とん、とん、とんと包丁が規則正しく野菜を刻み、鍋からは湯気とともに出汁の柔らかい匂いが立ちのぼっている。
この世界に来るまで料理なんてろくにした覚えはなかったけれど、食べ物に頓着しない彼との暮らしはショウに生活の術としての料理を覚え込ませた。
いまこの小さな家の台所に漂う「家庭らしさ」の濃厚な気配は、所帯じみた姿などまったく想像がつかない彼との生活が築き上げたのだ――と思うと、ショウは急に感慨深くなった。
ちっぽけで、孤独で、いつわりだらけのままごとのような彼との日々。
それでも、ショウにとってはどんなひと時すらも零さず胸にしまい込みたいほどに、鮮やかで余白のない、尊いものだった。
時々、かつて自分が家族と暮らしていた家や、ヒスイで別れた手持ちポケモンたちのことを思い返すと泣きたくなってしまうけれど、決してどちらかへ帰りたいなどと思わない自分の救いようのなさに苦笑する。
「どうかしましたか」
仕事に疲れて居間でぐったりとしていたウォロが、怪訝そうに彼女の後ろから回り込んできた。
「わあ!」
突然彼の顔が目の前に現れ、驚いて彼女が大きな声をあげる。こうして彼が背面をとって驚かせようとしてくることはよくあった。
文句を言おうとしたが、咄嗟に言葉が出てこない。
挙句の果てに
「包丁を使う時に上の空になるのは危ないですよ」
と注意されてしまった。
「ごめんなさい。……夕食は、もうすぐできますから」
ショウがしおらしく言えば、彼はすこし安堵したように一つ息をついて、
「シャワーを浴びてきます。どうも獣くささが気になって」
と着替えたばかりのまっさらなTシャツの袖を「スン」と嗅いで風呂場に向かっていってしまった。
彼は今日、村の男の人たちと一緒に早朝から害獣駆除に駆り出されていた。
泥だらけになった作業着で帰宅した彼はいかにも疲労困憊といった様子で、チャイムを押すなりショウが慌てて玄関のドアを開けるまでその場で呆然と立ち尽くしていた。
驚いたショウが水を濡らしたタオルを彼に手渡してやると、ハッとした顔で「あ、どうも」と返事をしてゆっくりと頬についた土を拭きはじめた。
彼は身体が小さくまだ高校生のショウと比較して、村の男衆に混じって力仕事を任されることが多かった。
ヒスイにいた頃、こんな泥臭い仕事は彼というよりはむしろショウの役割だった。
日々の面倒ごとをのらりくらりとやり過ごし、しょっちゅう仕事をサボっては遺跡を巡っていた彼は、今のこの暮らしを窮屈だとは思わないのだろうか。
そもそも彼は、いつまでこの暮らしを続けるつもりでいるんだろうか。
ギラティナと対峙した時のように、ある日突然姿を消してしまわないだろうか。
そんな不安が胸の内に湧きあがっても、それを口にすることはない。
共同生活を送ってはいるが、互いの本心やプライバシーにずけずけと踏み入ることはしない。
ウォロとショウの関係性にはそんなドライさがあった。
夕食後、ショウがシャワーを浴びて居間に戻ると彼はちゃっちゃと布団を敷いて横になっていた。
「ウォロさん、寝ちゃった?」
ショウの問いかけに返事はない。
大きな背中に遮られ、彼の表情を見ることはできないが、きっと眠ってしまったのだろう。
ショウは自分の布団にぴったりとくっついている彼の布団にこっそり移動して、その大きな背中に身体をくっつけた。
温かくて、骨張っていて、筋肉に触れると少し柔らかい。
ふと、そんな実態のともなった彼の気配を噛み締めながら、彼が自分のそばにいるという事実に涙が出そうになる。
ショウは彼の背中に額をくっつけたまま、積み重ねてきた彼との暮らしの一瞬一瞬の出来事に思いを巡らせた。
