細くカラフルなキャンドルの先から、パチパチと小さな花火が弾けては消える。
色とりどりの光の向こうに、瞳を輝かせている彼女がいた。
「ご卒業おめでとう」というメッセージとともに桜の花が描かれたプレートには、俺が数え切れないほどオーダーしたこの店のスペシャリテ――フルーツと生クリームたっぷりのショートケーキが鎮座していた。その周りにはいくつもの可愛らしいプティ・フールが散りばめられている。
それは、喫茶アルカードの店長が俺と彼女の卒業祝いに作ってくれた特別製のお祝いプレートだった。この店で記念日を祝う人々は幾度となく目にしてきたけれど、このプレートは他のどれとも比較にならなかった。
「二人には本当にお世話になってるし、ましてやうちの大切なスタッフと大得意の常連さんがカップルになっただなんて、お祝いするしかないからねぇ」
おじいちゃん店長は困り眉にハニカミ笑顔を浮かべて、気恥ずかしそうに早口に言う。
俺たちが歓喜の声を上げ、感謝の意を伝えれば、嬉しそうな目の横の笑い皺をくしゃくしゃにして「うん、うん」と頷いた。
俺はひとしきりプレートを写真におさめた後、ふと、彼女の方を見遣った――言葉数が少ないのが気になったからだ。
彼女は今にも泣き出しそうな顔で、俺と店長の顔を交互に見比べていた。
さしずめ、店長の小粋なサプライズに、これまでのことを思い出して感極まってしまったとか、そんなトコかな。
「だいじょうぶ?」
「うん、なんだか急に高校生活が終わったんだって現実味が湧いちゃって…」
えへへ、とはずかしそうに笑いながらも、彼女の表情にセンチメンタルな影が消えない。
店長が他のお客さんの対応のために戻っていってもなお、しんみりしている彼女の手を、二人席の小さなテーブル越しにギュッと握った。彼女の手は小さくてすべっこくて、ちょっとだけ冷たかった。
指と指がしっかり絡まって、あ、本当に俺たち恋人になったんだ、そう思って彼女の顔を見上げればそちらも同じようなことを考えていたらしく、泣き出しそうだった表情にはわずかな恥じらいが潜んでいた。
「学校ではもう会えないけど、バイトに来ればまた実くんに会えるよね」
彼女が目尻に小さな涙を光らせて、笑う。
「ん。あんたのウェイトレス姿、これからも拝めるの、サイコー」
「なぁに実くん、そんなこと思ってたの?」
「アタリマエっしょ。つーかあんた目当てにこの店に来てるヤカラの数、何気に多いんだけど」
「ふふ。実くんって、わたしが思ってたより、ずうっとヤキモチ焼きだったんだなあ」
三年間ですっかりこの店の看板娘になっていることなど気づきもしない彼女が気楽そうに笑っている。
いつもこんな様子だから、若い男性客からの熱視線にも無頓着すぎて本当に心配になる。
クラシカルな制服のワンピースから覗く、細くまっすぐな脚。キュッと絞られた腰のライン。頭の上の可憐なヘッドドレス。
はばたき市じゅうの女子を探したってあんた以上に似合う人なんていないでしょ。
そう思っても口には出さない。
プレートに載ったカラフルなスイーツをふたりで分け合いながら、マスターの淹れてくれたオリジナルブレンドを啜る。
あの卒業式から3週間。あまりに濃密な高校時代を過ごしたおかげか、俺たちの関係は特に変わらず良好だった。
何年間も俺の心を掻き乱し続けた彼女は楽しげに「恋人になれば何か変わるかなって思ったけど、高校時代もずっと一緒だったから代わり映えしないね」なんて言っている。
