃れはできない。彼にこれ以上面倒に思われたくないけれど、やっぱり正直に話すしかないだろう。身体が震えて仕方ないが、声を絞り出すようにして言った。

「カドックのことが、好きだから。男のひととして」

途端、彼が両目を見開いた。それでわたしは慌てて「でも、気を遣わなくていいよ。これはあくまでわたしの気持ちの話であって……」と訂正したが言葉は途中で途切れた。

何故なら、彼に抱きしめられたからだ。

彼はわたしの胸に顔を埋める形でわたしに抱きついていた。少し肩が震えているので、ひょっとしたら泣いているのかもしれないな、などと考えていると彼が胸の中でボソッと言った。
「よかった……」
わたしは戸惑いながら彼の背中をさすり続けている。
「カドック……?」
彼は吐き出すように言った。
「好きなのは、僕だけだと思ってた」
「えっ?」

驚いて聞き返すけれど、彼に強引にそのまま押し倒された。

「僕は本当にしょうもないことに嫉妬して、どう考えたって自分じゃ不相応なのもわかってて、自信がなくて、だけどどうしても、離したくなくて――」
覆い被さった彼が照明の灯りを塞いで、顔に大きな影が落ちる。
影のなかのカドックの瞳は獣のような鋭さをもちながら、ただ乞うように、縋るように、わたしを見ていた。

「本当に気が狂いそうなんだ。立香……」

***

「あっ……ふ、ん……」

カドックのがわたしの身体を貫いている。少し動けばみちみちと詰まったそれが最奥の好いところを抉って甘い声が漏れてしまう。
わたしたちお互い身体を起こす形で向かい合っていた。

耳元に当てられたヒヤリと鋭利な金属の感触に思わず目を細める。
「大丈夫だから、動くなよ」
カドックはどこからか持ってきたピアッサーをわたしの耳に当てていた。片方の腕はわたしの身体をがっしりとホールドしている。もうどこにも逃げられない気がして、彼が用意した金色の小さな宝石がついた美しいファーストピアスを横目に、わたしはただ緊張で肌をこわばらせていた。

積年の思いが通じあったいま、またいつものように体を重ねて睦み合うのか――そう思っていた矢先、彼が口にしたのは思いがけない提案だった。
『立香のピアス、僕が開けたい』
『えっいま?ここで?』
『ああ。ダメか?』
確かに最初は動揺したけれど、彼の目の下に滲む隈と悲壮感に同情して、つい許してしまったのだ。

「開けるぞ」
彼が言って、わたしが反応を示す間もなくパチン、と軽い音がした。針が皮膚を貫通しているはずなのに、意外なほど痛みはない。
カドックは手際良く消毒を済ませてもう片方のピアッサーをわたしの耳に当て、カシャンと音を立ててあっさりと穴を開けてしまった。

「痛くないか?出血はほとんどないみたいだけど」
「う、うん……カドックが上手だったから、全然痛くなかったよ」
戸惑いつつも笑顔を浮かべると、カドックは熱に浮かされたような顔でぼうっとこちらを見ていた。
「カドック?」
わたしが呼ぶと、彼は惚けたままつぶやいた。
「……すごく、綺麗だ」
わたしはなんだか小っ恥ずかしくなって、ちょっとだけ彼をおちょくってみることにした。
「ねえ、カドックってそういう趣味の人?……その、しながら、ピアス開けたいだなんて」

実際、胎のなかにぎゅうぎゅうに詰まった彼のペニスは、わたしが皮膚を針が貫く感触に身体を震わせるたび、むくむくと硬さを帯びていった。
しかし彼は心外そうに眉を顰めた。
「まさか。言っとくけど僕にはセックス中に外傷を負わせて興奮するようなアブノーマルな趣味はないからな。ただ……」
そういって彼は言葉を溜めた。
熱を帯びたその眼差しに焼かれて、心臓がバクバクと脈打っている。カドックの手のひらがゆっくりとわたしの肌のうえを滑って下腹部に触れた。