しかしそれらは、あくまで時間の断片に過ぎず、どれだけ大切に思っていても忘却の彼方に消え、埋没してしまう日々の出来事の多さにまた胸が締め付けられそうになった。
いつか、彼と過ごしたこの日々のことも遠い記憶になって、彼も自分のことを忘れてしまうだろうか。
彼の背中に顔をうずめれば、うちで使っている柔軟剤とボディソープの匂いのなかに、彼特有の匂いが混じっていた。
それは初めて彼が彼女を抱いた時に知ってから今の今まで変わらない、彼がそばにいる証のようでもあった。
ふと、悲しみに暮れている胸の内に、また違った強烈な感情が混ざりはじめていることに彼女は気づいた。
夜、彼の匂いとともにやってくる快感を思い出して肌はこわばり、胸がどきどきして、下腹の奥の方が疼いている。
ウォロとはもう一週間近くセックスをしていなかった。彼女が生理だったから。
いつもはたいてい、オオカミのように腹をすかせた彼が今か今かと待ち構えていて、生理の終わりを告げるなり貪るように彼女をすっかり食べつくしてしまうのだが、今日の彼は疲れ果てていて、そんな無理をするほどの気力は残っていないようだ。
彼女はゆっくりと自分の寝巻きを着崩した。
ショーツをずらして、秘部に指を這わす。
深まる宵闇のなかで、そこだけが彼から与えられる極楽を期待してじっとりと濡れている。
今日は疲れて眠る彼を邪魔しないように、この欲求をひとりで処理してしまわなければ。
大きさも密度もなにもかもが違うが、彼のかたちを意識して指を自分の空白に埋めてみた。――が、案の定、彼がいつも掻き回す奥までは届かず、胎がくうくう切ないばかりで満ち足りない。
それでも身体の中をぐらぐらと這いずり回っている欲求を宥めるために悪あがきを続けることにした。
息を潜めて、自分を絶頂に導く糸口を探るうちに、すこしずつ息が荒くなる。
彼女はそのことにすら気づかずに、なんとか心地良くなれる場所を見つけて、彼のことを思い浮かべながら密やかな自慰に耽っている。
「……っ、ふ、」
かすかな息が口から漏れた。
なんとも控えめな絶頂を迎えた彼女は、息を荒げたまま、熟れた果実のなかからぐちゃぐちゃになった指をずるりとひき抜いた。
――そのときだった。
目の前の大きな背中が寝返りを打ち、彼の大きな手のひらが瞬く間に彼女をがっしりと捉え、至近距離に彼の顔が寄ってきた。
「――えっ?」
ショウは驚きのあまりぽかんとした。
しかし瞬時に状況を理解してカーッと顔が熱くなる。
腹を空かせたオオカミは、どうやら眠ってなどいなかったらしい。
「ね、寝てたんじゃないんですか?」
「まさか。そうやすやすと眠るわけないじゃないですか――こんな日に」
こんな日、というのはたぶんショウの生理が終わった日という意味だろう。
ショウは驚愕と羞恥の狭間で、口をはくはくさせていることしかできない。
「でも、アナタが勘違いをしてくれたおかげでいいものが見られました」
「いい、もの?」
捕食者に見入られた小動物のように怯え切った目でショウが聞き返すと「そんなのわかりきっていることでしょう」とうっすら開いた彼の目がギラギラ光った。
「あなたのささやかで、たどたどしい自慰行為のことですよ」
彼の生ぬるい息がショウの肌を撫で、ゾゾゾ……と悪寒が走る。
ただでさえ恥ずかしくてたまらないが、それよりもこのあとどんな仕打ちが待ち受けているかを考えるだけで血の気がひいた。
「あ、あの、これは……」
無意味な弁明が、言葉になる前に消え去った。
情けなく声は震え、肌は鳥肌を立てている。