でも、こんなふうに彼女が安心しきった顔で笑っていられるのは、紛れもなく俺自身の努力の賜物なのだ。
俺がそんなことを考えながらひとりほくそ笑んでいると、彼女はキョトンとこちらを伺っていた。
「…実くん、どうかした?」
そんな彼女に俺はほんのすこしだけ、意地悪をしてみたくなった。
どんなにこちらが悶々していても彼女はいつだって無防備だ。それが心底、ずるいなって思うから。
「この後のこと、考えてた」
俺が言うと、さっきまで余裕シャクシャクにはしゃいでいた彼女の顔が、みるみる赤くなっていく。
その様子があまりに面白く、可愛く、あからさまだったので、俺は少し彼女に申し訳ない気持ちになりながらも、3年間の雪辱はいま、晴らされたのだ――そう思って心のどこかでガッツポーズをしていた。
マスターにお礼を言って店をあとにすると、繁華街へつづく大通りは春真っ盛りの陽気でぽかぽかと暖かかった。
陽のあたる大通りの真ん中で、彼女は赤面したり真顔になったり震えたりしながら俺の隣をひょこひょこ歩いている。
俺は、ちょっとやりすぎたかな…なんて後悔を感じながら、彼女を安心させるために肩をそっと抱いた。
「ゴメン。あんたが嫌がることは絶対しないから…そんなに怖がらないで」
耳元で囁けば、彼女はビク!と身体をこわばらせたあと、ロボットみたいな動きで首を振った。
「ちがうの!そ、そうじゃないの」
「…え」
「えと、あの、わたしもずっと、今日を待ってたの。だからいろいろ準備したり…」
「えっ!?」
「あ!なんでもない。うーーなんか色々急に恥ずかしくなってきた…」
彼女は頬を真っ赤に染め上げて、両手で顔を覆った。
その時、俺の脳内には、ファンファーレが鳴り響いていた。
もちろん、祝福の――ヨロコビと勝利の確信に満ちたやつだ。
なんてたって今日は、恋人になった彼女が初めて俺の部屋に来る日なのだから。
***
彼女が「実くんちのホームシアターで映画観たいな」と何気なく言った時、今度こそ我慢の限界だ、と思った。
俺は、やっとの思いで振り向かせた彼女を怖がらせたくなくて、正直に伝えることにした。
「…いいけど。でもあんたはもう俺の彼女なんだから、ひとりでノコノコ部屋に上がったりしたらどうなるか、ちゃんとわかった上で来て」
そう言うと、彼女はわかっているのかいないのか、
「えと……食べられちゃうとか?」
などといつものようにおちゃらけて「がおー!」と両手を出してライオンの真似をしている。
いつもこうやってはぐらかされてきた。高校時代までは。
でも今は違う。
だって彼女は――俺の大好きなあのコは、もう俺のなんだから。
俺はライオンごっこに夢中な彼女をそっと抱きすくめた。
「…みのる、くん?」
突然の出来事に、彼女はポカンと口を開けている。
「そーだよ。食べられちゃうの。…こんなふうに」
彼女の顎をクイッと上に向かせて、その唇に噛み付くように口付ける。
卒業式のキスよりも、ずっと深くて執拗なそれに、最初は易々と口付けに応えた彼女も身体を強張らせる。
夢中で薄くて柔らかい舌をしつこく追いかけ撫で回していると、彼女の吐息が苦しげに漏れた。
「も、むり…息できないよ…」
「あっ…ごめん」
腕の中は、息を上げた彼女のあたたかい体温で満ちている。
真っ赤な顔で俺を見つめるその瞳は潤み、こぼれ落ちそうなほど大粒の涙を溜めていた。
それを見た途端、急に現実に引き戻された。
――やってしまった!!
