迂闊だった。
そもそも自分は毎度のことながら、彼女のペースに巻き込まれすぎている。しかし、いくら注意深く距離を置いているつもりでも、気づけば彼女に心が惹きつけられてしまうのだからどうしようもない。
隣で安らかに寝息を立てて眠っている彼女は、どこにでもいる普通の女の子となんら変わらないように見える。しかし、僕が先ほどまで抱いていたその身体には無数の傷痕があり、皮膚の下の臓器は何度も散り散りに切り刻まれ、その都度つなぎあわせたものだった。彼女が流していた涙がまだ頬にうっすらと痕跡を残している。
かつて、僕は彼女を憎んでいた。彼女の存在自体が、自分のなかにある劣等感や同族嫌悪、嫉妬、焦燥、ありとあらゆる負の感情をどうしようもなく掻き立てた。彼女の存在を直視することは自分自身の無力さの証明であり、耐え難いことだった。
それなのに僕はいま、彼女に課せられた業を少しでも軽くしてやれないだろうか、共に背負うことはできないだろうかなんて――馬鹿げているのはわかっている。だけど、そんなことを考えている。
***
彼女の部屋のドアを開ける時、不規則に鼓動が早まるようになったのはいつからだろう。決定的となったのは、おそらく南米異聞体での任務中、彼女の部屋で寝泊まりをしてからだが、実は彼女を意識し始めたのはそれよりもずっと前だった。
そもそも立場上、僕は不自然なほど彼女を意識せざるを得ない状況に置かれていたし、大勢のサーヴァントを従えなければならないこの環境において、かつての同胞たちが斃れたいま、自分と境遇を同じくする人間というだけで希少だった。それは彼女にとっても同じだったに違いない。
もっとも、彼女は警戒心や嫉妬などとは縁遠い、マスター適正の観点からは激しく疑問符を打たざるを得ない能天気な人間だ。――かつて敵同士だった僕に対してくらいもう少し警戒心を抱くべきだとすら思う。
「藤丸、入るぞ」
彼女の部屋のドアをノックしたが返事はない。だがいつもの彼女のことだ、どうせうたた寝をしているか、みんなに隠れてこっそりおやつでも食べているに違いない。僕ははぁーと大袈裟なため息をついてドアを開けた。
プシューと音を立ててドアが開く。僕は部屋の中で彼女の姿を探した。そしてその先の光景に言葉を失った。
彼女はベッドの上でうたた寝をしているわけでも、物陰に隠れておやつを食べているわけでもなかった。思い浮かべていたあの屈託のない微笑みも、いまの彼女の表情からは消え失せていた。
彼女は下着姿で姿見の前に立ち、目から大粒の涙をこぼしていた。
「な――――」
予想だにしなかった状況に後ずさると、彼女は頬にポロリと涙をこぼしながら顔を真っ赤に染め上げて狼狽えた。
「あっ、ごめ、カドック……涙が、止まらな……、うまく、喋れな、の」
ひっく、ひっく、と泣きじゃくる子どもみたいに彼女の肩が震えている。勝手に入ってきた僕の方が悪いのに、ごめん、ごめん、と泣き続ける。
普段はうざったいくらいに明るく元気な彼女が、なぜこんなところで泣いているのだろう。というより、下着姿を見てしまった僕に対してもっと怒るべきじゃないか。気になることは山ほどあったが、目の前の彼女の涙はこれらの質問を投げかけることを拒んでいるかに見えた。
僕は彼女の意外な一面に驚く一方で、自分自身の無遠慮さに嫌気がさした。
彼女があまりに迷いなく自分をカルデアには受け入れてくれたから、次第に彼女との接し方に他人としての境界を見失っていた。彼女はただの同僚で、ひとりの女性だ。友だちでも家族でもないはずなのに。
「夜、おそい、から……だれ、も、来ないと……おもって」