彼女の顔を覗き込んだまま、ニンマリした笑みを浮かべ続ける彼が言った。
「怖がらなくてもいいですよ。ただ……あまりにお粗末な自慰で、可笑しくなったので」
「え?」
怪訝そうにショウが顔をしかめると、彼がおもむろに彼女の脚をつかんだ。
「これからきちんと教えてあげましょう。アナタがちゃんと気持ち良くなれるやりかたを」
抵抗する間もなく、グイ、と脚を開かれた。
ショウは驚き呆れて目をまんまるくしている。
彼女からしてみれば、とてつもなく恥ずかしいところを見られたうえ、それを「お粗末」だなんて揶揄われ、踏んだり蹴ったりである。
ウォロの眼前には、一度の絶頂を経てぐずぐずと熟れたショウの果実が晒されている。
毎晩彼の太い肉茎が何度も貫いているはずのそこは、そうとは思えないほどに未だ初々しく、桃色の美しい肉壁をひくつかせて艶かしく彼の劣情を煽った。
しばらくセックスをお預けにされていた彼は、首をもたげて熱っぽくこちらを見上げるショウの表情の可愛らしさや、自慰ですっかり潤っている彼女の秘部が抵抗さえできずにさらけ出されているのを目の当たりにし、パブロフの犬のごとく湧き出でた唾液を飲み込んだ。
このままぶち込んでやろうか、などと頭の中にひしめく雑念を振り払い、彼はおもむろに目の前の彼女の秘部に顔を埋めた。
「ひゃ!」
驚いた彼女が短く悲鳴を発した。
彼は気に留めずに、彼女の新芽のような小さな突起を目掛けてぬらりと舌を這わせた。
「ふ、んっ……あぁっ……!」
じゅる、と彼の唇が新芽を吸い上げ、長く骨張った指が彼女の肉壁を擦った。
「〜〜〜っあ゛ッッやだやだやだっ!!!イ…くっ」
大きな波が押し寄せ、腰を浮かせてガクガクとまるでその威力を逃すように震わせた。
強い刺激に身体をくねらせる彼女を満足げに眺めながら、
「どうです?先ほどとは比べものにならないくらい善いのでは?」
と不敵に笑っている。
彼が与えるものは、彼女をゆるやかな絶頂に導いた先ほどまでのささやかな行為とはなにもかも違う。
チカチカと眩しくて鮮烈で、頭の奥が痺れるような快楽。
はー、はー、と肩で息をしている彼女の顔は涙でべしゃべしゃに濡れていたが、お構いなしに彼は続けた。
「ショウさんも触ってみてください」
「……っは、え……?」
「気持ちいいところ、教えてあげたでしょ?」
ショウは露骨に困った顔をした。
それがまたウォロの加虐心をじわじわと刺激する。
彼女が生理になるたびに、ウォロはまるで拷問を受けているような気分になる。
家の中では彼女はすっかり油断していて、その若く瑞々しい美しさがしばしば垣間見えるときはいつだって正気を保つのがやっとだし、それどころか、彼女はいつだって好んでウォロとくっついて眠ろうとした。
彼女の体つきはまだ幼くはあったが、彼が腐心してたくさん食べさせているおかげもあって、抱くと柔らかく肌はすべすべと滑らかだ。
彼が気が狂いそうになっているのをよそに、彼女はすっかり安堵した顔でぐうぐう眠っている。
そんな彼女の寝顔に、機会あれば復讐してやりたいと何度悪態を吐いたことだろう。
「ほら、ひとりでもちゃんとできますよね?」
笑っているように見える彼の瞳の奥には炎がゆらめいていた。
「恥ずかしい思いはもうしたでしょう。一度も二度も大した変わりはありませんよ」
ショウはいやいやと首をふるが、ウォロはやはり諦めきれずショウの手を取り、焦ったそうに彼女の秘部に充てがった。
「後生ですから」
彼がすこし困ったように眉をひそめた――が、口元は笑いを堪え切れておらず、猿芝居であることは一目瞭然だ。