咄嗟の行動とはいえ、俺のこういう側面を知ったら彼女がどう思うかを、きちんと想定していなかった。
もし怖がらせてたら、どんなふうに弁明すれば彼女は許してくれるだろう…俺はサッと血の気が引く思いがした。
どっと押し寄せる後悔に胸を詰まらせていると、彼女は涙を溜めたまま、ほろりと笑って俺の首筋にちゅ、と淡くキスを落とした。
「…!」
俺が驚きのあまり言葉を失っていると、彼女はにっこりと微笑んだ。
太陽とか女神とか天使とか、そんな形容詞では足りないくらい、きらきらの笑顔で。
そして告げた。
「実くん、大好きだよ」
――と。
***
部屋に着くなり、ポップコーンとコーラを用意し、新調したばかりの大きなソファにすっぽり収まって、互いに身を寄せ合いながらスクリーンに映し出された映画を観始めた。
DVDが擦り切れるほど観たお気に入りのSFアクション映画を、一度も観たことがないと言う彼女に見せれば、すっかりハマった様子で手に汗を握り画面を見つめている。
「ヒドラ怖…えげつなさすぎ…」
「あー、コイツらもヤバイけど、もっとエゲツナイ敵、これからどんどん出てくるから…」
「えっっそうなの?」
――自分の好きな作品を初見の人に観せんのって、たのしーな。
そんなことを考えながら俺はウキウキとポップコーンを口に運び、コーラで口の中に残る塩気を流し込んだ。
ときおり彼女がイチゴ味のポッキーを食べさせてくれる。
――ああ、シアワセだ…。
満ち足りた気持ちで彼女にくっついてソファに寝そべっていたら、俺は知らないうちに眠ってしまったらしい。
起きた頃にはすっかり陽が落ちて、あたりは暗くなっていた。
俺はあまりのショックに胸の奥がずーんと沈んでいくのを感じた。
だって今日は、俺にとってはこの上なく特別なデートで、彼女もそのために「イロイロ」用意してくれてて…。
目の前が真っ暗になる。あー、サイアクだ、俺。
「あ、実くん、起きた?おはよ!」
彼女がひょこっと顔を覗き込む。
「マジ、ごめん…」
「ううん!実くんが寝てる間におすすめしてくれた映画2本とも観ちゃった!」
このシーンカッコ良すぎた!とかこの人推しだな〜とか、ハイテンションに映画の感想を伝えてくれる。
わかる、超面白いよね、観てくれてアリガト。でも…。
「せっかくのデートなのに寝ちゃって、ヤバイ、俺、泣きそ…」
「ふふ。実くん、わたしとのデートの前日はいつも寝てないもんね?」
「ウン…」
「わたしはちゃんと寝てほしいなって思ってるよ?」
「ハイ…」
「これからもわたしと会うたびに寝てなかったら、身体もたないよ」
「ゼンショします…」
ガチ泣きしそうなのを堪えつつ、ソファから起き上がって寝癖をなおし、メガネとアウターを探す。
時計は19時前を指していた。
いい加減家に帰してやんなきゃ、交際3週間でお義母さまに嫌われんのは流石にツラい。
俺は振り返り、彼女にそれとなく帰宅をほのめかそうとした。
「いい時間だし、そろそろ――」
その時、彼女がごそごそと荷物から服らしきものを取り出し、言った。
「あ!そろそろお腹空いたよね。ご飯つくるよ」
ぴろん、とエプロンを旗めかせ、髪をヘアゴムでしばり始める。
不意に目の前に現れたエプロン姿の彼女に、情報の処理が追いつかず目をしばたたかせた。
「…は?え?」
戸惑い呆然とその場に立ち尽くしている俺に、彼女は少しはにかみながら近寄って、服の裾をちょこんと引っ張った。
「今日ね、お母さんには花椿家に泊まるって言ってあるんだ」
「…マジか」
幾重にも重なった勘違いと動揺で、俺はへなへなとソファに倒れ込む。
それを見た彼女が得意げに微笑んだ。
「言ったでしょ?“いろいろ”用意してるって」
「いや、ホントいろいろ完敗っす…」
ふふん、と胸を張る俺の女王様は、ソファで放心している俺を置いて、鼻歌まじりにキッチンに消えていってしまった。
***
彼女が作った激辛麻婆豆腐をヒイヒイ言いながら食べたあと、ふたりでシンクに並んで洗い物をして、彼女がお土産に持ってきてくれたお手製アップルパイを食べた。
料理もデザートも美味しくて、彼女といれば楽しくて、笑い疲れて、もうシアワセでお腹いっぱいだ、そんな充足感に浸っていると、彼女がまたもやうっすらと緊張の表情を浮かべているのに気づいた。
思わずハッとする。
――そうか、今日のメインディッシュはまだまだこれからだった!