「いい、無理に喋らなくていいから」
上着を脱いで彼女の肩にかける。目のやり場に困って目を伏せたとき、彼女が自分の腹の傷をさっと手で隠したのに気がついた。
礼装に覆われていない、彼女の生身の肌を見たのはこれが初めてだった。彼女の身体には無数の傷跡があった。
確かにこんな生活を続けていたら怪我は不可避だろう。だが、もしも普通の暮らしができていれば美しく着飾ったり恋をしたりしていただろう年頃の彼女にとって、肌に一生治らない傷跡がのこることは、きっと男の僕には想像もつかないほどの葛藤があるだろう。とはいえ、人理を修復できるのは彼女以外いなかったのだから、「もしも」なんて選択肢はない。
「びっくりした、でしょ。こんな……傷だらけで」
気まずい沈默を破るように彼女は乾いた笑みを浮かべる。僕はどんな言葉をかければいいやらわからず、頭に浮かんだ的外れな言葉をそのまま口にする。
「痛むのか」
「痛くない……いや、ほんとは、痛いのかも。……わからない」
大きな瞳からぼろぼろと涙が溢れ、肩にかけられた僕の上着を彼女の細い指がぎゅっと握っている。
泣いている彼女を元気づけてやる方法はあるだろうか。こういうとき何を話すべきだろうか。だいたい、彼女に僕がしてやれることなんて、あるのだろうか?
こうしている今も彼女はただ涙を流し続けている。自分はなんて無力なんだろう。肝心な時、僕はいつも何もできない。でも、そんなのはもう嫌だった。
「ああもう、クソ!」
僕は咄嗟に目の前の彼女を抱きしめていた。こうすれば彼女の身体が視界に入らずに済むし、泣いている人間に対してすべき行動としては間違っていないはず、そう思ったからだ。
ただ、僕らふたりの関係性を考えれば、いささか情熱的すぎたような気もする。頭の片隅で、ここにはいないはずのアナスタシアが滑稽だと腹を抱えて笑っている。
抱きしめた身体は衣服を着ていないせいか想像よりもずっと細く心許なく、震えていた。
「いつもこんなふうに泣いているのか」
彼女は首を横に振った。
「……ううん。今日、急に……」
なんとなく、この言葉は嘘だと直感的にわかった。
また沈黙が訪れた。僕はなすすべもなく、冷えた身体に少しでも熱を分け与えてやれるように彼女を抱きしめつづけた。しばらく戸惑っていた彼女も、おずおずと僕の背中に腕を回し、ぎゅっと抱きついてきた。
互いの身体がぴったりと合わさり、彼女が僕の頬に擦り寄れば、いい匂いが鼻腔を掠めた。柔らかな感触が胸に押し付けられ、彼女の小さな口から吐き出される息の音が次第に僕の思考を鈍らせていく。
ふと、彼女が顔を上げて僕を見た。僕も釣られて彼女のほうを見た。――見て、しまった。
彼女のこぼれそうなほど大きな双眸は開かれ、蜜色の瞳がいまにも溶けそうに揺れていた。彼女は何かを問いかけている。
こんなに雄弁な瞳を、僕は未だかつて知らなかった。憐れみ、期待、戸惑い。彼女のまなざしからいろいろな感情が読み取れた。
その視線は決して男に媚びてはいないのに、僕にはどうしようもなくコケティッシュに感じられてしまい、身体の中心がはち切れそうな熱を帯び始めた。雨に降られたように冷えて震えている彼女の身体の中枢にあたたかい温度を感じる。もっと深くそれに触れてみたくて――彼女の肉の味を知りたくて、くらくらとめまいがした。
糸一本の理性を繋ぎ止めている僕の心境など知らない彼女が、涙を浮かべたまま僕の腕の中で困ったように微笑んだ。
「ふふ」
「……何だよ」
僕がむっとしたからか、彼女は気まずそうに視線を泳がせた。
「ええっと……あのね、最初抱きしめられた時、カドックにキスされるのかなって思ったんだ」