しかし、すっかり溶けきったショウの意識はそれを見破ることすらできないように混濁していた。
執拗な彼に抵抗することにも疲れて、観念したショウがついに指をつぷりと埋めた。
たっぷりとした蜜が肌にまとわりつく感触に、あられもない姿を彼の前に晒していることをまた自覚させられる。
しかしそんな羞恥すらも彼が望んで彼女に与えているのだと思えば麻薬のように彼女を昂らせた。
ぬちゃ、ぐちゃ、と彼の形を精一杯模した指が抽送を繰り返して、親指で欲望のままに新芽を押し潰す。
「っあぁ……!」
耐えなく嬌声が漏れ、恥ずかしさにまたぽろりと涙が溢れた。
このアパートの壁は厚くない。住人は少なく角部屋のこの部屋の隣も空き部屋だが、もしこの声を聞かれていたら村では仲の良い兄妹のフリをしてきたすべての努力が水の泡になる。
ウォロは瞬きもせずに目を見開いて、彼女の痴態を網膜に焼き付けていた。
投げ出された彼女の脚の内側をさする手つきは獲物の品定めをする肉食獣のそれだ。
ショウは目の前の現実から目を逸らしたいのか、彼に見られながら自慰をすることによる異種の快楽のせいなのか、次第に視界がぼんやりと霞んできた。
彼女の腰を、ウォロの大きな手のひらががっしりと掴んで押さえつけている。
そんな強引さとは裏腹に、乱れる彼女を見つめる彼の目つきは珍しいくらいに優しく恍惚としていた。
ヂュ、グチュ、といやらしい音がどんどん大きくなって、脈打つ身体の音がうるさいくらい頭に響いている。
「は、ぁ………!」
無我夢中で臍側の内壁を擦り上げると、痺れるような快感がゾクゾクと全身をめぐった。
達している瞬間、バチリと目の前の彼と視線が合った――どきりとしたが、いやに真剣で、愛おしげにこちらを見つめる彼のまなざしに、恐怖というより甘いときめきを誤飲してしまったような不思議な感覚に陥った。
ショウがあいかわらず肩で息をしていると、彼女の荒い呼吸を飲み込むように、彼がガブリと口づけた。深く、熱っぽく、欲情でぐちゃぐちゃになるまで舌を絡ませあった。
「――もう、我慢できません」
そう言って彼が寝衣を着崩して、うつくしい胸板が露わになった。
ひた、と手のひらを彼の肌に這わせれば、久しぶりに肌を合わせられることの嬉しさと恥ずかしさが込み上げてきて火照った身体がゾクゾクと震えた。
コンドームの袋が千切れる音がして、数秒もしないうちにみちみちと圧迫感をともなって彼が入ってきた。
ショウはこれ以上大きな声を出してしまわないように息を殺した。
しかし、彼はがっしりと彼女の腰を掴んだまま、一心不乱に腰を打ちつけ始めた。
普段のじわじわ刺激を強めていく情事とは違って、あまりに性急な彼の動きにおもわず喉の奥から呻き声が漏れる。
「ちょっ……もっと、ゆっくり――」
「溜まってるんです。だから一回、出させてください」
ショウの息も絶え絶えの非難は一蹴されてしまった。
彼女が相変わらず狼狽えたままでいると、彼が耳元に唇をくっつけてきて囁いた。
「心配しなくても、いっぱいしてあげますよ」
その嘲るような声に、ショウは先ほどまで彼を労って無理をさせまいと考えていた自分の馬鹿さ加減に肩をすくめたくなった。
ただ、余裕がないのは本当らしく、彼はすぐに果てた。
彼は眉間に皺を寄せたまま、萎えることのない己からずるりとコンドームを抜き取って、ぱんぱんに白い粘液が詰まったゴムの容れ物の口をキュッと縛ってショウの腹の上に乗せた。
「1週間も我慢してたんです。どこかの誰かさんと違って、ひとりで慰めることもできずに」
その言葉に、ショウの頬がみるみる赤くなる。