そんなおじちゃんクサイ陳腐なセリフが頭をよぎった時、彼女は毅然とした態度で「シャワー、お借りします」と一言残して浴室に引っ込んでいってしまった。
すこしして、彼女がシャワーを浴びる水音が漏れ聞こえてくるようになった。
それからふんわりと、シャンプーとボディーソープの匂いも。
俺のシャンプー、ボディーソープ。嗅ぎ慣れている匂いなのに、心なしか彼女が使うと甘いような気がする。
いつも自分が立っている浴槽の中で、彼女がシャワーを浴びている。
その事実だけで、心も体もソワソワと落ち着きがない。
思い出されるのは、プールや海で遠慮しいしい横目に見ていた彼女の真っ白できめ細やかな肌。
濡れた髪をかきあげ、ほっそりしたうなじをあらわにする彼女の姿がフラッシュバックする。
いっそのこと、浴室から出たばかりの彼女を攫ってそのまま食べちゃおうか。
いやいや、しっかり髪の毛乾かさなきゃだし、肌の保湿だってある。
それに、初めての時くらい、可愛いパジャマとかランジェリー、着たいよな。
それはそれで見てみたいし…。
俺が煩悩を大渋滞させたまま手持ち無沙汰にテレビのリモコンをいじっていると、背後にふわりと湿度のある温かくて甘い気配を感じた。
「シャワー、お先です」
そこにはパジャマ姿の彼女が立っていた。
うさぎみたいな、白くてフワフワのパーカーとショートパンツのセットアップ。
露わになった白くて細い脚は、膝や足先がピンクに染まっている。
見るからに柔らかそうで、モチモチスベスベで、あったかそうな肌の色に、思わずゴクリと喉が鳴った。
***
そこからはもう無我夢中でシャワーを浴びて(とはいえいつものスキンケアルーティーンはしっかりと)、肌触りのいいルームウェアに着替える。
ソワソワおぼつかない足取りでリビングに戻ると、彼女はソファにゆったりと腰掛けて本を読んでいた。
「あ、おかえり」
彼女は視線を本からこちらに移すと、微笑んでぽんぽんとソファを叩いて俺に隣に座るよう促し、ローテーブルに置かれたティーポットの中の熱いハーブティーをカップに注ぎはじめる。
シャワーからあがったらすぐさま……なんて考えていた邪な感情も、妙に落ち着いた彼女を目の当たりにすると引っ込んでいってしまった。
「実くん、あのね」
カップを差し出しながら、彼女が問いかける。
かと思いきや、急に戸惑った顔でしどろもどろになりながら、
「…えと、元気…?」
と首を傾げた。
それが愛おしくも可笑しくて、「どした?」と笑いまじりに返せば、彼女はいたって真剣な表情のまま、こちらに向き直った。
「わたしは、実くんを不安にさせてるのかな」
「…え」
「ずっと気になってたの。実くんがデートのたびに寝不足なこと」
「それは…」
「デートのこと考えてたら眠れなかった、ってよく言ってるでしょ」
彼女がずい、と俺の膝の上に身を乗り出す。
「笑ったり誤魔化したりはダメだよ。今日のわたしは本気モードです」
彼女のくりくりっとした大きな瞳がこちらを真っ直ぐ見つめている。
それがあんまり綺麗だったから、口付けようと顔を近づけたら「キスも答えるまでダメ!」と両手でグイと抵抗されてしまった。
「わかったわかった。…コーサンする」
俺が両手をあげると、彼女が呆れ気味に肩をすくめた。
あーあ、どんな顔しててもなんでこんなに可愛いんだろうな。
俺の惨めったらしい本音、伝えても嫌いにならないでいてくれるかな。