「ば――――」
バカいうな、と言い返したかったが、心の中を見透かされているようで僕は絶句した。こちらが狼狽えていると、彼女はまた視線を落として腹部の傷を見た。
「冗談だよ。カドックがわたしをそんな目でみてないことくらいわかってる」
俯いている彼女は、今にも消えてしまいそうに儚かった。
ちがう。そんな顔をさせたかったわけじゃない。
泣き止ませたくて彼女に近づいたのに、結局傷つけてしまっては意味がない。彼女の肉体の誘惑に溶かされた頭で必死に考えるが、答えは出ない。
彼女の肌の匂いがむせかえるように脳を侵している。僕は耐えきれず、また衝動に身を任せてしまった。
「カドック?」
彼女が不思議そうに首を傾げている。
僕はそっと彼女の頬に手を当て、顔を近づけてゆっくりと唇を合わせた。
彼女は驚いてびくっと身体を強張らせたが、決して拒まず、すぐに目を閉じて身体を委ねてきた。
唇を合わせるだけのやわらかなキスを、何度も何度も角度を変えて繰り返した。
最初に耐えられなくなったのは彼女の方だった。彼女の薄く蕩けそうな唇からチロリと赤い舌が顔を覗かせ、それは焦ったそうに僕の唇の隙間を何度も這った。僕は相手をじっくりと焦らしてから、そっと彼女の舌を唇で咥えるようにして口の中に導いてやった。
待ちくたびれたと言わんばかりにぬるりと彼女が入ってきた。僕の方も我慢の限界で、熱く溶けそうに舌同士が交わると、頭のどこかで何かがブツンと弾けたような気がした――これはまずい、と咄嗟に唇を離す。
ふたりして、荒くなった呼吸を整えながら向かい合った。彼女は泣き止んでいるが、瞳は潤んだまま、目尻が赤い。
僕がこの先どうしようかと考えていたら、彼女が先に口を開いた。
「あのね、嫌じゃなかったら……もう一回……キスしたい」
流石にこの言葉には息を呑んだ。
「……言っておくが、この先は理性を保てる自信がないんだ」
僕は目の前の彼女がきょろんと子鹿みたいな目をしていることに次第に不安を覚えてここで言葉を区切った。
彼女は僕の言っていることがわかっているのだろうか?そもそもコイツ、きちんとした性教育を受けてるのか…?一応、釘おさしておいた方がいいかもしれない。
「つまり、キス以上のことをしてしまうかもしれないってこと。わかるか?」
「うん、いいよ」
こちらの必死の説得をわかっているやらいないやら、いつものあの馬鹿真面目な表情で、力強く頷きながら彼女は即答した。
僕はすっかり気が動転して彼女の肩を掴んで揺さぶった。
「い、意味、ほんとにわかってるのか?」
「わかってるってば! カドックとなら、その……えっちなことだって別に嫌じゃないもん」
彼女は肩にかけられた僕の上着の裾をギュッと掴んだまま、拗ねたようにそっぽを向く。
ああ……。僕がもっと成熟した大人で、彼女にとって理想的な先輩だったなら、どれだけ良かっただろう。こんな状況じゃいくら考えたって、諦めて身を引くことが一番賢い選択だからだ。しかし僕にはそれができない。
よりにもよって、彼女が弱さを見せてくれたのだから。
「カドック?」
不安そうに彼女が僕を見上げている。
「……藤丸は弱音を吐かないし、どんなことがあっても大抵いつも元気に振る舞うだろ。それを見ていると、おまえを遠くに感じるんだ。本音を知りたくても、踏み込んではいけないような気がして」
自分の本心をすりおろすことへの羞恥と居心地の悪さを堪えて、彼女に正しく気持ちを伝えるべく慎重に言葉を選ぶ。彼女は黙って僕の言葉の続きを待っていた。
