白いチョークで規則正しい大きさの文字が書き連ねられていく黒板を、ショウは頬杖をついてぼうっと眺めていた。
不意に、スカートのポケットの中でスマートフォンが僅かに震える。その感触に彼女は先ほどまでの退屈そうな表情から一転、ぱっと瞳を輝かせた。
周囲に気取られぬよう、何食わぬ顔で板書をとるふりを続け、教科書に隠れてこそこそと届いたメッセージの内容を確認する。
『害獣駆除完了。のちほど後藤さんが鹿肉をくれるそうなので、商店で野菜を買って帰ってください』
今日の仕事が終わったのだろう。内容はただの業務連絡だったが、ショウを舞い上がらせるにはじゅうぶんだった。
ポケモンのいない世界にウォロとふたりで飛ばされてきてから、はや半年――最近ついに、ウォロがスマートフォンを使うようになった。
好奇心旺盛な彼のことだ、すぐに使いたいと言い出すかと思いきや、「四六時中誰かから連絡が来るなんて、気が休まらないじゃないですか」と妙に冷めたことを言い出した。
ショウも最初は彼の意見を尊重し、無理強いはしなかった。
しかししばらく生活していくうちに、互いに連絡手段がないのは合理的に考えて不便だと言う結論に至った。
それで結局彼も購入することを承諾したのである。
おまけに先日、彼女は積年の思いを彼に告げ、ふたりは晴れて恋人同士――にきわめて近しい関係になった。
とはいえ、大きく変わったことは何もない。
半年も一緒に住んでいるのだから、確かにヒスイにいた頃よりは彼について知っていることは増えたものの、ふたりの間には依然として薄いヴェールのような膜があって、肝心なことに限ってお互いの本心を曝け出すことができずにいた――特に、ウォロという人間には謎が多すぎた。
だから、なんであれ彼とのコミュニケーション手段が増えたのは彼女にとって喜ばしいことだったのだ。
彼女は画面をタップして、うきうきとメッセージに返信する。
『お仕事お疲れ様です! 野菜は鍋用ですか?』
さりげなく語尾に可愛い絵文字をつけて送信すれば、即座に返事が届いた。
『授業中ではないのですか? 鍋用です。』
第三者が見ればそのメッセージはひどくそっけないものに思えるかもしれない。
しかし、「授業中ではないのですか?」という一文すら恋する乙女には嬉しいのであった。
そのあといくつか短いやり取りを繰り返し、『授業はちゃんと聞いてください』という彼のメッセージが届いた頃にチャイムが鳴った。
授業が終わって生き生きとした表情を浮かべるクラスメイトたちに紛れて、密かに心を弾ませながら帰りの支度をした。
今日は部活も休みで、いつもより彼の帰りも早いようだ。
仲のいい友人たちの誘いも断って、商店へと急いだ。
***
ショウが「ただいまぁ」と元気よく玄関のドアを開けても、返事はなかった。
いつもたいてい「おかえりなさい」と返してくれる彼は在宅のはずなので、ちょっとだけしょんぼりしながら靴を揃える。
居間に向かうと、ウォロが誰かと電話をしている声が聞こえてきた。
「はい、はい…ええ、問題ありません。明日なら融通も効くかと――はい、問題なくお届けできると思います」
おそらく仕事の電話だろう。
ショウが音を立てないようにそろりそろりと引き戸を開けると同時に電話が終わった。
「ショウさん、おかえりなさい」
ウォロが振り返り、ショウに笑いかけた。
「ただいま…お仕事の電話ですか?」
「はい。急な話ですが明日、泊まりがけで遠方に資材を運ぶことになってしまいました」
「泊まりがけ…?明日の夜は帰ってこないってことですか?」
「まあ、そうなりますね」
何食わぬ顔であっけらかんと言う彼に反して、ショウの心はずぅんと沈んでいった。
明日は土曜日。一緒に過ごせると思って楽しみにしていたのに。
「どこに泊まるんですか?」
「車中泊。…になるかと思っていたのですが、伊藤さんとこの娘さんがご好意で屋敷の一室を貸してくださるそうで」
「伊藤、さん…」
ショウの表情がみるみる暗くなっていく。
しかしウォロにはその理由がピンときていないようで、「たった1日です。そんなに寂しがることもないのでは?」と涼しい顔をしている。