「ピアスも、ここも……。立香の身体に空いた穴は全部僕が開けたと思ったら、ホッとしたんだ」
彼らしからぬ発言に背筋がゾクゾクする。だけど彼が疲れきったその顔に心底嬉しそうな笑みを浮かべるものだから、その切実さに胸の奥が苦しくなった。わたしが言葉に詰まって何も言えないでいると、カドックはいつもみたいに自嘲気味に言った。
「いや、今の流石に気持ち悪かったか……?」
彼がみるみる青ざめていくので、わたしは彼にぎゅっと抱きついて訂正する。
「気持ち悪くなんかない!でも、ちょっと……いや、かなりびっくりはしたかな」
正直な気持ちを伝えると、カドックはすこしムッとした顔で言った。
「お前が急にどこの馬の骨ともわからない奴にピアスを開けさせるとか言うから」
それに関しては我が身の愚かさを恥じるばかりだ。カドックの気持ちを邪推して、誤解した挙句、友人の存在をちらつかそることで彼に依存していないことを示して安心させようだなんて――浅はかなことを考えたのは自分だ。
「わたし、カドックのこと何にも分かってなかった。本当に馬鹿だった……」
自己嫌悪に泣きそうになっていると、カドックの手がポンとわたしの頭を撫でた。
「もういいよ。だけど、立香に他の奴が触れるのはあんまりいい気がしないな」
「相手が女の子でも……?」
「カルデアで不用意に英霊の好意を寄せつけてるところを見たあとじゃ、性別なんて何の安心材料にもならないだろ」
「ごめん……」
わたしがしょんぼりと肩を落とすと、彼の腕が背中に回された。彼は細身だけど、その腕は鍛えられていて意外にがっしりとした質量を感じた。
「いいって言っただろ。それに僕らはもう……れっきとした恋人同士なわけだし」
抱きしめられていてカドックの顔はよく見えないが、彼が耳まで真っ赤にしているのがわかって自然に笑みが溢れた。だけど同時に、今まで胸の内に押さえつけていた不安が込み上げる。
「ねえ、本当にわたしでいいの?魔術師でもない、魔力もない、おまけに人理修復で身体はこんなにボロボロ……」
カドックはふ、と笑った。
「そうだな。だけどウチも名門じゃない。いまどき対獣魔術の刻印を欲しがる奴なんかいないからな。それでもいいのか?」
「……ええっと、それってお嫁さんにしてくれるってこと?」
「それ以外に何があるんだよ」
カドックの声は珍しく、どこか楽しげに弾んでいる。

恐る恐る顔を上げれば、また熱っぽい彼のまなざしがわたしを捉えた。それに吸い込まれるようにして自ずから口づける。彼はわたしを受け入れて、何度も角度を変えては長いキスを交わした。

またベッドに押し倒され、ピッタリと肌を合わせているうち、次第に体の芯が火照るように熱を帯び始めるのがわかった。圧迫されて溶けきった奥をゴリ、と舐るように穿たれると、悩ましいほどの飢餓感が下腹をきゅうっと収縮させた。

「あのね、こんな時に、はしたなくてごめん」
頭上に覆い被さる彼の顔を見上げて、わたしは懇願した。
「そろそろカドックのが欲しいの」
その言葉に、彼がごくりと唾を飲む。

カルデア時代から、わたしたちは頻繁に魔力を供給し合ってきた。もちろんカルデアには豊富な魔力リソースがあったけれど、大体任務のあとは魔力を使いすぎてフラフラしていたし、こうして肌を合わせて魔力を補うのは互いに都合が良かった。今はもう日常生活で魔術を使うこともないのに、身体がカドックの魔力の――精の味をすっかり覚えてしまって、決して褒められたものではないこの慣習だけが残ってしまった。

カドックはわたしの腹部に刻まれた紋に触れた。それはカルデア時代に彼に施された避妊のための術だった。
「魔術師の家に嫁ぐということは、胎盤を家に捧げるということだ」
「え?」
彼の発した思いがけない言葉に戸惑いが隠せない。
「僕の求愛を受けるなら、この紋はいずれ消さなければならない。その覚悟はあるか?」
真剣なカドックを前にして、わたしはまたうまく言葉にできずにいた。彼が言っていることは理解できた。だけど自分が彼の妻となることで彼に降り注ぐだろう数多のリスクも、今のわたしにはわかっていた。家柄や才能がすべての魔術師の世界で、そのどちらでもない自分が彼のそばにいる事が、どれだけ彼に迷惑をかけるだろう。
彼はわたしのそんな迷いを見透かして、震えている肩を抱いてくれた。おでこを引っ付けて、そっと勇気づけるように優しく言った。
「立香のすべてを僕に委ねて。そして、……僕のすべてを求めてほしい」
「本当にいいのかな……わたし、カドックにこれ以上迷惑をかけたくないの。だけど……それ以上に、カドックと、離れたくない」

カドックは無言でわたしの言葉の続きを待っていた。ぎゅうっと、絡まった互いの指同士が固く結ばれていく。わたしの身体はすっかり彼に明け渡されていて、奥にぶつけられるその硬さにだらしなく口を開いて、与えられるはずの温かいそれを待ち望んでいる。
もう、物事を正しく判別する力もないほど、真実を直視できないほどに、わたしも彼も絆されているのかもしれない――気が狂いそうな彼の熱い体温に、わたしは恍惚として溺れている。わたしはもう、このなかでしか生きられないのだ。

「一緒にいて、ください。わたしにカドックの、ぜんぶをください……」

涙が頬を流れていく。それを拭うように、カドックがキスをくれた。おずおずと、濡れた目で彼を見つめてみる。彼の瞳の奥の、片時も消えたことがないその強い光は、揺らぐことなくまっすぐにわたしを映している。そのことにわたしは安堵して、やっと微笑みを浮かべる余裕を取り戻した。

「ずっと一緒にいよう」

優しい、慈雨のような声が降り注ぐ。彼が放ったその一言を聞いたとき、わたしはふたりのあまりに永すぎた春に、心の片隅でひっそりと別れを告げたのだった。