「本当はずっと、弱さを見せて欲しかった。叶うなら……同じ人間として、魔術師として、すこしだけでもおまえの苦しみや孤独を分けてもらえたらいいのにって。その、だから、僕は……」
言葉はまだ続いていたがそこで途切れた。なぜなら彼女がキスをして僕の唇を塞いだから。
「ありがとう、カドック。嬉しい」
背伸びをして少し目線が近くなった彼女が笑っている。
「わたしたちの使命も、孤独も、苦しみも……たぶん誰かと共有できるものではないんだと思う。カドックが抱えているものだって、わたしには触れることさえできないから」
思いがけず彼女が冷静なことを言うので、僕は恥ずかしさで死にそうになった。顔が熱っているのが見なくてもわかる。きっと耳まで真っ赤に染まっているに違いない。そんな僕に彼女がまた近づいてきて微笑みながら言う。
「でも、こうして分け合いたいって言ってくれる人がいるから、わたしはきっと孤独じゃないね。そう思える。だから……カドック、ありがと」
彼女の腕が僕の首の後ろに回され、ぎゅっと抱きついてきた。まだ気恥ずかしさが抜けないが、彼女の豊かな身体が密着するように押し付けられ、僕のなかに再び熱がこもり始めるのがわかった。
彼女の誘惑はあまりに甘美で、自分の意識がその蜜のような肉体のなかに吸い込まれていく勢いにもはや抗うすべもなく、気づけば僕はまた彼女の唇を求めていた。
***
彼に泣いているところを見られたとき、わたしはただ――――どうしよう、まいったな、と戸惑った。きっと彼は、わたしがなぜ泣いているのかと疑問に思うに違いないけれど、理由をうまく答えられる自信がなかった。しかし結局、彼が理由を追及してくることはなかった。
二度目のキスを交わしながら、彼がわたしを抱くつもりでいることが確信に変わっていく。つい先程まで触れる決心がつかずに宙を彷徨っていた両の手は、今やあらわになったわたしの肌の上を焦ったそうに愛撫した。それでも未だどこまで強引に触れていいかを迷っている彼が焦ったくて、みずからその手を引っ張ってベッドに導いてしまった。
ふたりしてベッドに倒れ込み、普段より負荷の高い重量にスプリングがギシッと音を立てて深く沈み込む。両手指を絡め取られて身動きが取れない。カドックは何も言わずにわたしの首筋に顔を埋めている。
彼はいま、どんな顔をしているだろう。――今日、泣いているわたしを見つめる彼の表情は今まで見たことのないものだった。憐れみでも悲しみでもない。彼がよくするあの神経質な苦々しい表情とも違う。直視すれば焦げてしまいそうなほどに強い熱を帯びたまなざしが、わたしの胸の内をほの暗い喜びで満たしていった。
熱く湿った彼の舌が、わたしの首筋から喉、鎖骨、胸をたどる。人の体温に触れるのは随分久しぶりな気がして、油断するとまた涙が溢れそうになった。
「何でまた泣きそうになってるんだよ」
彼はよほど神経を尖らせてこちらの一挙手一投足を観察しているらしい。ほんのわずかの息遣いで、わたしが涙をこらえていることに感づいてしまった。
「あったかくて、気持ちがいいから」
素直に感想を述べると彼は「単純だな」と言って苦笑したけれど、その表情にはわかりやすく安堵が広がっていた。カドックはいつも自己評価が低い。わたしがカドックに触れられて嫌がるなんて、ありえないのに。
彼は上着の下に着ていたアンダーシャツを脱ぎ捨てた。そういえば彼の裸を見たのはこれが初めてだった。細身ではあるものの鍛えられたその身体に、思いがけずわたしはすっぽりと覆われてしまった。
ふたりの身体を隔てていた布が取り払われ、彼の体温に包まれた心地よさに思わず目を瞑る。