そんな彼に向かってこれ以上不満をぶつける気にもなれず、ショウは食事の準備を始めることにした。
大家の後藤さんからもらった鹿のブロック肉をウォロが器用に薄くスライスし、鍋に放り込んでいく。
おしゃれな人ならかたまりのままローストしてフレンチ料理などにするらしいが、ふたりはなんとなくヒスイにいた頃の野営の名残で肉を鍋料理にすることが多かった。
ぐつぐつ煮えている鍋の底を眺めながら、ショウが口を開いた。
「伊藤さんって、綺麗なひとですよね」
唐突な彼女のひとことにウォロはすこしばかりポカンとしたあと、なるほどそういうことか、としたり顔でほくそ笑んだ。
「ひょっとしてショウさん、妬いてます?」
そんなウォロの態度が気に食わず、ショウはそっぽを向いた。
「別に!」
強がってみるが、意地を張れば張るほど隣のウォロがくつくつと肩を震わせて笑うので余計に不愉快だ。
「もう!妬いてないったら!」
頬を膨らませたまま、彼女はすこし涙目になっている。
ウォロにはその理由がわからなかったが、年頃の乙女の情緒を介せない彼ではない。彼はそのまま気を利かせて何も言わなかった。
***
先日、ふたりが暮らす村では地元の神社でささやかな祭りが執り行われた。
村の手伝いをして生計を立てているショウとウォロは当然祭りの手伝いに駆り出されたわけだが――ショウは村の女性たちと一緒にひたすら台所仕事、ウォロはもっぱら力仕事や村の老人たちの酒の付き合いをさせられた。
そこでショウは伊藤さんの娘さんに会ったのである。
「ねえ、ショウさんとウォロさんって、どんな関係なの?」
彼女は19歳で、今年大学生になったばかりの若く美しい人だった。
「えっと……なんていうか、家族というか、遠い親戚、みたいな……?」
ふたりが天から落ちてきたことは村の一部の人々しか知らなかった。
だから普段はアパートの大家である後藤さんの遠縁ということで通っている。
ショウがこんな曖昧な返答で怪しがられないか不安に思っていると、彼女はホッとしたように笑った。
「なぁんだあ!じゃあ、恋人じゃないのね」
そう言われ、また言葉に詰まった。
確かに恋人ではないけれど、毎晩狂ったように睦ごとを繰り返す自分たちを思い返せば、それは彼女が望む状況でないことは明白だ――。
ショウはなんとも言えない気持ちで彼女の反応を見ていた。
「まあ、ショウさんはまだ16歳だものね。ウォロさんとは不釣り合いかもしれないわね」
わたしったら早とちりね、と気さくな表情で言ってのける彼女に、ショウはただ力なく笑った。
それから彼女にいくつかウォロのことを尋ねられたが、ショウはなぜだか心がざわついて、思うように答えられなかった。
たったそれだけのことだがこの一件以来、ショウは彼女の名前を耳にするとわけもなく憂鬱な気分になってしまうのだった。
***
翌朝、ウォロは資材を調達するためにいそいそと出かけていった。
ショウはその晩寝付きが悪く、まだまだ寝ていられる時間にも関わらず一緒に起きて彼のためにおにぎりを作ってあげた。
出かける間際にそれを手渡すと、彼はてっきり彼女が自分で食べるのだと思っていたらしく、目を丸くして驚いていた。
ショウは、こういう彼の他人にまったく期待を抱かないところをいじらしくも、すこし焦ったく思う――彼がもっと普段から自分をあてにして頼ってくれたなら、ふたりの関係性はもっとわかりやすいものになり得たかもしれないのに。
しかし、いくら嘆いたところで状況は変わらない。
彼女は胸中に渦巻く雑念をふりはらうために、一心不乱に部屋中の掃除を始めた。
床、換気扇、窓のサッシ、洗面所の鏡。普段は手の回らない箇所まで、念入りに。
どれだけ熱心に手を動かしてもどこか心はイライラして落ち着かない。
ヒスイにいた頃ならバクフーンたちといっしょにおやつでも食べて気を紛らわせていたかもしれないが、いまは気分が沈んだ時に会いたくなる誰かが身近にいるわけではなかった。
頭の中で、彼女の声が何度もリフレインした。
『ウォロさんとは不釣り合いかもしれないわね』