途端、彼は揶揄うような微笑みを浮かべた。
「かわいいですね、ショウさん」
「……やめてください」
「すっごく、かわいいですよ」
「やめてったら!」
他愛無いやりとりの最中も器用に手を動かしていた彼があたらしいコンドームを装着し終えると、ふたたび彼が胎内にもぐりこんできた。
たしかに、こうして一糸纏わぬすがたになってひさしぶりに彼と肌を吸い合わせているのはとても心地が良かった。彼と抱き合っていられるこの幸せの前には、天も地も、人も神も、呪いや祈りだって、何もかもが無意味だ――そんな奔放な快楽が頭を麻痺させて、気づけばあっというまに堕落した毎夜の行為に没頭させられてしまうのだ。
腹の上には、精液の詰まったコンドームがひとつ、またひとつと増えていく。
ショウは自分の心を曇らせている彼への不安がまたいつものように飲み込まれてしまうのを恐れた。
複雑な表情のままでいるショウを、彼は揶揄われて機嫌を損ねたのだと思っているらしかった。
「機嫌、直してくださいよ」
ショウは目を伏せて首を振った。
「ちがうんです」
「じゃあ、なぜさっきから目を合わせてくれないんですか?」
ショウはこれ以上気持ちを胸の内に押しとどめることも無意味に感じて、正直に白状することにした。
「えと……ウォロさんは……わたしのこと、ずっと忘れないでいてくれますか」
彼女が言い終わるなり、彼は堪えきれずに吹き出した。
「はははっ」
その反応にまたもや彼女はムッとして頬を膨らませた。
しかし彼はおかしくてたまらないとでもいうように笑い続ける。
「何を言い出すかと思えば」
彼は狐のような目をさらに細め、満足げに彼女の顔を覗き込んだ。
「アナタをそう易々と忘れられるなら、ワタクシはさぞかし楽になれるでしょうね」
***
翌朝、誰かが扉を叩く音で目が覚めた。
また裸のまま気絶するように寝こけていたふたりは慌てて周囲に散らばる衣服をかき集め始める。
ウォロが気だるげにTシャツとスウェットのパンツを身につけて玄関へ向かった。
「ふたりとも、おるかね?」
扉の向こうで大家の後藤さんの声がする。
「はあい、どうしました?」
眠たげに目を擦りながら、ウォロが大きな声をあげて玄関先の後藤さんに応えた。
少し間をおいて彼が扉を開けると、大きな麻袋を持った後藤さんがいつもの人の良さそうな笑みを浮かべて立っている。
麻袋の中ではなにかが忙しくうごめいていた。
「おはようさん。今から合鴨絞めようかと思ってな。手伝ってくれんか」
「え……」
ウォロが呆気にとられていると、後ろからひょこっとショウが顔を出した。
「わたし、鴨南蛮食べたい!」
その無邪気な微笑みに、後藤さんがうんうんと頷いた。
ウォロは相変わらず複雑な表情で動き続ける麻袋を眺めていたが、「食い気があるのはいいことですね」と諦めたように微笑んでショウの意見に賛同した。
鴨の精肉を終えた頃にはすっかり昼過ぎになっていた。
「ちょっと……煙草、吸ってきます」
昨夜の無理が祟ったうえ、朝っぱらから苦手としている後藤さんに呼び出され、さらに生き物を屠るというストレスフルな作業の三重苦にげっそりと青い顔をしたウォロが、力なく言って台所を後にした。
どことなく覇気のない彼の背中を見送った後、後藤さんとふたり台所に取り残されたショウは、流れるような手つきで3人分の蕎麦を用意する後藤さんにぽつりと問いかけた。
「ねえ、後藤さん……ウォロさんはここでの暮らしを楽しんでいると思う?」
「さあねぇ……。ただ、村の人はみぃんな、ウォロくんを好いとるよ」
「そう?」