人の肌の温もりを知ることで自分が弱くなってしまった気がして、わたしは彼を誘惑したことを後悔した。生き物だから、体温があり、触れると温かいに決まってる。けれど抱きしめ合うだけでホッとして涙が溢れそうになるなんて誤算だ。ああ、知りたくなかったな。
吸い込まれるように唇を再び合わせる。互いに舌を絡ませることへの恥じらいはすっかり消え去っていた。カドックの手が背中に滑り込んできてブラジャーのホックを外し、肩紐が取り払われるとあらわになった乳房を彼が噛み付くように口に含んだ。
熱い、溶けそう、溢れそう。肌を喰まれるたびに身体の奥が潤いを増していく。夢中になってわたしの胸に顔を埋めていると思っていたカドックはやはりこちらの変化をめざとく察して、わたしの腰に巻きついている最後の下着に手をかけた。あっという間にパンツを取り払われて、ぐずぐずに濡れそぼっている秘部を見られるのが恥ずかしくなって目を逸らす。
カドックは躊躇なくそこに触れた。その表情は怖くて直視出来なかったけれど、彼が息を呑む微かな音が聞こえた。
「……濡れてる」
耳元で彼の掠れた声が囁いた。
「はしたないと思った?」
ちょっと泣きたくなりながら問いかける。彼は露骨に困ったように言葉を詰まらせたが、すぐに弁明するように低い声で答えた。
「いや…………可愛い。正直、すごく興奮する」
カドックの指が恐る恐るわたしの中に挿し込まれた。わたしの粘膜は空腹の獣のようにその指が与えてくれる刺激を欲して絡み付いた。
彼の指は何かを探すようにわたしの胎のなかをうごめいた。
臍側の内壁を彼の中指の腹が優しく撫ぜたとき、耐えきれずくぐもった声が漏れた。
「ここが好き?」
こく、とわずかに頷けば、カドックは安堵の薄い笑みを浮かべ、味を占めたように指を増やして何度も同じ場所を攻め立てるようピストンを繰り返した。そのたびにたまらなくなって情けなく喘いでしまう。彼の熱い舌が乳首を舐り、もう片方の手が優しく乳房を転がす。
わたしの身体は彼にすっかり捉えられ、逃れられない快感の渦のなかにいた。あったかくて心地よくて、このまま身体がドロドロに溶けて崩れ去ってしまいそうだった。
「……藤丸」
カドックがわたしを呼んだ。「もう、耐えられそうにない」と耳元で彼が言って、下半身になにか固いものが押し当てられる。
どっと心臓が不規則に脈打った。わたしはこれまで男の人の「それ」を触れるどころか見たこともなかった。しかし彼にすっかり溶かされた肉体は、胎のなかは、わかりやすく正直にそれを求めていた。
わたしが密かに覚悟を決めていると、彼が「あー……しまったな」と頭を掻いた。
「どうかしたの?」
「いや……急だったから、コンドーム、避妊具の用意がない」
彼が気まずそうにそっと身体を離した。わたしは彼のぬくもりが肌から消えていくのが悲しかった。
「一応、カルデアの職員になった時の支給品でもらったのあるよ」
そう言うと、また彼が分かりやすく安堵したのでわたしは笑ってしまった。
「カドックは思っていることがすぐ顔に出るよね」
「だって恥ずかしいだろ、女子にコンドームの有無を聞くの」
そう言って笑い合う。ちょっとだけ、いつものわたしたちに戻ったようだった。
毛布のなかで馬鹿話をして笑っている彼が、コンドームをこっそりしまい込んでいるチェストの一番下のひきだしを開けに立ち上がるのがわたしは嫌だった。こうして触れ合っていられる時間はずっと彼のぬくもりを感じていたかった。だからわたしはほんの軽い気持ちでわがままを言いたくなった。
「ねえ、しなくていいよ、そんなの。……どうせ、……必要ないから」