ショウはそのたびにブンブンと頭を振ったが、その言葉が彼女の心の柔らかい部分を何度も抉った。
実のところ、彼女が想いを打ち明け彼がそれを受け止めたとて、ふたりの関係に大きな変化はなかった。
ふたりきりで過ごす時にすることといったら、大抵はどちらかが眠ってしまうまで絡み合うばかりだ。
しかしそれはふたりの関係性が変わる前から同じだったので、その事実に特別な意味を見出す気にはなれなかった。
同級生の友人らが楽しげに話している「恋人同士のデート」だってしたことはなかったし、彼がそういった話を仄かしたこともない。
彼と歳が近くて美しい女性なんてこの世にはいっぱいいるし、そのなかには自分よりもっと上手く彼の内面に寄り添うことができるひとがいるのかもしれない。
考えるだけで息が苦しく胸が痛くなった。
忙しく家事をこなしているうちに夜が来たので、昨日作った鍋の残りを温め直してひとりで食べる。
彼は今頃あの娘さんに食事を振る舞われているだろうか。
明るく能弁で美しいあの人は彼にあれこれ話をするだろう。そんな彼女を彼は気に入るかもしれない。
彼がいない夜の食卓は嫌に静かで、彼女はこれまでのことをあれこれ思い出しては悲観的になって、食事が喉を通らなかった。
食器を片付けて風呂に入り、さっさと就寝してしまおうと布団を敷いた時、ショウは「あ」と短くひとりごちた。
いつもの癖で間違えて2人分の布団を敷いてしまったのだ。
思えばこの部屋でひとりで食事を摂るのも眠るのも初めてのことだった。
月経が来ているわけでもないのに彼から求められないというのも妙に物寂しく空虚な気分になる。
けれどこればかりは彼に絆されすぎていると考え直してショウはぎゅっと目を瞑って布団をかぶった。
その晩、浅い眠りの中で何度も切れ切れにヒスイにいた頃の夢を見た。
原野を駆けるさわやかな風の匂い。
隣を歩く背の高い彼を何度も見上げたこと。
彼のトゲピーが草原に咲く花々に戯れてはしゃいでいたこと。
ショウに牙を剥き『打破せよ』と叫んだ彼の声。
そして、敗北した彼が姿を消し、二度とわたしの前に姿を現さなかったあの日々のこと。
走馬灯のように情景が巡る中で、彼女は無意識のうちに叫んでいた。
「ウォロさん!」
自分の声に驚いて目覚める。
すると身体の上に温かく重い何かがのしかかっていることに気づいた。
おまけに身体はぐっしょり汗をかいていて、不快なこと極まりない。
「なんですか、急に」
ショウの身体に絡みついていた大きなものが眠たげに返事する――彼だ。
想像だにしなかった事態に彼女は一瞬で眠気が吹き飛んだ。
「ウォロさん!?どうしてここに?」
目を凝らして暗い部屋の壁時計を確認したら時刻は午前5時だった。
「アナタが、何度電話しても出ないから」
暗闇の中でぽつりと告げられた言葉は不満げな響きを含んでいた。
ショウがマナーモードにしたまま枕元に置いておいたスマートフォンを慌てて確認すると、夜の22時から24時ごろにかけて着信が10件もあった。
彼女がはやく就寝してしまったので彼の着信に気づくことができなかったらしい。
「……ひょっとして、心配して帰ってきてくれたんですか?」
ショウは彼女の腰にぎゅっと腕を回して抱きついたままのウォロの髪の毛をそっと撫でた。
彼は彼女の問いかけには答えず、また眠そうに大きなあくびをひとつしながら答えた。
「ぶっ通しで運転したので疲れました。寝ましょう」
小さな子どものように彼女の膝に顔をうずめたままこちらを見ない彼がどんな表情をしているのかはわからない。
けれど不安に押しつぶされそうだった心はすっかり軽くなっていた。
彼女は再び布団に入ると、彼の腕の中に収まった。
そのままふたりは泥のように昼近くまで眠ったが、ショウがもう一度夢を見ることはなかった。
***
11時過ぎに目が覚めた。うららかな春の光がカーテンから漏れ、大家の後藤さんが草刈り機を使う音に紛れて小鳥たちが囀っている。
ショウは彼に抱きしめられたまま眠っていた身体を布団の中でぐっと伸ばした。
「…起きましたか」