恥ずかしさと情けなさでちょっと泣きたい気分だったけど、今日の彼女は適当な返事じゃ満足してくれないだろう。
「笑ったり誤魔化したりしない、余裕のない俺でも好きでいてくれんのなら、答えよっかな」
自嘲気味に俺が言えば、彼女は「何だ今更」と言わんばかりに顔をしかめて、
「どんな実くんも大好きだから、今こうして恋人になったんでしょう」
と、ぷりぷり怒っている。
その表情もずっと見ていたいくらい可愛くてたまらなくて、頬がゆるむような、泣きたいような、ベッドの上を転げ回りたいような気持ちになる。
「…好きすぎて、必死なだけ、たぶん」
少し、声が震えた。思わず口元を押さえる。
「…え?」
「どんな場所に行って、何話して、何食べて…どうすればあんたの心の中に、1秒でも長く残ってられるのかなって、考えてた。あんたが他のことしてる時も……カザマや他の誰かと会ってる時も、俺のこと考えててくれたらいいのになって」
「そんなこと、考えてたの…?」
「ウン」
「でも、わたしはいま実くんの恋人でしょ…?」
「そ。だから、今は前よりはマシ、かな」
彼女はうーんと唸り、考え込んだままだ。
一方で、俺のリミッターはそろそろ限界だった。
無防備に肌をさらけ出し、ボディークリームの甘い香りをさせた彼女が、スイーツよろしく食べてくださいと言わんばかりに俺の上に身を乗り出している。
俺はたまらず彼女の細い肩を引き寄せ、その赤く染まった頬に口付けた。
「ちょ、ちょっとまって」
「ゴメン。もう待てない」
「わ!」
逃げようとする彼女を抱きすくめてソファに押し倒す。
非力な彼女はいとも簡単に組み敷けてしまった。
両手を押さえ、口をはくはくさせているその耳許で囁く。
「好きすぎて必死なの、ちゃんと白状したでしょ」
そう言うと、短く息を飲む音が聞こえた。俺は構わず続けた。
「だから、ごほーび、ちょうだい」
彼女は何も言わなかった。
ただ、うなずいた拍子にさらりと髪の毛が揺れる感触だけが、肌を伝ってきた。
***
浅く、深く。何度も何度も角度を変えてはキスを交わす。
最初は恥じらっていた彼女も夢中になって俺の背中にしがみついている。
絶え間ないキスに、彼女がいっぱいいっぱいになりながら応えてくれるのをいいことに、俺はすこしずつ彼女の服を脱がせていった。
あれよあれよと言ううちにランジェリーだけになってしまった彼女を堪能したくて、しばしキスを解放し、身体を上から見下ろした。
真っ白できめ細かく、乳白色の艶を帯びている肌をそっと撫ぜる。
胸と腰には、繊細なレースの可愛いランジェリーが心許ない様子で巻きついていた。
彼女は長いキスに息を荒げ、胸を上下させている。
その様子があまりにもなまめかしくて、俺は目が離せなかった。
「――キレイすぎ」
口をついて出てきたのは、そんな月並みな言葉だった。
彼女は目をギュッとつぶって、俺の愛撫を受けている。
眉間にシワ、寄ってるな。あ、睫毛長い。ムネは、ジミにおっきいな…。
そんなことを逐一考えながら、俺の手のひらですっぽり覆えてしまいそうな彼女の小さな身体をゆっくり撫でまわしていると、
「実くん、ニヤニヤしてる」
薄らと目をあけた彼女が疎ましそうにこちらを見ていた。
「ん。あんたが可愛くて、見てた」
言いながらも、手は止めない。
スベスベで柔らかくて、吸い付くようにきめ細かくて。――ああ、もう待てない!