何気なく放った言葉に、カドックは表情を曇らせた。
「そんなわけないだろ」
わたしは首を横に振る。
「もともとホルモンバランスで体調に波が出ないように生理を止める治療を受けてるし、いろんな臓器が……子宮も、ね、任務中に何度もぐちゃぐちゃになってて、もう正しく機能しているかも、わからないの」
カドックの眉間の皺が余計に深くなる。わたしはそんなにまずいことを言ったつもりはなかったから、彼のその表情をどう受け止めていいかわからなかった。
「そう言われたのか、誰かに」
彼の声は震えていた。
「……え?」
「はっきりそうだと言われてないなら、まだわからないだろ」
彼の隈に縁取られた疲れた瞳から、涙がひと筋、ポロリと流れたので驚いた。
「泣いてるの、カドック」
「藤丸のことは好きだ。同じカルデアのマスターとして……尊敬もしてる。だけどおまえのそういうところは痛々しくて見ていられない。耐えられないんだ」
カドックからこんなふうに直接的に感情をぶつけられることに慣れていなくて、わたしはただ気圧されて何も言えなかった。
「そういう、ところ?」
「自分のことを、そんなふうに捨て鉢みたいに言わないでほしい」
わたしはなにも言い返せなかった。彼は長くため息をついて無造作に涙を拭った。
「おまえが自分や自分の身体をどういうふうに扱っていても、僕に口出す権利はないのはわかってる。だけど、僕にだって自分の思うようにおまえを大切にする権利はあるはずだ」
ここまで彼が言って、自分の感情にようやく整理がついた。わたしはただ、慣れていなかっただけだ。こんなふうに優しくされることにも、大切にしたいと言われることにも。
カルデアから支給される礼装にはたいてい怪我や病気、体力の消耗や外部の有害物質から受ける影響を緩和したり防ぐ効果が施されているけれど、避妊もその例外ではなかった。
わたしが女である以上、任務中に性的暴行を受ける危険性は拭い去れない。
この機能があることはつまり、わたしはカルデアから可能な限りのリスクを排除されていることを意味していると同時に、「そういう仕打ち」を受けてもやむをない存在だと暗黙の了解として認識されていることもまた同義だった。
人理を取り戻すために命を賭すことに、いまさら疑問を抱くことはない。
でもたまに、切り刻まれ修復されを繰り返している自分のうらぶれた身体を直視すると、たまらない気持ちになる。わたしは一体誰のもので、わたしは誰のために生きているのか。それが曖昧になる。今立っている場所が崩れて、底のない穴に引き摺り込まれるような感覚に陥る。
その瞬間を彼に見られたことは誤算だった。ずっと、こういう脆さを抱えていることが周囲に露呈することが怖かった。それを知ったみんなの表情を想像するのが恐ろしくてたまらなかった。
だけど彼は失望するどころか、わたしのために悲しみ、怒り、涙を流している。カルデアでの日々が積み重なり、知らず知らずのうちに自分のなかに募っていた諦念が、こんなふうに彼を傷つけるなんて想像もしなかった。つくづく、自分は最低だ。
「ごめん、カドック。ごめん…………」
わたしはまた泣き出してしまった。それを見てカドックは疲れた笑みを浮かべてわたしの髪を撫でた。
「もういいから……泣くな」
瞼にそっとキスされて、彼の温かい舌が頬の上を流れていた涙を拭った。
少しの間、抱きしめあったまま無言で見つめ合っていると、カドックが気まずそうにコホンと咳払いした。
「で……。それで、何処にあるんだ?」