隣でウォロが寝ぼけ眼でショウを見ている。
よく見ると彼は寝間着にすら着替えていなかった。疲れ果てていた彼は家に着くなり雪崩れ込むようにして彼女の布団に入ったのだろう。
ショウは今朝の出来事を思い出し、思わず微笑んだ。
「何を笑ってるんです」
彼からじとっとした目つきで睨まれても、ショウはなおも笑いつづける。
「ふふ、ちょっと嬉しいだけです」
そんな彼女の言葉にウォロは気まずそうな表情を浮かべてむくりと身体を起き上がらせ、ガサガサと鞄のなかを漁り出した。
そのなかから小さな紙袋を取り出してショウに差し出す。
「これ、どうぞ」
ショウも戸惑いながら身体を起こしてそれを受け取った。
封をしていたテープを外して中身を確認すると、3色のネイルポリッシュとリムーバーが入っていた。
「……わあ!」
それはつい先日、ショウが買った雑誌に載っていたネイルポリッシュだった。
彼女が次に街へ出た時に買いたいからと大きく赤のマーカーでマルをつけていたのを彼は見ていたらしい。
この村にあるのは小さなスーパーや商店だけで、ドラッグストアやちょっとした雑貨店すらもすこし遠出しなければ行くことができないのだ。
「せっかく街まで出たのに、手ぶらで帰るのは癪でしょう」
色は独断で選んでしまいましたが…と澄ました表情で窓の外に視線を逸らすウォロに、ショウは嬉しくて飛びついた。
「ウォロさんありがとう!すっごく嬉しい」
「大袈裟ですね」
彼は相変わらず涼しい顔をしているが、頬が心なしかうっすらと赤みがかっているように見えた。
「一緒にいない間もウォロさんがわたしのことを考えてくれたことが嬉しいの」
紙袋を大切そうに胸元でぎゅっと抱き締めている彼女を眺めながら、彼は深くため息をついた。
「だいたいアナタは言いたいことがあるならちゃんと言葉にしてください。夢の中で名前を呼ばれるのは落ち着きません」
昨夜の出来事がフラッシュバックして、ショウは顔を赤くした。
「それは…なんだか昨日はウォロさんがもうここには戻ってこない気がして……そしたら悪夢を見てしまって」
「何故」
本当に意味がわからない、と言った顔で呆れている彼を前に、ショウはまごつきながら小声でつぶやいた。
「いえ……伊藤さんのお嬢さんは美人だし、明るくて素敵な人だから……」
我ながら他愛ない嫉妬心だと思う。
ウォロは心外だと言わんばかりに肩をすくめた。
「ワタクシはアルセウスに選ばれし英雄を妻に娶り、古代シンオウ人の血を引く子を産ませるつもりでいるのに――何故余所の女にまで手出しする必要があるんでしょう」
気だるげながらも彼がさらりと言ってのけた言葉にショウは目を回しそうになった。
妻に娶り、子を産ませるって……。
口をはくはくさせたまま何も言わない彼女に彼がにじり寄った。
「ワタクシが昨夜慌てて帰った理由、アナタにはきちんと伝わっていないようですね」
彼は敷かれたままの布団の上へ彼女を押しやり、そのまま覆いかぶさった。
「わ!ちょっと、ウォロさ…むぅ…」
今はてっきりそういう雰囲気にならないと油断していた彼女がジタバタ暴れるので、ウォロは彼女の両腕を押さえつけ唇をふさいだ。
「いつでも連絡を取れるようにとスマホを持たせたのはアナタのくせに、電話ひとつ寄越さずに寝てしまうなんて酷いじゃないですか」
銀色の目がショウをジロリと見下ろしている。
彼がそこまで心を掻き乱されていただなんて考えもしなかった彼女は、ただ面食らったように彼を見つめ続けている。
「てっきりワタクシのいない間を狙って誰かがアナタを夜這いに来たのかと思って、気が気ではありませんでしたよ」
「よ、ば、い…」
耳慣れぬ言葉を反芻し、ようやく「夜這い」だと意味がわかったときには不機嫌そうな彼にすっかり見ぐるみ剥がされた後だった。
「そんなふしだらなこと、してません!」
そもそもそれ何時代の話ですか!とショウは顔を真っ赤にしたままウォロに訴えるが、彼は相変わらず機嫌が悪い。
「じゃあ、いまからじっくり確認させてもらうこととしましょう」
そう言って彼はショウを組み敷いたまま、ペロリと唇の端を舐めた。