「…ね、脱がせていい?」
怖がらせないように、とびきり優しい声で、彼女に訊く。
彼女は目を伏せたまま、ゆっくりと頷いた。
彼女の可愛い下着は、いとも簡単に外れてしまった。
そっとブラジャーの紐が彼女の肌を滑り落ちていくとき、俺の中の何かが壊れた。
「……」
「実くん…!泣いてるの」
彼女が心配そうに俺の顔を覗き込む。
「…へ?アレ、なんで、俺、涙――」
ひとすじの涙が、勝手に頬をつたった。
ずっと好きだった彼女と肌を合わせていること、意識もトんじゃいそうな目の前の刺激的な光景、けれど俺の胸の内に湧き出ている感情は情欲や劣情なんてコトバだけじゃ片付けられなかった。
尊くて、繊細で、壊れやすく美しいものを愛おしみながら、けれど必死に掻き抱くような、そんなキモチが、胸いっぱいに広がっていた。
「大丈夫…?」
心配そうに俺を見つめる彼女が、手のひらで俺の頬を包んだ。
「なんていうか、こう…尊いなって」
「ふふ。いきなりどうしたの?」
彼女はくすぐったそうな笑顔で、俺の額にちょんとおでこをくっつけた。
たまらず彼女の桃色に染まった頬に口付ける。
「ん……ダイスキ」
「うん…」
俺の言葉に答えるように、彼女は両腕をまわしぎゅっと抱きついてきた。
――ああ、天国ってこんな感じなのかな。俺、今ならしんだっていい。
***
遮光カーテンの細く空いたスキマから、太陽光が燦々と差し込む。
その眩しさに目を細めると、自分が裸のまま寝落ちてしまっていたことに気がついた。
腕の中では、同じく裸のままの彼女がちょっとぐったりしたような表情ですうすう寝息を立てている。
思わずギョッとして周囲を見渡した。
「や、やらかした…?俺…」
昨日の夜のこと、実は途中からあまり記憶が定かでない。
――確か、あのあとお互いにヘンなスイッチ入っちゃって、3ラウンドくらい付き合わせちゃったような…!?
彼女のカラダが心配だ。
恐る恐る彼女の顔を覗き込むと、彼女も「うーん」とうなって目を覚ました。
「あ、実くん、おはよぉ…」
あくび混じりに言い、寝起きの顔がほにゃりと笑う。
あまりに自然体な彼女の様子に、こわばっていた心も一瞬でほどけてしまった。
「おはよ」
「ふふ。実くんの寝癖って、新鮮」
「あんたもね」
クシャリと頭を撫でれば、子猫のように俺の手のひらに擦り寄ってくる。
「…よかった、あんたが起きた時、俺のことを嫌いになってなくて」
ほっとして、思わず素直に本音が漏れた。
「どうして?」
「昨日、ムリさせちゃったから」
「ううん。……わたし、幸せだったよ」
彼女の言葉がうれしくて、たまらない気持ちで、もう何度めかもわからないキスを交わす。
唇が離れた時、彼女が言った。
「昨日の夜ね、幸せを噛み締めたくて、実くんが寝落ちちゃった後も、ずっと実くんの寝顔を見てた」
「…え。俺、ヤるだけヤってあんたほっぽって寝たの…?マジサイテー…ゴメン…」
「あ、いやいや、落ち込まないで!」
彼女が慌てたように手を振った。
そしてぽつりと言った。
「…実くんが幸せそうに寝てたのが、なんだか嬉しかっただけなの」
俺は一瞬ポカンとしたが、よく考えたら昨日の夜は彼女を抱くことに必死で、寝る前になにも余計なことを考えなかったな、と思い返した。
「あんたがそばにいてくれたら、俺にはなんの不安も、怖いものも無くなるのかもしれない」
俺の言葉に、彼女はまたあのキラキラの笑顔で応えた。
「もし、また眠れない日があっても大丈夫。だってこれからはわたしが、ずっと傍にいるから!」
やけに自信満々な彼女のドヤ顔に、「じゃ、いっそここに住んじゃえば」と耳打ちすれば、面白いくらいに彼女の顔が真っ赤に染まる。
先ほどまでの勇ましさはどこへやら、弱々しい声で「考えときます…」とボソボソつぶやいて俺の胸の中に顔をうずめてしまった。
そんな彼女を愛おしみながら、それでもやっぱり眠れない夜はこれからも来るだろう、と思った。
だって、彼女と過ごす日々はあまりに鮮やかで、めまぐるしくて、大切で――眠るのも惜しいほど、こんなにもたくさんの眩い瞬間にあふれているのだから。