***
部屋の隅にあるチェストの一番下の引き出しに、コンドームが忘れさられたようにしまわれていた。それが未開封であることを密かに喜びながらベッドに戻る。
彼女の包まる毛布に潜り込み、彼女の豊かな胸を掴んで何度も何度もキスをした。もう既にアレは限界を迎えていて、はち切れそうなほど膨張している。
僕がズボンと下着を脱ぎ捨てると、彼女がしげしげとこちらを眺めていた。
「……そんなに見られると恥ずかしいんだが」
「あ、ごめん……その、初めて見たの。男の人の、それ」
彼女はごく、と唾を飲み込んだ。
「……さわってみても、いい?」
「えっ」
いいも悪いもない。そんなの絶対的に良いに決まってるじゃないか。だけど動揺してうまく言葉にならず、僕はただ頷くことしかできなかった。
彼女がおそるおそる手を伸ばし、僕のペニスをそっと手のひらで包んだ。その手は白くてすべすべしていて触られると気持ちが良かった。彼女はしばらくペニスの先端を指先でそっとつついたり撫でたりしていたが、また不意に言った。
「ねえ……舐めてみてもいい?」
クラクラと目眩がする、なんてことだ。すごく嬉しいけど、こんなのに喜んでいるところを見られたら気持ち悪がられないだろうか。いや、彼女がここまで積極的なのは意外だったが、こちらがたじろいでどうする。
「あまり無理をするな」
「無理じゃない、興味があるだけだよ」
「…………」
あまりの気まずさに目を伏せて頷くと、彼女の舌がそっと先端に触れた。ぎゅっと目を瞑っていても、たどたどしい手つきの焦ったさから、普段は同僚として接している彼女との行為をより一層リアルに想起してしまい、僕は恥ずかしいくらいに興奮していた。
「どうすればもっと気持ち良くしてあげられるのかな……」
彼女の吐息がくすぐったい。僕は我慢ができなくなって、正直に白状した。
「唾液を……」
「唾液?」
「唾液をたっぷり口に含ませてから、裏側の筋に沿って舐めて」
彼女は神妙な顔つきで頷くと、僕の言葉に素直に従った。
温かく湿った粘膜同士が触れ合う。唾液の潤い、やわらかな彼女の唇が僕を咥え、うごめく舌が這いずり回る感触。その強い快楽の前で僕は何故か、人がセックスで果てる瞬間はどこか死に似ていると、ふと思った。
彼女の舌に導かれ、僕の意識は深い暗闇の底に沈んでいくようだった。このまま彼女の口のなかで果てて死んでしまえたらどんなに良いか――だけどそれではあまりに独りよがりすぎて悲しい。
「藤丸、ありがとう……もういいから」
限界が近くなり、彼女の顔をそっと引き剥がす。まだ物足りなそうに「もう?」と文句を言う彼女を宥めてベッドに横たえ、打ち捨てられたようにベッドの下に落ちているコンドームの箱をとって無造作に中身を取り出した。
僕がコンドームを装着するところを、やはり彼女はじっと見つめていた。僕はさっさと装着を済ませて彼女の両脚を開かせ、その間に顔を埋めた。手で解してからすこし時間が経っていたけれど、相変わらずそこは熟れた桃のように柔らかく濡れていた。
互いの粘膜に触れ合っているうち、昨日まで赤の他人だったはずの彼女の肉体がごく身近に、親密に感じられるから不思議だ。
そっと舌を奥へ奥へと挿しこむと、柔らかな果肉が僕を包みこんで、次第に自分と彼女の境界が曖昧になっていく。
彼女が僕の名前を小さな声で呼び続けている。お互いに限界は近かった。僕は身体を起こして彼女に覆い被さり、泣き止んだ彼女の赤い頬に唇を寄せて髪を撫でる。
「来て」
耳元で彼女が囁いた。彼女が腰を浮かせて僕を入口にあてがう。
僕は彼女の鎖骨から胸、下腹までをゆっくり撫で、腰を掴むと自らを押し進めていった。