「そうさね。ウォロくんがショウちゃんをとっても大切にしとることは、みんなわかっとるからねぇ」
「え!」
――ウォロさんが、わたしを……?一体、何をどう見たら……
訝しげな表情で考え込んでいるショウを見つめたまま、後藤さんは少し眩しそうに言った。
「そうやなぁ。例えば……食事を摂るとき、彼をじっくり観察してみることやね」
「……食事?」
相変わらずキョトンとしている彼女に、後藤さんはなにも言わずにこりと微笑んで頷くだけだ。
「何、話してるんですか?」
「ひゃ!」
知らない間に帰ってきていたウォロがぬっと顔を出す。
彼はにこりと微笑んでいるがその声はあからさまな怒気をはらんでいた。
さしずめ、自分のいないところでショウと第三者の話題が弾んでいたことにムッとした――とか、そんなところだろう。
側から見ればこんなにわかりやすく嫉妬心を曝け出しているのに、当のショウに愛情を素直に示せるほど器用ではないらしい。
ふたりのやりとりを見ていた後藤さんはやれやれと苦笑しながら肩をすくめた。
***
湯気を立てる3人分の鴨南蛮蕎麦がちゃぶ台に並んでいる。
ショウもウォロも朝から水以外なにも口にしていなかったので、すっかりお腹が空いていた。
「美味しそう!いただきまーす!」
そう言って手を合わせた時、ショウの頭に先程後藤さんと交わした言葉がふとよぎる。
『食事を摂るとき、彼をじっくり観察してみることやね』
そんなことを急に言われてもピンとこなかったうえ、お腹もペコペコでさっさと蕎麦を食べてしまいたい。と思ったが、一応ダメ元で蕎麦を口に運ぶ直前ちらりと彼の方を盗み見てみた。
きっと彼も昨夜からの今朝の重労働ですっかりお腹が減っていて、脇目も振らずに蕎麦にがっついているはずだ――と思ったが、意外にも彼は箸すらも持たずに頬杖をついてじいっとこちらを見ていた。
「ウォロさん?食べないの……?」
ショウが怪訝そうにウォロの顔を覗き込むと、彼ははっと我に帰ったように箸を持った。
「いえ、食べますけど……」
返事をしたものの、箸を待ったままぼうっとこちらを見つめている。
ショウはそれを不思議に思ったが、お腹が空いていたので蕎麦を食べ始めることにした。
熱々のおつゆに浸かっている麺をふうふう冷まして口に運ぶと、鴨の油が染み込んだネギの風味が口いっぱいに広がって思わず頬が綻んだ。
「美味しい!」
彼女が食事のおいしさを噛み締めながらふとまたウォロの方をちらりと見遣ると、どうやらずっとこちらを観察していたらしい彼は短くため息をついてようやく蕎麦に手をつけ始めた。
「旨いですね」
涼しい顔でずずずと麺を啜る彼の、特に何かを話しかけてくるでもない無言のジリジリした視線を肌で感じる。
――これっていつも、なのかな……?
ふたりで食事を摂るときも彼の言葉数は少ないので、ショウは黙々と食事に集中することがすっかり癖づいてしまっていた。
うーんとショウが頭を抱えていると、丼のなかの蕎麦の上に、幾切れかの鴨肉が載せられていることに気がついた――好物なので、ショウは自分の分を最初に全部食べてしまっていた。
はっとして顔を上げるとウォロがせっせとショウの丼に自分の肉を運んでいる。
「えっ?ウォロさんもお腹空いてるでしょ?」
驚いて彼の手を制するが、彼は聞き入れない。
「好きなんでしょう。ならたくさん食べた方がいいです」
「でも……」
「常々思っていたのですが、ショウさんは食が細すぎます。もっと食べてしっかり肥えてください」
彼がじろりとショウの身体を胸から腰まで一瞥した。
その思惑を知るなり、ショウは顔を真っ赤にして目を見開いた。
「太るのは、嫌!」