ぐずぐずに溶けていた彼女の身体は、まるで沼のように僕をすっかり飲み込んでしまった。僕はあっという間に彼女の最奥へ到達した。ふと、初めてであるはずの彼女が心配になる。
「痛くないか」
「……うん、だいじょうぶ」
彼女が頬を上気させて頷く。彼女を労わりたい気持ちと、このままめちゃくちゃになるまで彼女を犯したい欲求がせめぎ合っている。それを知ってか知らずか、彼女が上目遣いに言った。
「大丈夫だから……もっとカドックの好きに動いて」
彼女の手がそっと僕の胸を撫でた。滑らかな肌の感触が過ぎる時、ゾッと心臓の血液が逆流するみたいな悪寒がした。
彼女を、僕が、好きにしていい?いいのか?ほんとに……。彼女の腰を掴む手が冷や汗をかいている。僕はただ彼女を大切にしたかった。それなのにいま、無性に彼女を求めてるなんて、虫が良過ぎるじゃないか。
怖々と、彼女の中にもう一度腰を落とす。緊張している僕とは裏腹に、彼女の中は僕を歓迎するように柔らかく開かれ、僕を奥へと導いた。僕は何度も、深く深く彼女を穿った。腰に巻き付いた彼女の脚の重みを感じる。絡ませた手指の汗や、唾液や涙や、粘膜の味やにおいが入り混じってもう誰のものかもわからない。
ふたりは呼吸をするようにキスを繰り返し、相手の身体にしがみつく。その様はすこし病的ですらあり、溺れているようでもあった。
こうして彼女を抱いていると、何故だか、世界に彼女とふたりきりで取り残されてしまったような心許なさが僕を駆り立てた。僕らはこれからどうなってしまうのだろう、これからも彼女を失わずに生きるにはどうすればいいだろう。僕はこんなにも無力なのに、彼女を愛して良いのだろうか。
このまま、この温かい暗闇の中にずっと囚われていたかった。時間なんて止まってしまえばいい。明日なんて来るな。彼女にこれ以上何かを背負わせるような未来なら要らない。
僕が悲観に暮れているのを知ってか知らずか、彼女が息も切れ切れにつぶやいた。
「ねえ、さっき……好きって言ってくれて、嬉しかった」
それを聞いてギョッとした。何気なく放った言葉を彼女に指摘されるのは恥ずかしかったし、こんな大切な言葉すら、素直に真正面から伝えられない自分の弱さが嫌だった。
「……忘れてくれよ」
僕はまた余計なことを言った。彼女は頬を膨らませて「忘れられるわけないでしょ」と怒った。
また沈黙が訪れて、僕らは無言のまま抱きしめあった。
「ねえ、ずっと一緒にいたいな……」
僕の胸の中で彼女が言った。
「ああ。僕も……そうできたらいいなと思ってる」
腕の中の彼女を抱きしめ、もう何度目かもわからないキスをする。このまま外へ出たくない。彼女のなかで眠っていたい。僕は駄々をこねる子どものように彼女の胎の奥へ奥へと還ろうとした。僕の質量をぶつけられ続けていた彼女のそこが、次第にほころびはじめるのを感じて、また気の遠くなりそうな心地よさが胸に広がった。
彼女の吐息が深まり、詰まるのを聴いた時、とどまることのないふたりのさざ波がしだいに大きくなり――僕らはその波に呑まれ、果てた。
セックスのあと、彼女は泣き疲れた顔で眠りについた。僕はその身体を綺麗に拭き清めてやり、また同じ毛布に潜り込んで彼女の隣に横たわった。彼女の身体にそっと触れてみる。温かい。僕がほっと胸を撫で下ろすと、彼女が寝言で僕の名前を呼んだ。
何故だろう。何故、こんなにも満ち足りているのに胸が千切れそうになるのだろう。
僕らはこれからも、普通の恋人にも友だちにも仲間にもなりきれずに歩み続けるのだろう。それでも僕は待ち続ける。いつか、名前のないふたりの関係に、平凡でありふれたその名前がつく日を。